最近の私はすこぶるご機嫌であると、フィニアスは言う。私はそれに微笑を返す。幾年経てども、愛しい我が寮の少年少女たちは、私にとって本当の息子や娘のような存在なのだ。息子が元気で戻ってきてくれるということに喜ばない母が居ようだろうか。フィニアスはふんと鼻で笑う。私はそれでも微笑を返す。 「まあなんだ、あの若造もずいぶんと馬鹿をやったようだが、それも若さだな。最近はずいぶんと教師の風格が出てきたじゃないか。それでこそスリザリン。女史もそう思われるでしょうな。いやまったく一時はヴォルデモート卿とやらのおかげでいつこの額縁が粉々になるかと肝を潰したよやあアーマンド」 フィニアスの長広舌の合間を縫って、アーマンドがやって来る。彼は少し渋い顔をしてフィニアスを見る。けれどフィニアスのほうはそんなことに気付かなかったように顎鬚を撫で付けている。口が過ぎますぞフィニアス。アーマンドが言う。私は微笑みを崩さない。 「口が過ぎますぞ、フィニアス。貴公はついこの間まで純血こそが全てだと説いていらっしゃった。それが掌を返したように今度は勤勉を褒めそやすなど、まったく二枚舌とはこのことだと思われても文句は言えませんぞ」 「なに、女史はそのような狭量なこと仰るまい。なにせ史上初めての女性校長になられたお方、お若く見えても我々よりずっと経験を積んでおられる」 「フィニアス、それは私が年寄りだと言いたいのね?」 アーマンドが呆れた顔でフィニアスを見遣り、そのフィニアスは一瞬私から視線を外して愛想笑いをした。それでも私の口許はやはり微笑んでいる。フィニアスの言った通り、ご機嫌なのだ。それに、私が彼らより随分と年寄りであることは否定の出来ない事実でもある。10歳ほどの差であれば目くじらを立てる気にもなるだろうが、生憎と私の場合は桁が違う。注意する気にもならないのだ。 この額縁の中に居ると、時の流れを感じる感覚は麻痺してくる。そもそも描かれた『私』に感覚があろうものかとあなたたちは疑問に思うかもしれない。けれど、それが“魔法”というもの。記憶があり、感情があり、感覚がある。私たちは生きている。キャンバスが破壊されるまで続くこの見せ掛けの生は、不老不死の実現としては賢者の石にも通じるであろうと自負している。 いったい私が死んでから幾年が経ったのか、あの少年が教師として帰ってきてから幾年が経ったのかは、もはや私には数えられない。ホグワーツはただゆっくりと新陳代謝を続けている。セブルス・スネイプと同時期にホグワーツにやって来た赤い髪のきれいな顔立ちの少年が卒業する。グルフィンドールに伝説的なシーカーが現れる。あの4人組の悪戯っ子たちを彷彿とさせる双子が入学する。 そしてある年のある日、アルバスが書物を読みながら腰掛ける前を忙しなく行ったり来たりしながら、セブルスは苛ついたような声で文句を捲し立てていた。 「――なにが特別か、ただの子供でしょう!父親に似て傲慢で、規則など取るに足らんといった態度で、自身の高名さに酔いしれた、目立ちたがりの、生意気な……」 「そう思い込んでおるからそう見えるのじゃろうて」 セブルスが腹立たしそうにアルバスを睨む。私たちは額縁からその光景を見下ろし、彼らに気付かれないように囁き合った。いったい彼は何に憤っているのか?アルバスに言いくるめられているセブルスの姿は、まるで彼の学生時代の姿を思い起こさせるかのようだった。 「……クィレルを見張ってくれんかの、セブルス」 「…………………」 「あのターバンの下、生徒たちの噂どおりに大蒜が詰まっておるわけではないことくらい気付いておろう?」 「……………なぜ私に言いますか」 「はて、きみは誓ったはずじゃが?彼女の息子を守るため、わしに協力する、と。のう?」 突然、アルバスが私に話を振る。そして同時にあの黒曜石が横目で私を見る。 「セブルス・スネイプ、経緯はどうあれ、あなたは教師です。