僕がホグワーツの4年目を迎えようかという夏、ひとつのニュースがマルフォイ邸に舞い込んできた。 “シリウス・ブラック アズカバンから脱獄  12年前に多数のマグルを殺害した凶悪犯” その報せを受けたルシウスおじさんは血相を変えて朝食の席を立ち、魔法省へ出かけて行った。 おじさんは「帰りは遅くなる」と手短にナルシッサおばさんに伝えていたが、 遅くなるどころではなく帰れないかもしれない、というニュアンスが含まれていたことは 階段の踊り場からおじさんの出立する様子を窺っていた僕とドラコには丸分かりだった。 おじさんが魔法省へ行ってしまってからおばさんと母さんはとても落ち着かない様子で、 時計を見てはカーテンを開け閉めしてみたりと、十分だって同じところに居られないという様だった。 それほどまでにこの屋敷を混乱させるシリウス・ブラックとは何者だろうか。 ドラコと僕はアイコンタクトを交わし、頷き合った。こういうことは僕の母さんに聞くのが一番良い。 なぜなら母さんはブラック本家に一番近く、それなのに一番遠いとも言える立場だったからだ。 なので僕は、ドラコがおばさんのところで足止めをしている間に母さんの私室へと向かった。 「母さん、今朝のニュースのことなんだけど。シリウス・ブラックって、何者?  赤の他人か、それとも僕やドラコの親戚?たとえばベラねえさんの兄妹とか」 「そう、ね。親戚なのよね。シリウスは……あなたのお父様の、お兄様にあたる人よ」 今まで隠していてごめんなさい、と母さんは申し訳なさそうに言う。 僕はといえば、あんまりにも唐突な三親等の登場に、驚きを通り越して笑いたくなるような心持ちだった。 その後母さんは、親戚とはいえ関わらないように、全ておじさんに任せておくようにと僕に念押しした。 分かったよ母さん、と僕は微笑んで頷く。そうすれば母さんは、僕が本当に父さんに似ているという話を始めるからだ。 母さんの部屋を出て自室に戻り、少しして、ドラコが杖の手入れ用のビロードを振り回しながら僕の部屋にやって来た。 どうだった?と興味津々の彼の顔を見ていると、ようやく僕の中に動揺というものが戻って来たらしい。 「伯父だった」と簡潔に答えると、ドラコは僕を指差し、餌を取り込む金魚のように口をパクリと開けて、 普段のクールっぷりとは無縁の間抜けな顔を見せてくれたのだった。 さて、件の人物が僕の親類(それもドラコやナルシッサおばさんより血の近い親類)だったという衝撃的な事実が発覚した訳だが、 祖母と過ごしたロンドンの家にある家系図にはそのような人物が居た覚えはない。 もしそんな人物が居たなら、僕が「ブラック家の最後のひとり」を襲名しているはずがない。 しかし、母さんが本当は居ない人物を“居た”と騙る意味も、必要性もさっぱり分からない。 僕は考える。母さんの証言と僕の記憶が矛盾しない説明を。 伯父は存在する。しかし家系図には存在しない。では―――勘当されたのか? その推測の正否は、いつもは父さんについて語るのを渋るルシウスおじさんが珍しく教えてくれた。 僕の伯父はブラック家の長男として生まれたにも関わらず、ホグワーツではグリフィンドールに所属し、 常にスリザリンと対立し、成人をきっかけに出奔したために家系図から抹消されたのだという。 僕とドラコはさぞかし変な顔をしていたことだろう。 それほどまでに、伯父の経歴は理解不能だった。 だがそこで僕の頭には再び疑問が浮かび上がる。 常にスリザリンと対立していたという割に、投獄された原因は実にスリザリン“らしい”罪状とも言えるものだ。 腑に落ちないといった様子の僕に気付き、 おじさんは「無論私にも真偽のつかぬ事のひとつではあるが、」と前置きし、続けた。 「奴はダンブルドアに与する裏では“あのお方”の手駒でもあったと言われている。  なぜなら奴が…奴の親友であったポッター夫妻の潜伏先を敵方に流した所為で  あの“ハロウィーンの夜”が起こったのだと、そう言われている」 僕は思わず母さんを見た。 母さんはおじさんの話を痛ましい表情で、でも黙って聞いていた。 一族を裏切って死んだ父さんに、自分の親友を裏切った伯父。 どうなってるんだよ母さん、僕の父系はクソ野郎ばっかりじゃないか。 混乱を抱えたまま、僕はホグワーツで新たな学年を迎えた。 学校に戻りさえすれば少しはクソ伯父のことから離れられるかと期待していたのだが、やはり無駄だった。 