A swarm of bees in June Is worth a silver spoon; 俺は森の中を駆けていた。 犬の聴覚というのは人より優れているので自分の呼吸音さえやかましいほどに聞こえる。 そう、俺はいま犬の姿だ。理由は察して欲しい。足の速さとか、目晦ましとか、まあそのへんだ。 そろそろ生徒たちが切り裂かれた『太った婦人』に気付く頃だろうか。 パーティーを堪能した後の惚けきった頭に、あの光景は少しショックが大きいかもしれない。 楽しい時間を邪魔してしまったという申し訳なさは感じている。それは本当だ。 しかし今の自分を、大義の前の必要悪であると、俺は思っている。 だから実行に移してしまったことに後悔は感じていないし、これからもチャンスがあれば行動する。 だが、まあ、『婦人』を破壊してしまったことには、流石にやりすぎたかという思いもあるが。 自分は悪くないと分かっていても、世間全体がそれを分かってくれているわけではない。 だから俺は追われている。追われていると想定している。 実際は、千里眼ではないので俺の所業がバレたかどうかなんか分からない。 けれども『走れ』と本能が叫んでくるから、俺は走る。 ひとまずは手っ取り早く、禁じられた森に駆け込むことは正解だったと思う。 せっかく頑張って越えたディメンターの防壁を、こんな所で再び越えてしまうのは面倒だからだ。 いや、面倒というよりは、再び防壁を越えて侵入する手間を思うと憂鬱になるから、という方が正しいか。 この森は勝手知ったるかつての庭のような場所なので、下手に迷ったりはしないだろう。 もし迷ったとしたら、俺はそこまでの男だったということだ。 巨大な犬の姿で、俺は森の深部へと進んだ。 闇色の体は暗い景色に溶け込むので好都合だと言える。 しばらく進むと、昔よく遊びに来た湖畔に着いた。 喉が渇いていたので、鼻先を水面に突っ込んでみる。水はあまり澄んではいない。 というか、不味い。たくさん飲んだら腹を壊しそうだ。 ほんの数滴で渇きは癒え、次に隠れる場所を探す事にした。 潅木や、洞のある樹でもないかと、周囲を見回す。 「――ぇ、っくしゅ」 と、そのとき、誰かのくしゃみが聞こえた。 俺ではない。少し高い、女の声だった。 誰だ?こんな時間のこんな場所に居るなんて、指名手配犯の俺くらいなものだろうに。 声のした方へ、俺はそろりと足を向けた。 場合によっては何か……行動、が必要かもしれないと覚悟しながら。 月の光と、鬱蒼とした木々と、それから灰色の人影。 思わず眼を疑ったのは、そこにあった灰色の影というのがただの塑像だったからだ。 どうやらその像はひどく耐久性の弱い造りらしく、あちこちが欠けていた。 だが、その欠けた部分からは月の光もかくやというほどの眩しい銀色が零れている。 誰かが銀で造った像にわざわざ粗悪なコンクリートでメッキでもしたのだろうか? そんなことを考えたが、しかし、確かにさっき誰か生きている人間のくしゃみが聞こえたのだ。 俺が疑問に思っていると、その哀れな姿の像は、もぞりと動いた。 耳と尻尾がピン!と立って、俺は咄嗟に威嚇の体制を取る。まるで犬そのものだが気にしないでくれ。 像がわずかに身動きすると、コンクリートの破片がばらばらと落ちた。 その度に月の光は霞み、もっと眩しい銀色が夜の森に満ちていく。 眼を細めて見ると手に何か持っているようだった。何か薄い、長方形のものだ。 「………今年はずいぶんと軽傷ですね……」 灰色のかさぶたを全て落としたそれは、例のカリアッハ・ベーラだった。 名前はなんだったろう?だったかそれともだったか。どちらかではあるはずだ。 カリアッハ・ベーラは小さな声でユニコーンへの恨み言を漏らす。 そうだ、こいつは毎年石になってる間ユニコーンに突かれるんだと言っていたっけ。 首を左右に倒してストレッチのようなことをすると、カリアッハ・ベーラは周囲を見回した。 すると、当然、俺とカリアッハ・ベーラの視線が合う。