シリウス・ブラックが19歳のとき、彼の弟は亡くなった。18歳だった。彼がそれを知ったのは騎士団に死喰い人がひとり死んだという報せが入ったからだった。耳を疑った。どういうことだと怒鳴ったが、その報せを届けた団員にも事の次第はよくわかっていないようだった。 弟とは、もう何年もまともに顔を合わせていなかった。3年前、つまり彼が16歳のときに、彼が家を出たからだ。彼の弟のレグルスは、彼が家を出た原因のひとつでもある。気に入らなかったのだ。あの冷めた目が、あの澄ました顔が、あの世界中を見下したような態度が。そしてそれは彼の親族全体についても言えることだった。 レグルスが死んだということを、あの家はどう捉えるのだろうと彼は思った。ひとり残った大切な我が子の死として受け取るのだろうか、それとも跡継ぎがいなくなったと受け取るのだろうか。 レグルスがなぜ死んだのか、どのようにして死んだのか、彼はそれを知りたいと思った。きちんと知りたい、と。それがシリウス・ブラックが何年振りかに向けた、弟への感情だった。しかし一体、誰に聞けばいいのだろう? ひとりだけ、話を聞けそうな相手がいた。・。レグルスの婚約者だ。 彼女もまた、彼が嫌っている純血の一族だった。人間を血筋でしか判断しない、自分たち以外は穢れていると思っているような、そんな純血の魔法使いたちの仲間だった。 は死喰い人ではなかった。少なくとも現状では、騎士団にそのような報告は入っていない。だが彼女と接触を図ることは不可能なように思われた。親を亡くしてからはブラックの屋敷に住んでいるからだ。 彼女なら何か知っていると、そんな気がしていた。それは予感めいたものではない、どこか確信に近い感情だった。 それからすぐに彼の親友であるジェームズ・ポッターに息子が生まれ、彼は弟とその婚約者のことを思考から追いやらざるを得なくなった。赤ん坊の名付け親、後見人を任されたのだ。ハリーは可愛らしかった。指先で突くように触れると、ぷくぷくした感触がした。すげえ、と思わず零すと、赤ん坊の父親が彼の後頭部を叩いた。いつか自分もこんな赤ん坊を持ちたいものだと彼は思った。そのためにはまず伴侶を見つけなければならないが。 もしレグルスとが結婚していれば、どんな赤ん坊が産まれていたのだろう。親友の家を辞する間際、彼の思考に浮かんだのはそんなことだった。女の子だったろうか、男の子だったのだろうか。自分やレグルスではなく、に似ていれば良い。しかしそれはもう現実にはならない。レグルスは死んだ。との間に子を為すことのないままに。 絶えてしまえばいいと、思った。赤ん坊は可愛いものだが、あんな家に生まれたって幸せになれるはずがない。自分のように。弟のように。のように。 ならばいっそ、こんな忌々しい血なんて途絶えてしまえばいい。 ・がその左腕に蛇を刻んだという報せが騎士団に届いたのは、ハリーが生まれて1年になろうかという時分だった。その報告は、そこらの一般人が死喰い人になったときよりも大きな衝撃を以って届けられた。没落しかけの小さな家とはいえども、それは家の栄光の名残りだった。 どうして彼女はわざわざ死喰い人になったのだろう。確かに魔法のセンスや魔力は悪くなかったかもしれないが、それでも死喰い人として前線で戦えるほどの戦闘技術があるとは思えなかった。それとも、家の復興をヴォルデモートに託したということなのだろうか?ブラック家との血の繋がりを持つという当初の計画は完全に機能しなくなってしまったのだから、あり得ない理由とは言い切れない。 話をしたい、話が聞きたい。彼はその感情を思い出した。は何かを知っているはずだ。レグルスについて、死喰い人について、ヴォルデモートについて。恐らくはこの戦争の鍵を握る何かを知っているはず。それは2年前と同じ感情だった。予感や予測といったものではなく、確信だった。 ある夜、ウェールズの田舎町でひとつの作戦が決行されることになった。舞台となる城のような館には、アルバス・ダンブルドアやその盟友エルファイアス・ドージのような歴戦の戦士ばかりではなく、シリウス・ブラック、ジェームズ・ポッター、ピーター・ペティグリューといった新進気鋭の顔ぶれも集まった。 