汽車に吸魂鬼は乗り込んでくるし、 ホグズミードで目撃されたというニュースは入ってくるし、 ハロウィーンには本人が校内に現れたとかで全員大広間で就寝させられるし、 クィディッチ競技場にまた吸魂鬼が乗り込んでくるし、 「ルーナ、何を読んでいるんだ」 「“シリウス・ブラック、その正体を美しき堕天使アスタロトに見た”  ―――うちのパパが仕入れてきたすっごい記事」 「そんなもの読んでると馬鹿になるぞ」 たまに廊下ですれ違うルーナ・ラブグッドまでこんな調子で、 とにかく今期は散々だったのだ。 クリスマス休暇になり、僕はマルフォイ邸へと戻った。 おじさんはクソ伯父だけではなく、ドラコに怪我をさせたヒッポグリフの件でも忙しくしているらしく、 ほとんど屋敷に居られないようだった。おばさんはおばさんで一日中ドラコに構っても足りないようなので、 ドラコは少しだけうんざりしているようだったが、僕は母さんとゆっくり休暇を過ごすことが出来そうだ。 「ねえ、母さん。興味本位の質問だから、無理に答えてとは言わないんだけど、  僕の伯父さんってどんな人だったの?本当にポッターを裏切ったんだと思う?」 「シリウスは…とても、強い人だったわ。お父様も、彼のことが大好きだった…と、思っているの。  お父様もシリウスも不器用な人だったから、結局最後まで関係は直せなかったけれど……  でもね、わたしやお父様が憧れたシリウスは、親友を裏切るような人では、なかったはずだわ」 母さんは伏し目がちに、言葉を区切りながら言った。 「もし僕と伯父さんがホグワーツで偶然会うようなことがあったら、  何か聞いてみたいことはある?本当に裏切り者なのか、とか?」 「いいえ、そこはわたしはあまり気にしていないの。ただ、彼自身が心配だとは、思うわ。  けれどねアルギエバ、決して自分からシリウスを探しに行こうとしたりしては駄目よ」 「分かってるよ、母さん」 僕は微笑んで、頷く。 そして、あっという間に休暇は終わった。 ホグワーツはゆっくりと春に近付き、ドラコに怪我をさせたヒッポグリフの処分も決まった。 僕は時々ルーナの私物をスリザリン寮から回収し、彼女のもとへ戻してやったりしながら、 期末試験の勉強を始めた。(ついでにたまにルーナの勉強も見てやるけれど、結構ひどいのだこれが) 魔法薬学、変身術、古代ルーン文字、妖精の呪文学。 数占い、天文学、魔法生物飼育学、そして最後に薬草学。 試験はいつも通り結構な手応えだったとはいえ、僕は来年O.W.L.試験を控えた身だ。 ひとまず今回の試験内容の振り返りと自己採点でもしておこうかと図書館に篭ってみたのだが、 “試験も終わったのにいつまでも残るんじゃない”というマダム・ピンスの視線に耐えかね、 夜もそこそこに退散せざるを得なかった。 もしかしたらマダムは何か直感的なものがあって僕を追い出したのかもしれない。 スリザリン寮へ戻る道すがら、なんと僕はスネイプ教授とファッジ大臣が並び歩いている所に遭遇したのだ。 「今晩は、大臣。遅くまでお仕事ですか、大変そうでいらっしゃいますね」 「ああ、こんばんは。そうなのだ、大変なのだよ、まったくブラックの奴め…」 「ブラックがどうかしたのですか?さては、捕らえたのですか?」 大臣が「しまった」という顔をした。 目撃情報だけなら大臣自らのお出ましになる筈がないのだから、 ホグワーツに来ている時点で筒抜けと思った方が良いと思うのだが、深くは追求しないでおく。 そうか、ついに捕まったのか。そこで僕は、声に出さずに思索を組み立て始めた。 伯父には吸魂鬼のキスが執行されると新聞に出ていたから、彼の命も今夜までだろう。 もし僕が伯父と話をしてみたいと望むのなら、この機を逃してはいけない。 会って何を話すという訳でもないが、母さんがそういえば何か言っていたし、 親類ひとりにも見送られないというのも不憫なような気もするし、顔を見る位はしてみようじゃないか。 そうと決まれば、この大臣に面会の許可を求めることになるのだが、 こういう時には父さんが残した“ブラック”という家名が幅を利かせることを僕は知っている。 「そうですか、ついに…あの、では大臣、ご多忙のところ恐縮ですが、  折り入ってのお願いです、僕にブラックと話をさせて頂きたい」 「ば、ばかを言っちゃいかんよ君、何の理由があって――」 スネイプ教授が少し呆れた様子で視線を逸らす。 