空虚な時間が流れていく。ずるずると、何も手につかないまま、月日だけが無意味に消費されていく。

待っても待っても、レグルスは帰ってこなかった。わたしとクリーチャーに残されたのは、金色のロケットだけだった。それは蛇の紋章が彫られていて、サラザール・スリザリンゆかりの品だと一目でわかるほど美しいものだった。
てのひらに乗せると、そのロケットはまるで生きているかのように拍動しているのがわかった。背筋がぞっとする。なにか良くないものだと、わたしの本能が告げる。

「レダクト!」

わたしは杖を振って、砕きの呪文を発動させる。ロケットはそれをあっさりと反射させると、金色に輝いた。

「ノラードイグリタス!ディフィンド!……っ、どうして…!」

割れよと唱えても、裂けよと唱えても、ロケットは黄金に煌くだけ。クリーチャーが妖精の魔法を使っても、かすり傷ひとつ付けられない。

さま…」
「クリーチャー、レグは他には何も言わなかったの?どういう呪文を使えとか…」
「はい、レグルス坊ちゃまはクリーチャーめにただこれを壊すようにと申されました」

クリーチャーが申し訳なさそうに言い、いいのよ、とわたしは返す。
レグルス、わたしたちどうすればいいの?それだけの言葉じゃわからないよ。教えてよ、レグ。ねえ、帰ってきてよ。さみしいよ。レグルス。


おばさまや他の死喰い人の方々にはどう説明をしたのか知らないけれど、レグルスは死喰い人を抜けようとして殺されたのだ、という話になっていた。うそだ、うそだよ、レグはそんな理由で死を受け入れたんじゃないよ。わたしは心の中で反論するけれど、この声は誰にも届かない。

「なにをメソメソしてるんだい。レグはあたしらを裏切ったんだよ、そんな奴のために涙なんか流すもんじゃないよ!」

ベラは、そう言う。本当は隠れてこっそり泣いていたのはみんな知っているけど、誰もそのことは言わない。おばさまも、クリーチャーも、シシーも、みんな泣いた。みんな、レグルスの帰還を願った。ねえレグ、あなたはこんなに愛されてるよ。


そうして徐々に、ブラック家は荒廃していく。シリウスは家を去り、レグルスは家人たちにとって不名誉の死を遂げた。そしておばさまにとって決定的だったのは、おじさまと、おばさまのご兄弟であるシグナスおじさままで亡くなられたことだった。
おじさまたちが亡くなられたのは、レグルスがいなくなってすぐのことだった。すべての純血の一族が出席して、お葬式は盛大に行われた。わたしはおばさまの横でおじさまたちを見送った。ブラック家を支え、継いでいくはずだった女として、恥じないように。そしてシリウスは、来なかった。

おばさまはまた昔のようにヒステリックになった。わたしは屋敷から追い出されることも覚悟していたけれど、そうはならなかった。今度こそ、八つ当たりする相手が必要だったからだろう。

「どうしてお前はレグルスを止められなかったの!この恩知らず!誰が拾ってやったと思ってるの!」
「お義母さまです、すべてお義母さまのお力です。わたしは悪い嫁でした、ごめんなさい、お義母さま」
「お前に母などと呼ばれたくもない!この恥知らず!」
「仰る通りです、すべてわたしの至らぬ結果でございました」

おばさまは毎日、おなじことを言う。かつての栄華を懐かしみながら、かつての暖かい家庭を思い出しながら、たったひとり残った卑しい家からの義理の娘を、歪んだ愛情で縛る。
シシーやベラは、うちにおいでと言ってくれた。マルフォイのお屋敷や、レストレンジのお屋敷で暮らせばいい、と。わたしはそれを丁重に断った。まだブラックのお屋敷にはおばさまがいる。クリーチャーもいる。わたしには、レグルスの意志を果たす役目が残されている。


レグルス、もしもどこかでわたしの声を聞いているのなら、どうか教えてください。どうしてあなたは、わたしにこんな大役を残したのですか。どうしてわたしを連れて行ってはくれなかったのですか。


