私はサラザール・スリザリンを知っている。知っているというか恩師である。しかし恐らく先生は覚えてはいらっしゃらないと思う。なぜなら私は先生が得手としていた魔法薬学や闇の魔術と総称されるような範囲の魔法について特別に優秀だったわけではないからだ。それでも私はホグワーツに招集されるにあたって、サラザール先生の寮へ入るように言い渡された。推測してみるに、私の両親が薬草を調合して薬を煎じる仕事をしていたからだろう。ともあれ、私は魔法学校での七年間をスリザリン寮生として過ごした。世間様に晒しても恥ずかしくない程度の成績を修め、普通に結婚し、可愛い娘と逞しい息子と優しい主人に愛されて天寿を全うした。と、言えたら良かったのだが。


私は特別に出来の良い生徒ではなかった。それは紛れも無い事実だ。ここで私が「自分は優秀だった」と語ったとしても、私よりもはるかに後の時代に生まれたあなたたちにはその真偽が解らないだろう。けれど、それでも正直に言う。私は優秀ではなかった。私は両親のような薬作りの才能は持っていなかった。尊敬するサラザール先生その人に認めていただけるような要素はなかったし、私は幸せな結婚生活というものも体験していないのだ。


私の研究は主に美術または音楽の分野と魔法の融合だった。なぜ魔法界の肖像画が意思を持って動くのか、あなたたちは一度でも疑問に思ったことはあるだろうか。なぜか、それは魔力が込められた顔料が使われているからだ。術者が消滅しても持続する、独立型の魔力を篭めた顔料。私が開発したのは、そういう顔料だった。


先ほども述べたが、私は優秀な生徒ではなかった。しかしスリザリンの仲間は成績の良し悪しで誰かを見捨てることはないし、誰かを仲間に迎え入れることはない。必要なのは身内、純粋なる血統だけだ。そのおかげで私は寮内で仲間はずれにされることはなかった。みんなは私の描く水彩や油絵を褒めてくれた。そうなるともっと頑張ろうと思えてくるもので、研究・デッサン・研究・作曲・研究…というサイクルをわたしは繰り返していた。気付けば学生生活は終わっていたし、気付けば夫が家出していたことが代償といえば代償だろうか。




そんな風にして研究に打ち込んでいたのが功を為したと言うべきか、母校は私を教師として迎えてくれた。どの生徒も可愛らしく、どの生徒も私よりは優秀だったのではないだろうか。その内に私に校長という椅子が回ってくる時期になった。その頃にはもう、ホグワーツを創設した偉大な四人の魔法使いの姿は校内には見られなかった。


慈愛の人、ヘルガ・ハッフルパフは銀の髪を乗せて微笑むだけの老婆になっていたし、知恵の女神とも謳われたロウェナ・レイブンクローは病に臥せり、ゴドリック・グリフィンドールは早死した。そして我らが偉大なるサラザール・スリザリンはといえば、そのゴドリック・グリフィンドールによってホグワーツを追放されていたのである。


私はサラザール先生が学校を追い出される直前に学校を卒業したので、先生が追放されるまさにその瞬間というものは見ていない。ただ先生は、卒業式の前日、私たちひとりひとりに、温かい言葉を下さった。諸君らは私の自慢の生徒である、私の指導の手を離れてもその誇り高き理念を失わず、己と、己を慈しむ仲間とを慈しんで生きよ。はい先生、と私たちは言う。サラザール先生は私たちひとりひとりと目を合わせて、優しく微笑まれた。



ああ、スリザリンの血統はこんなにも暖かく、優しいのに。







私の治世は、特に何事もなく過ぎ去っていった。後世に特に誉めそやされるだろう出来事もなく、また反対に貶され嘆かれるであろう失態もなかった。ただひとつ挙げるのなら、校長室に肖像画を掲げるという慣習を打ち立てたことだろうか。何せ私は、動く肖像画の本家本元である。息子たちを夫に連れて行かれてしまった晩年の寂しさを埋めるために、少しくらい自分の業績を誇っても文句は言われないだろう。