死喰い人側も、それなりの勢力を送り込んできていた。ルシウス・マルフォイ、エバン・ロジエール、ロドルファスならびにラバスタン・レストレンジ、そしてその妻ベラトリクス・レストレンジ。ヴォルデモートはまだ到着していないらしいが、時間の問題だろう。 死喰い人たちが狙っていたのは、その屋敷に隠されているとされる闇の魔術に関する貴重な本だった。屋敷のどこに隠されているのか、地下室か天井裏かということだけはなく、その存在の真偽ですら疑わしいものだったが、騎士団にとっては好機だった。この屋敷での戦いを制すれば、奴らの欲するものを押収することができるのだ。 屋敷のあちこちで決闘が起こった。それこそ地下室から天井裏まで、ありとあらゆる場所で、2つの勢力はぶつかり合った。家人たちのとうに亡くなっているこの古い屋敷をマグルたちは幽霊館と呼んで恐れ、近寄らないようにしていたため、近所迷惑という問題は考えなくてもよかった。 呪いが飛び交う中を、駆け抜ける。 ふと腕に熱い感覚を覚え、シリウスはローブを捲り上げた。 「チッ、掠ったな」 「シリウス、一回戻れ。ちゃんと手当てを受けて来い」 「馬鹿言うな。こんなもん舐めときゃ治る」 「それこそ馬鹿言うな、さ。きみがタフだってことは百も承知だよ。 だからさっぱり治してもらって、万全の状態で暴れてやろうじゃないか」 「………わーったよ。すぐ戻る。気をつけろよ」 「もちろんさ、相棒」 ジェームズはそう言って片目を瞑る。相棒の肩を叩き、彼はくるりと向きを変え、騎士団側の本部であり仮設の救護室となっている小部屋へ足を向けた。ここからはさほど遠くない。だからこそ戻るのを了承したのだ。 消毒液の瓶を見つけ、無造作に液体を傷口の上にばしゃばしゃと降りかけていると、にわかに周囲が騒然とした。爆音が続いていることに変わりはないのだが、何かが違う。 シリウスは眉を顰め、入り口の扉にぴったりと耳をつけた。聞こえてくるのは数人の足音と、怒号。 「ダンブルドア!ダンブルドアは居るか!?」 「ダンブルドアなら食堂の援護に行ってる。どうしたんだ?」 「ベンジーがやられたんだ!3階の廊下が爆破されて……くそっ!おい、連れて来い!!」 団員の男は血が飛び散ったローブを着ていて、男が参加していた戦闘の凄まじさを漂わせていた。顔についている煤が、その爆発に巻き込またことを主張する。 ベンジー・フェービアンは同じく騎士団のメンバーだ。それが『やられた』ということは恐らく、死んだという意味なのだろう。意識せずとも険しくなる表情を感じながら、シリウスは待った。連れて来い、と男は言ったのだ。いったい誰を捕らえて来たのかと聞くのは野暮というものだろう。ベンジーを殺した、まさにその人物に違いない。 別の男が『彼女』をシリウスの目の前に突き出す。 両腕を後ろで捻り上げられているのにも関わらず、『彼女』の瞳はどこか虚ろだった。 「お前っ、!?」 「……ああ……お久し振りでございます、お兄さま」 最後に会話をしてからどれだけの月日が経ったというのだろう。ぼんやりと笑うその顔には生気がなく、人形のようだった。熟れた柘榴のような、暗い紅紫がかった髪。春に苔むしたような、鮮やかな深緑の瞳。リリーに似た配色をした姿形の、そのどれにも変わりはないのに、まるでリリーとは似つかないし、そもそも昔と比べても別人のようだった。ならば一体、何が彼女を変えたというのだろうか。 がシリウスを「兄」と呼んだことで、彼女を連行してきた団員の男たちはピキッと顔をこわばらせた。ブラック家の血縁、その重みは魔法界で暮らしていれば自然と身体が理解するようだ。 「こんな所に何しに来た…ってのは、愚問だな」 「ええ、察してくださいませ」 「死喰い人になったのか」 「そういうお兄さまは、騎士団に入られたのですね」 「何を今さら」 「ではわたしのことも、今さらというものです」 うっすらと、の唇が弧を描く。化粧をしているのか、白い顔にその赤は映えた。は変わった。変わってしまった。それはレグルスの死が引き起こしたのだろうか。 「座れよ」 「なぜです?」 