わたしとクリーチャーに残された道は、ほとんど無かった。レグルスの意志を果たすためには、障害が大きすぎた。

まずわたしとクリーチャーが独力でこのロケットを壊すという道は、実現できる可能性が絶望的なまでに低い。誰にも知られるな、というレグルスの指示を守ることは出来るけれど、それだけだった。ロケットを壊せなければ、レグルスの死は報われない。

ロケットを、不死鳥の騎士団に預けるという道もあった。そうしてレグルスが作った道を、彼らに提供する。それはきっと、ロケットを壊すという目的を達するのに一番の近道になるだろう。だけどそれは同時に、レグルスを裏切ることにもなる。騎士団には、シリウスが、居るから。
そしてもし、騎士団側が敗北するという結果でこの戦争が終結したとき、今度こそブラック家は制裁を与えられることになってしまうのは日の目を見るより明らかだった。
そうじゃない。そんなことをしたって、なんの意味もない。レグルスの死は、報われない。



レグルスは18歳で時間を止めて、いつの間にかわたしは彼と同い年になり、シリウスは21歳になった。
わたしは、最後の可能性に、賭けることにした。



ウィルトシャー州 マルフォイ邸。つい最近、跡継ぎとなる男の子が産まれた屋敷に、わたしは来ていた。その子の名前は、ドラコ。未来のマルフォイ閣下だ。まだ生まれたばかりなのに、ルシウス先輩にそっくりだった。きっとハンサムな子に育つだろう。ブラック家の遺伝子は、まだ絶えていない。小さな子どもの中で、まだ息づいている。

さま、旦那さまがお呼びです。すぐに居間へお越しください」
「わかった、すぐ行くわ」

割り当てられたゲストルームで休んでいたわたしのもとへ、しもべ妖精がやって来て言う。わたしは体調の宜しくないおばさまの名代としてお祝いに来たのだが、目的はそれだけではなかった。
高級な絨毯の敷かれた廊下を歩く。足音はもちろんしない。耳元で、小さな翡翠の耳飾がランプの灯にきらめいた。

「お前が家の一人娘か」

居間の扉を開けると、耳へと声が届いた。声の主は背の高い、紅い瞳の男性だった。ルシウス先輩も、メイドたちも、みんな頭を下げている。わたしもそれに倣い、頭を下げた。

「面を上げろ、

わたしは言われた通りに、頭を上げる。紅い瞳が、見定めるようにわたしを見た。

「死喰い人に入りたいそうだな」
「はい、微力ながら、我が君のお力にさせて頂きたく思っております」
「なぜそう思った」
「わたくしは、我が君のしもべでありましたレグルス・ブラックの婚約者でした。彼は我が君の十分なお力添えとなる前に、不名誉な死を遂げました。彼の恥はわたくしの恥、彼の不名誉はわたくしの不名誉でございます。レグルスの意志を継ぐのは、婚約者であったわたくしの定め。彼の分まで、わたくしに尽力させていただきたいのです」
「ほう、ブラックの次男坊の」

紅い瞳が、スッと細くなる。わたしはもう一度頭を下げる。その人はわたしの方に足を進める。視界の上端に、高級そうな靴の先が見えた。

「――この、柘榴色の髪」

細い指が伸びて、わたしのあごを掴む。そのまま上をむかされ、わたしの視界はその人に占拠される。反対の手がわたしの髪を一房つまみ、持ち上げる。

「それに苔色の瞳……上玉だな」

指先からは甘い香りがした。それは薔薇の香りのように思えた。あるいはそう思いたかっただけなのかもしれない。確実に言えるのは、それは死の匂いだった、ということだ。

「よかろう、。お前を私のしもべにしてやる」
「恐悦至極に存じます」
「左腕を出せ」

わたしはローブの袖を捲くり、その人の前へ差し出す。その人はわたしの手首を掴んで、口元に持っていった。ちらりと覗く、赤い舌先。蛇を思わせるそれの生ぬるさに、わたしは顔を少し背けた。
瞬間、左腕に焼け付くような痛み。