私は校長室の片隅で、何年も何年も学校を見守り続けた。幾人もの校長を主として迎え、後に仲間として迎えた。年月が流れるにつれ、肖像画の中に封ぜられる元校長たちの人数も増えてきた。新入りはまず私のところに挨拶に来るという習慣も出来た。
「やあどうもどうも、フィニアス・ナイジェラス・ブラックと申します」
。第3代校長です」
「存じて上げておりますとも、活動式美術の始祖であられましょう! まさか、こんなに若々しいご婦人だとは思いませんでしたけれどね!」
「まあ、お上手ね、フィニアス」
私が他の校長たちに比べて若いのは、私が自画像だからだ。後世に残ると分かっているのに、わざと皺皺の老婆の姿で描くなど真っ平ゴメンだったのだ。私だってこれでも一応は女なのだから、少しくらい鼻を高く描いてみたことは見逃してもらいたい。




そうして、私は何人も何人もスリザリン生たちを見送った。紅い瞳に、翠がかった銀色の髪をしていたサラザール先生のお姿を拝見することは出来なかったが、スリザリンの血統は脈々と受け継がれていくのだった。その中にはハッとするほど先生のお姿に似ている少年も居た。少年の髪は黒く流れる絹で、瞳は紅玉だった。


多くの子供たちが、スリザリンの家系という重みを背負っていた。最近の魔法使いにとっては、それは名誉であり呪詛でもあるのだということを私は感じた。家名に押し潰されそうな黒い髪の少年も、家名を盾にすることしか出来ないプラチナブロンドの青年も、血統でしか嫁ぐことの出来ない娘たちも、本当はみな、等しく哀れなのだ。


そんな中で私の目に留まったのは、ひとりの少年だった。あまり高くない背を少し曲げて、顔を髪で隠そうとするように歩く、私の愛する血族の一員である彼。彼は何度か校長室を訪れ、その度にアルバス・ダンブルドアに説き伏せられているのだった。
「ねえアルバス、少しは彼の気持ちも汲んではくれませんか?」
「もちろんそのつもりじゃ、
そしてそれはいつも口約束に終わる!


彼の訴えはいつも同じだった。生徒の中に潜んでいる人狼の除籍、自身を陥れようとした悪戯の首謀者たちへの制裁。話を聞いていると、私はサラザール先生とゴドリック先生が日常的にそういった諍いをされていたことを思い出す。蛇と獅子は、およそ千年もの時を越えた今でも自身の祖に倣う傾向があるらしい。何とも可愛らしきかな、などと言ってはサラザール先生に叱られてしまうだろうか?




その頃の外の世界の情勢は芳しくないようだった。私の愛するスリザリンの血族から、魔法界の覇者と豪語する者が台頭しているらしいのだ。もしもサラザール先生がご存命であられたならば、どんな風に思われたことだろう。先生は確かにマグルと呼ばれる人種を嫌っていらしたけれど、殲滅しようなどとは思われなかっただろうと私は思う。秘密の部屋の存在意義、それは、学校が大規模な魔女狩り(魔法使い狩り)が行われたときのための避難場所となるべく在るものだと私たちは聞いていた。その中に閉じ込めた恐怖とはつまり、私たちそのものである。決して、決して、マグルたちに向けられる恐怖ではない。私たちはそれを恐怖とは言わない。それは暴威と呼ぶのだ。畏怖による統治は、我らが望んでいたものではない。私たちは、理解と信頼が無ければ安寧は訪れないと教わったのだから。


だから私は憂っている。その魔法界の覇者と豪語する人物はきっとサラザール先生の教えを曲解してしまったのだろう。何が彼をその道へ駆り立てたのかは私の与り知る所ではないけれど、それはとても悲しいことだ。大切な子たち。幸せになりなさいと 教育していくのが私たちの使命ではなかったのだろうか?




そうして少年が校長室に最初に姿を見せてから更に幾年かが経った。あの子はもう卒業してしまったのだろうか、勤め口は見つかったのだろうかと、私は思っていた。ある日の晩、アルバスは用事が有ると言い、それまで険しい顔で読んでいた小さな羊皮紙の紙片を机の上に静かに置いてから校長室を出た。私たち歴代の校長はそれを見送った。フィニアスなんかはその秘密の文書が何とか自分の位置から読めないだろうかと背伸びをしたりしゃがんだりしていたが、とうとうアーマンドに視線で諌められた。アルバスが戻ってきたのは、彼が出掛けて行ってからいくらもしないうちだった。なのに、彼はひどく疲れているようように見えた。
「アルバス、どうなさったの?」
「……愛情を逆手に取るというのは、良い気分ではないのう」
そうでしょうねと相槌を打って、私たちは首をかしげあう。