俺は身構える。相手は無表情だった。 「……………………」 「…………犬?」 「……………………」 「ですがただの犬でもないようですね。 ところで天道虫というのは夏を越えることでこのような板になってしまうものなのですか?」 カリアッハ・ベーラは右手を俺に向けて差し出した。 そこに乗っているのは、ハニーデュークスでしか売っていないことで有名なチョコレートだった。 半分ほど食べたあとなのか、包装紙が不自然にすかすかな部分が見て取れる。 こいつが何を言いたいのかは分からないがこれが天道虫でないことだけは確かだ。 俺が不可解な視線で見上げていることに気付き、カリアッハ・ベーラは小さく首を傾げた。 「完全に石になる寸前までここには天道虫が居たはずなんですよ。 でもいま起きてみたらこんな板になってしまっているので驚きました」 「……………………」 「返事すらなしですか…? でもそうですよねきっと私なんかと話すよりその姿を保つことのほうが有意義でしょうね」 カリアッハ・ベーラはひどく沈んだ顔をしてその場に座り込んだ。 「はぁ」と溜息をつくと、ドライアイスを焚いたような凍てついた白い靄が零れる。 俺は徐々に思い出してきた。そうだ。じゃなくて、だ。やたらネガティブな冬の妖精。 は五月からいまの今まで静かに眠りについていたのだから、俺のことは知らないはずだ。 そもそも俺が指名手配犯だと分かったところで、ヒトではない彼女には何も出来ないはずだ。 そう判断し、俺は動物もどきの変身を解いた。 はちらっと横目でこちらを窺い、眉を顰めた。 「ギャリートロットかブラックドッグかと思ったんですが…ブルベガーだったんですか?」 「……違う。俺は人間だ」 「そうなんですか?」 ギャリートロットとは、昔の埋葬地や埋蔵金の噂のある地に現れる巨大な犬に似た妖精で、 首から上、または首から下のどちらかが人間でどちからが犬だと言われている。 姿を見た者は死ぬ、とも言われるが、元の意味は『宝の守護者』だ。 対してブラックドッグは妖精ではなく魔犬の一種で、子牛ほどの体に赤い目をしている。 姿を見たら死ぬというのはギャリートロットとも似通っているが、触れたら死ぬという説もある。 どちらに思われるのも不名誉だが、ブルベガーだと納得されるのもいい気分ではない。 ブラックドッグの一種かと思いきや二本足走行をし、夜中に不気味な声で笑い出すような妖精だからだ。 はそこにはあまり興味が無さそうで、俺の顔をまじまじと見上げている。 「……誰かに似ているような気がします」 「そうだろうな」 「でも分かりません。とりあえずこの板は結局なんだと思いますか?」 は持っていた板チョコを俺に差し出す。 俺は一応それを受け取り、ひっくり返して調べてみるが、やはりただの板チョコだった。 きっと、物欲しそうなの右手に気付いた誰かがそっと置いていったのだろう。 「チョコレートだ。あんた、ザッハトルテ食べたことあるんじゃないのか?」 「はいありますよくご存知ですね。 随分と形が違いますがこれはザッハトルテなんですか?」 「ザッハトルテの表面に塗ってある黒茶色っぽくて甘いやつの原料だ」 俺はチョコレートをに返した。 さっきから頭の中が“チョコレート”という文字でいっぱいなせいか、ふと昔の友人を思い出す。 あいつが、いまは教師として城に居るはずのリーマスが、これを置いて行ったんだろうか? 「ではこのチョコレートの原料は天道虫なんですか?」 「だからいい加減そこから離れろって!気色悪い想像すんな!」 「………………………あっ!もしかしてシリウスさん?」 感傷に浸る暇なく飛び込んできたの言葉に、思わずつっこんでしまった俺。 はしばらくぽかんとして、それからパッと顔を輝かせて言った。 どうやら思い出したらしいが、動機が『この懐かしいつっこみはまさか!』というのは随分とあほくさい。 俺は仕方なく「そうだ」と認めた。 思ったとおり、は何も知らないらしく「お久しぶりです」と呑気に笑っていた。 