「立ったままじゃ話し辛いだろ」 シリウスは杖を振り、の手首をロープで拘束した。それと同時に、彼女をここまで連行してきた男が安堵したように離れる。あとは任せた、という視線をシリウスに送り、彼は部屋の外に出た。 部屋の隅に打ち捨てられていた椅子を起こし、シリウスはに勧めた。礼を言うかのように小さく頷き、彼女はそれに腰掛ける。 「………………」 「お兄さま?」 話をしたいと思っていた。それなのに、いざ目の前にすると投げかけるべき言葉が見つからない。自分は何を知りたいのだろう?レグルスが死んだ経緯か、が死喰い人に身をやつした理由か、もっと違うことか。 が不思議そうに言う。自分を「兄」と呼ぶ、その声はとても懐かしいものだった。もう何年、そう呼ばれていなかっただろう。 「まだ俺のこと“兄”って呼ぶんだな」 「………お気に触りましたでしょうか?」 「別に。そうじゃねえけど。 俺はもうお前の“兄”にはなれねえのに、って思ってな」 レグルスという媒介がこの世から消えてしまった以上、2人が「兄妹」の関係になることはもうない。そう仄めかせば、の顔から笑顔が消えた。あるかないかの笑顔だったが、消えてみればなるほどやはり笑っていたのだと感想を抱く。 「お前、変わっちまったのな」 「最初に変わったのはお兄さまでしたわ」 「なんでだよ。意味わかんねぇ」 「一番最初にレグやわたしを置いてけぼりにしたのはお兄さまでしたもの」 「お前らがついてこなかっただけだろ?」 「待ってくださらなかった方が何を仰いますか」 テンポの良い会話に、シリウスの顔が緩む。はそんなシリウスを見て、不可解そうな表情をした。レグルスはシリウスのことをずっと待っているんだと、いつだかにそう言ったのもだった。 「…脱がせていただけません?」 「は?」 「ローブ。重くて肩が凝りそうですから」 彼は数刻固まり、「ああ」と言って彼女の襟元に手を掛けた。喉元を守護するボタンを外していく。今この瞬間に誰かが入ってこないことを祈るばかりだ。 がローブの下に着ていたのは黒っぽいシフォンのワンピースだった。月明かりに照らされると、わずかに碧が混じる。思っていたよりもすぐ近くに温かい肌の感触がして、シリウスは罪悪感を感じた。それはこの屋敷で戦っているはずのジェームズに対してか、それとも本来ならこの肌を独占する権利を持っていたはずのレグルスに対してか。 「………ベンジーを殺したのか?」 「その方を狙ってそうしたわけではありません」 「結果論だ」 「ならば、ええ。殺しました」 誤魔化すように口にした言葉に返ってきた声を聞き、シリウスは深く息を吐いた。それはそんなに涼しい顔をして言うことじゃない。 手元にあるのローブには返り血がべったりと付いていた。それだけではない。埃や、壁の破片だろうか、ざらりとした粒状のものも万遍なく付着している。3階の廊下を爆破したという、その威力を物語っているようだ。彼女はいつの間にそんなに強大な魔力を手にしたのだろう。彼が知らないだけで、元から持っていたのだろうか。 「……どうしてそんなこと出来るんだよ」 「杖を振るだけです。お兄さまにもできますわ」 「ふざけんな」 「ふざけてなど、」 いません。 その言葉が続くよりも早く、シリウスはの肩を掴んでいた。 「目ェ覚ませ!お前自分が何やってるかわかってんのか!」 「わかっています、お兄さ、」 「わかってねえよ!お前、殺したんだぞ!人間を、ひとり、殺したんだ!」 「だったら何だと、」 「家族があった、居なくなれば泣くやつがいた!お前がそうしたんだ!」 「お兄さまに何がわかると言うのです!」 掴んだ肩を揺さぶりながら言うシリウスを、がキッと睨む。 「ならばお兄さまは泣いたのですか、レグのために、おじさまたちのために! おばさまも、クリーチャーも、みな泣いておりました! なのにお兄さまは、お葬式にもいらしてはくださらなかった!」 「っ、それは!」 「わたしはお兄さまに死を語る資格があるとは決して認めません! 死を語るのも、死を喰らうのも、すべてわたしたち死喰い人の宿命です!」 強い口調で言い返され、シリウスは戸惑った。どう切り返せばいいのかわからなかった。