生徒に危害が及ぶ可能性があるのならば、それがたとえ小数点以下3桁ほどの確率のものであろうとも捨て置いてはいけませんよ」 「……それでは動く階段など取り壊さなければなりませんな」 「ふふふ。あなたから冗談が聞けるとは思いませんでした。ねえアルバス、あなたのその物言いも随分なものですよ。書物ばかり見ていないで、しっかり彼の目を見てお言いなさい。盟約があるとはいえ、あなたは頼んでいる立場でしょう?」 アーマンドが出過ぎた発言を咎めるような視線で私を見てくるけれど、私はそれに気付かなかったふりをしてただただ微笑んだ。誰の味方なのか、と問われれば私は間違いなくセブルス・スネイプの味方だと即答するだろう。ああ愛しい子、我が愛するスリザリンの申し子よ。 「…の言う通りじゃのう。さてセブルス、この老いぼれの頼みは言った通りじゃ。頼まれてくれんか?」 「………断れるわけがないのをご存知でしょう、ダンブルドア」 セブルスにきちんと向き直ったアルバスがそう言うと、彼は悔しそうな表情で顔を背けた。そしてそのまま、黒いマントを翻して校長室の出口へ向かう。恐らくはアルバスの言った通り、クィレル教授の動向を探るために動き始めるのだろう。何とも律儀で、そして真面目な性格だろうと思う。 彼が開く扉に消えていくその瞬間、僅かに振り返り、私を見た。彼は顎を引き、軽い会釈。私も微笑んだまま、小さく頷き返す。 「……顔がにやついておるぞ、」 「いやだわ、アルバス。せっかくの良い気分に水を差すなんて」 アルバスは書物を閉じ、半月の形をした眼鏡を拭った。私はキャンバスに描かれた椅子に腰を下ろす。彼は、私を味方だと思ってくれているのだろうか?あの会釈は、少しは信頼されていると思っていいのだろうか? さいきんの私は上機嫌である。 # その年が境だったように、我がホグワーツは事件の渦中へと巻き込まれることが格段に多くなった。クィレル教授は例の道を踏み外した同朋に操られていたらしく、ある生徒の活躍によって命を落としたらしい。次の年にはサラザール先生の秘密の部屋が暴かれもした。アルバスたちは最古参の私なら秘密の部屋について何か知っているのではないかと考えていたようだけれど、私は決してどこに入り口があるかまでは言わなかった。ただ秘密の部屋が存在するということだけを語った。私は憂っていた。ああこうして、サラザール先生の理想が歪められていく。 それらの事件に共通しているのはいつもひとりの生徒だった。セブルス・スネイプがホグワーツに戻ってくる切欠となったあの事件、あの夜に生き残った少年であるらしい。だから彼の機嫌が悪いのだろうと私は思い当たり、口許を緩めた。もうこんなに時が流れたのに、彼はまだひとりの女性に執着している。それはきっと、騎士道の観念から鑑みればみっともないことなのだろう。でもそれでいい。スリザリンはそれでいい。狭く深く、一途に想ってこそ、スリザリンは強くなれる。 アズカバンという監獄から脱走者が出たといって沸いた一年の後、この校長室には魔法省大臣や外国人たちが訪れて来た。私たちは眠っている振りをして、その話し合いに耳を澄ませる。 「では、ダンブルドア、トーナメントはホグワーツで行うということでいいね?」 「うむ。光栄なことじゃのう。マダムマクシーム、カルカロフ校長、どうぞよろしくお願いいたしますぞ」 「こちらこそ、ダンブルドア」 さてトーナメントとは一体何事か。薄く瞼を持ち上げて、私たちは視線を交し合う。 それがホグワーツ、ボーバトン、ダームストラングの3校対抗試合のことだと分かったのはそれから幾ばくも無い頃合だった。 セブルスが校長室にやって来て、アルバスと深刻な顔で話をしていた。どうやらまた、例の少年が何か事件を起こしたか巻き込まれたかしているらしい。まるで往年のゴドリック先生のようだ。先生はいつも何か面白い事をしようと考えて騒ぎを起こしたり、いつの間にか事件に巻き込まれたりしていた。となると、そんなゴドリック先生を叱っていらしたサラザール先生の役がセブルスだろうか? 「それで、は何を笑っておるのじゃ?」 