「っ、いっ、」
「痛いか?まあすぐに慣れる」

その人はにたりと笑い、わたしの腕を解放した。

「あ、りがとう、ございま、す」
「よい。お前の活躍、楽しみにしている」


わたしの頭の上に手を乗せ、一度だけわずかに撫でると、その人はルシウス先輩を呼んだ。そのままふたりで奥の部屋へ入っていく。子ども部屋だ。産後のシシーとドラコのところへ行くのだろう。
力が抜けて、わたしは膝から崩れ落ちた。メイドたちはこちらを窺いながらも、それぞれの仕事に戻っていく。左腕を抱きながら、わたしは浅く呼吸を繰り返した。ひどく熱く、ひどく痛い。ともすれば叫びたくなるような疼痛の波に、目尻に涙が浮かぶ。視界の端には、髑髏に捲きついた蛇の刺青。


レグルス。ごめんなさい、レグルス。これが、わたしたちに残された、最後の可能性です。これ以外にはどうすることもできませんでした。何も考え付きませんでした。シリウスだったら、あの人だったら、もっと上手くやれるのかもしれないけれど、でも、わたしには、無理でした。
あなたは、わたしがこうすることを一番嫌がったかもしれないね。僕のようになるなと言っただろう、と怒るあなたの声が聞こえるようです。もしあなたがわたしの左腕を掴んでそう言ってくれるのなら、あるいはそれも本望かもしれません。
これなら、ロケットの秘密をすぐ傍で探ることができる。もし騎士団側が勝ったって、ダンブルドアがこちらの勢力を殺そうとはしないはず。レグルス、これが最善だと、あなたも思ったのかな。

レグ、レグルス、闇の印を刻むことがこんなに痛いと知っていたなら、あなたは思い止まったのでしょうか。涙が、とまりません。痛くて痛くて、たまりません。いたい、いたいよ、レグ、どうして慰めに来てくれないの?


やがて「あの方」は子ども部屋から戻ってきて、未だに蹲っているわたしの腕を優しく取って、立ち上がらせた。

「痛いか」
「………はい」
「楽になりたいか」
「………は、い」
「付いて来い」

引き摺られるように、わたしはゲストルームへ連れて行かれる。大丈夫、わたしにはレグルスに愛されたという確かな過去がある。だから平気。これからどんな思いをしようとも、これからなにが起ころうとも、あなたのことを、愛しています。



わたしが18歳で、シリウスが21歳。

わたしが左腕にレグルスとお揃いの刺青を刻み、夜毎の色事にも麻痺した頃。ハロウィーンの夜に全てが終わった。ベラも、シリウスも、みんなアズカバンに収容された。「は帝王の人形だった」というセブルス先輩の証言のおかげで、わたしは逮捕されずに済んだ。ロケットは傷ひとつないまま、静かに輝いている。


わたしが22歳で、シリウスが25歳。

おばさま、つまりミセス・ヴァルブルガ・ブラックが失意のままその生涯を終えた。ブラック家のお屋敷に残されたのは、大きな肖像画と、クリーチャーと、わたし。
もうじき5歳になるドラコの家庭教師として、わたしはマルフォイ邸に引き取られることになった。クリーチャーは涙ながらにわたしを送り出した。ごめんね、ごめんね、絶対に戻ってくるからね、そしたら一緒に、レグとの約束を果たそうね。



レグ。レグルス、大好きです。愛してます。ごめんなさい。こんなに悪い子だけど、まだ愛してくれますか。わたしがそっちに行ったら、わたしのこと、もう一回愛してくれますか。褒めてくれますか。撫でてくれますか。叱ってくれますか。踊ってくれますか。花をくれますか。お願いだから、見捨てないでください。愛してください。

わたしは愛しています。レグルスのこと。心から。永遠に。愛しています。悪い子でごめんなさい。そこではアンヌ・ボレインの花は咲きますか?わたしの声が届きますか?わたしの悲鳴は、聞こえていますか?



Je crois
   entendre encore.




 わたしが31歳で、脱獄を果たしたシリウスが34歳。
 そして「あの方」は、復活を遂げる。













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Je crois entendre encore.=I still believe to hear you.