スリザリンの血統に嘯くような振る舞いをしていた同胞が打ち砕かれたという報せが校長室に飛び込んできたのは、アルバスの深夜の外出から半年ほど経ったハロウィーンの夜だった。お調子者が流星群を降らせたとか、生徒が祝賀パーティーを開き始めたとか、そういった情報に埋もれるようにして、彼はやって来た。


彼を見たとき、私は悲鳴をあげてしまいそうになった。右手には血の気がうせるほど力を込めて手紙を握り潰していて、昔のように低く項垂れた顔に水の跡があるのが髪の隙間から見えた。
「どういうことですか」
「セブルス」
「彼女を、一家を、匿ってくださったのではないんですか」
「彼らは人選を誤ったのじゃよ」
アルバスは静かに言い、彼に椅子を勧めた。彼は崩れ落ちるように、腰を下ろした。
「セブルス、君のご主人様に彼女を殺さぬよう頼んだのではなかったのかね?」
「頼みました。頼みましたとも!」
彼の割れた声が校長室に響き、額縁の中で幾人かが眉をひそめた。
「彼女の息子は生き残ったぞ、セブルス」
「やめてください」
「彼女と同じ瞳をしておる」
「やめてください!」
喉を震わせ、彼は浅い呼吸を繰り返す。
「彼女は、もう…死にました…」
「……後悔しておるのかね?」
彼は低く唸るように喋った。それは私に、少年だった彼を思い出させた。


彼女というのが誰のことなのか、この場でそれを訊ねることは出来そうにも無かった。その代わりに想像を廻らせれば、幼子を護ったのだという、今夜の事件の被害者である亡くなった母親が一番に思い浮かんだ。
「私が、わたしが死ねばよかった…!」
彼は額の髪を掻き毟るように掌で顔を覆った。


(もう泣かないで)
私は声に出さずに彼に語りかける。
(もう泣かないで。ああでも、いいえ、今だけはお泣きなさい。私はあなたを、あなたの涙を誇りに思うし、サラザール先生もきっとあなたを誇りに思って下さるわ。あなたは立派なスリザリンだもの。何を間違えたの?何を失くしてしまったの?だけどほら、その涙は身内を愛し、己を慈しむ者を慈しんでいる心があるから流れるものでしょう?)
たとえその双眸がサラザール先生のような美しい紅色でなくとも、たとえその髪があの少年のように夜を織ったような美しい絹でなくとも、私は私の身内として、彼のことを胸を張って自慢出来る。スリザリンとはかくあるべきや!と。


「わしに力を貸してくれんか、セブルス」
「必要ないでしょう」
「いや、ヴォルデモート卿は戻ってくるじゃろう」
アルバスは彼の肩に手をかけた。
「……いいでしょう、あなたの望むような駒になって差し上げましょう、ダンブルドア。 ただし約束してください、決して口外しないと!」
「誓おうぞ、セブルス」
アルバスは額縁の中の私たちに対面して、厳かな声で言った。
「ここに居られる歴代の校長方が証人じゃ。フィニアス、内容を反芻して下さらんか」
「この盟約は、アルバス・ダンブルドアがそこの男がきみに従った経緯を 如何なる理由からも口外しないことを宣誓するものである」
「さよう。アーマンド、成立時刻の確認をお願いできますかな」
「1981年10月31日25時32分と40秒ピッタリだ、アルバス」
「感謝しますぞ。さて、、」
「はい、アルバス」
「承認をいただけますかの?」
涙に濡れた彼の黒い瞳が、私を見た。
「只今の時刻を以って、現ホグワーツ魔法魔術学校長アルバス・ダンブルドアとセブルス・スネイプとの間に盟約が結ばれたことを確認し、わたくし、は第3代校長としてそれを承認致します。我々の連盟はあなたを教師として受け入れましょう、セブルス・スネイプ」


彼は驚いたというように、その黒い瞳で私を見た。きっとどうして私が彼の名前を知っているのかと思ったのだろう。しかし、これでも千年近くこの場所に留まっていたその辛抱強さを見くびられては困る。生徒の名前、ましてや愛しき我が寮の生徒の名前を忘れてしまうわけがないのだ。彼は気付いていないのだろうか、その濡れた黒曜石は、かつてと同じままだということを。
「おかえりなさい、セブルス。ホグワーツはいつもあなたを見守っていましたよ」
私は微笑んで、彼に言う。そうすると彼は俯き、再び嗚咽を零し始めたのだった。





おかえりなさい。





(もうひとりじゃないのよ。おかえりなさい、私たちスリザリンの誇らしき子よ)