「いいえ、アルバス。何でもありませんよ。ただ少し、懐かしいと思ってしまって」 ふたりは怪訝な顔をする。私の時代には対抗試合なんてものは無かったのだから、『懐かしい』という意味が分からないのかもしれない。私はやはり微笑んだまま、言う。 「アルバス、セブルス、大きな物事を為そうとするなら、多少の誤差は受け入れなければ。誤差を正すも一手、無くすも一手、ならば活かす一手を模索してはいかが?」 「それはハリーを試合に出させろということかのう?」 「それもまた一手。あまり盲になりすぎると、最善の一手を見逃しますよ」 アルバスは髭を撫でる。黒曜石が私を見る。 結局そのまま例の少年は試合に出ることとなり、第一の課題を見事にクリアしたらしい。こういう時に、もはや私がキャンバスから出られない身であることが恨めしいと思う。いっそ誰かがこの試合の様子を描いてくれたらいいのに。そうしたら私たちは、そのキャンバスに遊びに行って、試合を堪能することができるのに。 「ねえセブルス、あなた絵を描いてみませんか?」 「ご冗談を、女史」 きっと彼の指ならば繊細な絵が描ける、そう思うのは私だけなのだろうか? クリスマスの夜が過ぎて、アルバスと連れ立って入ってきたセブルス・スネイプの顔は、どこか強張っていた。ここ数年の間に、何か事件が起きるということに慣れきってしまった私たちはまどろみの中から一斉に覚醒する。 「アーマンド、フィニアス、、その他先生がたにもお伝えせねばならん事態となってしもうた」 「いったい何だっていうんだね、アルバス?」 「ヴォルデモート卿が力を取り戻しかけておる」 ざわりと部屋中に緊張が走る。フィニアスは顔を蒼白にして「まさか」と呟いていた。私はアルバスを、その横に佇む影のようなセブルスを見下ろす。 「ここの他に肖像画がある方は、出来る限りそちらを見て回って何か異変が無いか調べて欲しいのじゃ。どんなに些細な出来事でも構わん」 「しかし、アルバス、一体どのような根拠があってそんな…」 「闇の印」 短く言うと、セブルスはローブの袖を捲くった。左腕の前腕にかけて彫り込まれた蛇の文様は毒々しい色をしている。あれが現在のスリザリンのシンボルなのだろうか?スリザリンとは、あんなに禍々しいものだっただろうか?私は声に出さずにサラザール先生に呼びかけた。ああ先生、先生の理想は、こうも狂ってしまっています。 「セブルスの“印”だけではない。他の者の“印”も同様であった。これは彼奴の力が戻りかけていると思って間違いないじゃろう。指を咥えてその時を待つわけにはいかん。協力してくださるだろうか?」 「我々の存在意義は、現校長に尽くすこと。どうぞ命じてください、アルバス」 「恩に着ますぞ、。さて幾つか策を講じねばならんが、その一環としてセブルスには敵方へ潜り込んでもらうつもりじゃ。不都合が生じた時は、そちらの協力も願いたい」 たくさんの視線が、一気に影のような彼へ向く。彼はそれらを見返すこともなく、ただ前方を見据えて頷いた。 「セブルス・スネイプ、」 話が終わり、私は校長室を去ろうとする彼を呼んだ。渇いた黒曜石が、やはり横目で私を見上げる。 「……まだ何か?女史」 「あなたはホグワーツの優秀な教師です。私たちはあなたを信頼します。だから不安があるわけでは無いのですが……どうか気をつけて、行ってらっしゃい」 彼は僅かに目を細めた。大丈夫ですよ、と最後に声をかけて、私は微笑む。返事は無かった。ただ彼は小さく頷いて、そしてこの部屋を去った。 (大丈夫ですよ) もう一度、声に出さずに彼に言う。 (大丈夫、あなたの気高い勇敢さを、私は知っているから。だから誰にも理解されないなんて思わずに、安心して、そして気をつけて行ってらっしゃい。誇りましょう、愛しい子。失われたスリザリンの誇りをあなたが持っていることを、私は知っている) いってらっしゃい。 (大丈夫、だから蛇の毒牙に気をつけて、そして生きて帰っていらっしゃい) |