「背が伸びましたね」 「…………そこに注目するのか」 「すいませんダメでしたか?」 「いいや」と俺は言う。このやつれた姿を言及されるのに比べたら遥かにマシだ。 の外見は何も変わっていなかった。12年以上前に見た最後の姿に比べて、ちっとも。 相変わらず顔色は青白くて唇の血色は雪山で凍死したかのようで。 風もないのにふわりとなびく髪は月の光を透かしてオーロラのように虹色に変化して。 古代ギリシャ式かとつっこみたくなるような服は汚れもなく、シルクのように艶っぽく光っている。 まあ、変わるわけがないんだ。千年近くも生きている妖精が、たった十年そこらで。 変わるのは俺たち、マグルや魔法使いの種別は関係なく、人間だけなんだろう。 「―――……ぃ、おぉい、聞こえるかー……ぁ…?」 が包装を少し解いてチョコレートの匂いを嗅いでいると、ハグリッドの声がした。 最初は遠くから聞こえたような気がしたのに、その声はずんずんと近寄ってきている。 こんな暗い中であろうが、この森はハグリッドの庭のようなものだから関係ないということだろう。 「ハグリッドさんが来ますね」と言うを無視し、俺は犬の姿に変身した。 ハグリッドの声は普段でも大きく荒々しく聞こえるが、今の声は明らかに怒気を孕んでいる。 恐らく、というか十中八九、俺のしたことが明るみに出たのだ。 「また逃げているんですか?」とが聞いてくるのに視線だけで「そうだ」と返す。 きっとは勘違いしている。俺たちがまだ学生で、ハグリッドと鬼ごっこをしている、と。 だが俺は、わざわざこの12年のことをこの場で蒸し返すつもりもない。それよりは逃げる。 「……お友達のピンチですからお手伝いしましょう」 サッと踵を返そうとしたとき、は不意にそう言った。 すると突然、俺の前に大きな氷の壁が現れる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。 俺はその氷壁に四方を塞がれ、身動きできなくなってしまった。 おいなんだこれ。手伝うとか言ったくせにむしろ追い詰めてるじゃないか! 「こっちですハグリッドさん聞こえていますよ。おはようございます」 「あ?ああ、あんたは今日起きるんだったな。 まあそれは今はええとして、それよりシリウス・ブラックを見とらんか?」 「見ていませんよ。森には来ていないと思います」 ハグリッドはの声を頼りに俺たちの前に姿を現した。 黒いモジャモジャした影が、俺を囲う氷に落ちる。が、ハグリッドはこちらを見ない。 は俺を匿っている素振りなどかけらも見せずにハグリッドに対応している。 なんだこの氷壁は。俺は前足をそっと氷に触れさせてみる。思ったほど冷たくはない。 こちらからはハグリッドが残念そうに去っていく様子が見える。 けれど、どうやら、ハグリッドには氷に閉じ込められた犬など見えてないようだった。 本当に、一体何なんだこの氷は。カリアッハ・ベーラの魔術だろうか? ハグリッドの背中を見送ったあと、は俺に向き直った。 真っ白い右手をその氷に差し出し、触れると、発砲音が響いて氷が砕ける。 「…………原理はよく分からないが、とにかく助かった。礼を言う」 「お役に立てたなら嬉しいです。最近は誰も来なかったので退屈でした」 俺は変身を解き、再び人間の姿でと向かい合った。 は嬉しそうに笑いながら、手元のチョコレートをいじっている。 開け方が分からないのだろうと思って銀紙を剥がしてやると、「ぉほう」と感嘆の声を上げた。 「シリウスさんはチョコレートが好きですか?」 「まあ………普通、だな」 「そうですか……どうやって料理すればザッハトルテになるんでしょうか? ヌミディアムール貝にかけて食べたら美味しいと思いますか?」 「いや全く思わない」 俺はその後、せめてそのへんのキイチゴにかけるべきだと必死に説得することになった。 おかしいな。俺、指名手配犯で逃亡犯なのに、なにやってんだ? |