僕は「勝った」と確信し、大臣に軽く礼をして、名乗った。 「これは失礼しました、アルギエバ・ブラックと申します、大臣。  シリウス・ブラックは、僕の伯父にあたります」 大臣は口ごもり、不明瞭な言い訳を数回吐き出そうとしたが、 幾許もしないうちに「案内しよう」とくたびれた笑顔で申し出てくれたのだった。 申し訳程度に軽くノックをして、返事を待たずに開けた。 フリットウィック教授の研究室には襤褸を纏った男が一人いて、 ドアの開く音で振り返った顔はまるで骸骨そのもののようだった。 「レグ――では、ないな。名前は、なんだったか…」 「アルギエバです。僕をご存知でしたか、伯父さん」 ひどく驚いた顔で僕を見つめ、彼は、父さんの名前を口にしかけた。 僕が父さんの生き写しだという話がまたひとつ裏付けられてしまった。 「噂には聞いていた。こうして会うのは初めてだが…母親には、似ていないな」 「よく言われます。でも僕は父の顔を実際には知らないので、  父の兄であるあなたの顔も見ておこうかと思ったんですが…あまり参考にはならないようですね」 僕は肩を竦めて言う。 伯父は吼え声のような、吐き出すような笑い方をして、「そうだろうな」と言った。 「それで、アルギエバ、君は父親の顔の参考資料のためだけに来たのか」 「いいえ。僕の母の言葉を、あなたに伝えておこうと思って」 「君の母親の?」 母さんの名前を出すと、伯父は急に神妙な顔つきになった。 僕と、骸骨のような伯父は互いにじっと目を合わせる。 数秒の沈黙があって、僕は口を開いた。 「長いアズカバンの生活で、あなたの身体が心配だ、と」 僕の言葉を聞き届けた途端、伯父は脱力した様子で一気に椅子へとくずおれた。 うつむいて、額に手を当て、笑っているのか怒っているのか、 入口付近に立ったままの僕には明瞭には見えないが、きっと笑っているのだと思った。 ややあって身体を起こした伯父は、心なしか晴れ晴れとした顔をしている。 「何を言われるのかと思えば、身体の心配をされるとはな。  君の母親は他には何も言っていなかったのか、君の伯父は裏切り者のクソ野郎だ、とか」 「それは僕がはとこに言いました。母さんは特に、何も。  ただ、昔のあなたは強くて、父さんと母さんの憧れの人で、  親しい友人を裏切るような人ではなかったと言っていました」 「…………そうか、変わらないな」 懐かしむように、噛み締めるように、伯父は独り言のようにそう言って、口の端だけで笑う。 そのげっそりした顔は少しも僕とは似ていないと思うのだが、 それでも僕は、父さんも最期はこんな顔をして母さんのことを想っていたのだろうかと、そう思った。 「では、伯父さん。話せて良かったです。  あなたの悪運が強ければ、いつかまた話す機会もあるかもしれないですね」 「そうだな、楽しみにしている」 僕が去るということは、伯父が吸魂鬼のもとへ連行される時間が来るという意味だ。 それを分かっているはずなのに、伯父はニヒルな笑みを崩すことなく、僕を真っ直ぐ見据えた。 母さんの言っていた「強い人」という言葉の意味が分かった気がする。 きっと彼は、何かの手違いはあったとしても、ポッターの両親を本当の意味では裏切ってはいないのだろう。 ポッターはそれを知っただろうか。あの少年のことだから、僕よりも早く伯父と接触していそうな気もする。 そうであれば、きっと伯父とは、またどこかで会うことになるだろう。 「――そうだ、君の母親にひとつ伝えて欲しい。頼めるか?」 「どうぞ、でも、内容によっては僕が握りつぶします」 「君のそういう強さは母親譲りだな。私の弟には言えなかっただろう台詞だ。  だから私は……君が、私の弟の息子として真っ当に生きていることを、とても誇りに思う」 それだけだ、と彼は言った。 僕は彼にしっかりと頷きを返し、そしてフリットウィック教授の研究室を後にした。 第4学年が終わり、芳しい夏が近付いている。 「ルーナ、何を読んでいるんだ」 「“シリウス・ブラック、深夜に高層から突如失踪の謎、   霊鳥スパルナとヴィゾフニルに愛された男”……読みたいの?」 「……うん、そうだな。借りてもいいか?」 僕の手に謎の雑誌を押し付け、ルーナ・ラブグッドは楽しそうに鼻歌をハミングし始めた。