彼女はもう自らを死喰い人と名乗ることに躊躇いはしないのかと思うと、取り返しがつかないほどの年月が過ぎたことを思い知らされる。 何が彼女を変えたのだろう。レグルスの死か、それとも時間の流れか。 「…………………」 「………お兄さまには、わかりません」 「……そうかもな」 「もっと。もっと早くお兄さまがレグを…」 はそこで言葉を切った。 もっと早く、自分が弟をきちんと見ていたら、その悲鳴に気付いてやれたのだろうか。もっと弟と向き合っていれば、殴ってでも引き止めることができたのだろうか。もっと弟を認めてやっていれば、仲のいい兄弟になれたのだろうか。 「……お前は、何か知ってるんじゃないのか?」 「…………何をです?」 「さあな。お前は何か知ってる、そんな気がするんだ。 心当たりがあるなら教えてくれ。どんなに小さなことでもいい」 「……わたしにとってリスク以外に何ももたらしませんのに?」 「俺が守ってやる。俺が…いや、俺たちが。不死鳥の騎士団が」 彼女は俯き、目を閉じた。きゅっと唇を結ぶ。その表情は苦しそうにも、悲しそうにも見えた。 しばらく静寂が続く。、と彼女の名前を呼び、シリウスはもう一度その薄い肩に手を掛けた。このまま彼女を死喰い人にしておいていいわけがない。そうであることを彼女が望んだとしても、レグルスがそう望むとは彼には思えなかった。今さら弔いの気持ちなど向けられても彼の弟は迷惑そうな顔をするだけだろうが、それでも弟のために、弟が愛したを放っておくことは出来なかった。 「…………手をお離しなさい」 やがて沈黙を破り、が言う。それを合図にしたかのように、すぐ近くの廊下で誰かの悲鳴が聞こえた。言われたことがすぐには理解できず、シリウスはを見る。 「その手を離しなさいと言っているのです。 この体、もはやブラックの名を捨てたあなた如きが触れて良いものではありません」 「なっ、!」 バタンと音を立てて扉が開く。悲鳴がより一層大きく響く。 シリウス・ブラックは尋常ではない殺気をその背中に感じ、慌てて振り向いた。そして視界に映るのは、血のように紅い瞳の男。 「ここに居たのか、」 「我が君…お手を煩わせ、申し訳ございません」 「構わん、目的は果たした。帰るぞ」 いつの間にロープを解いたのか、が優雅な動作で男の元へと歩み寄る。ヴォルデモート卿はその肩を抱き寄せ、シリウスを悠然と見下ろした。 「私の人形が世話になったようだな」 「人形だと!?」 「そうとも。かつてはきさまの弟のものだったがな、ブラックの長男よ。 だが今では私のものだ。そうだな、」 「はい、我が君」 薄暗い部屋に相対するふたつの黒の視線を受けても何ら動じることはなく、が言う。その無表情な顔は月光に照らされ、本物のビスクドールのように見えた。 「嘘だろ……おい嘘だろ!」 「………………」 「何とか言えよ!」 人形は首を廻らせ、その主人を伺い見る。ヴォルデモート卿は小さく笑い、「答えてやれ」と言った。得心がいったような顔で、はシリウスを見下ろす。 「目的のためならば手段を選ばない、」 「…………あ?」 「それがスリザリンたる誇りです、シリウス・ブラック」 どういう意味かと訊ねる前に、バシッ!という音がしてその姿は消えた。 シリウスはただ呆然と立っていた。一瞬前までが立っていた場所を、ただ見つめていた。手元にあるのはじっとりと重いローブだけだ。 「―――おいシリウス、生きてるか!!」 「……………生きてるよ、うるせえな」 「うるさいとは何だうるさいとは、心配したんだぞ! まったく3階はひどい有様だよ。可哀想なベンジー! あれじゃまともに体すら残ってないかもしれない。 ところで、ヤツが来たんだろう?よく無事で――」 「無事なもんか」 「えっ?ど、どっかやられたのかい?」 「俺じゃねえよ」 無事なもんか。もう一度呟き、シリウスは頭を抱えてしゃがみ込んだ。一体何が彼女を変えてしまったのだろう。レグルスの死か、時間の流れか、それとも闇の帝王か。 「わっかんねえよ!」 ならばひとり残された彼は、どう狂えばいいというのだろう? 彼方なる歌声に耳を澄ませよ そう。目的のためならば、手段など選ばないのです。 |