アルバス・ダンブルドアが私たち歴代校長連盟に加入したのはスリザリン出身のあの少年が教師となり15年目の終わりを迎えようとしていたときだった。アルバスの肖像画は校長の椅子の真後ろに、まるで校長室全体を見渡すかのように掲げられた。それは新たに校長となった彼の意思だった。 ミネルバ・マクゴナガルはこの就任に猛反対をした。しかし正確に言うなら彼女だけではない。フィリウス・フリットウィックならびにポモナ・スプラウトも心の内では反対しているのだ。ただそれを表意せず、ミネルバ・マクゴナガルに意思を託したというだけで。 彼が今まで行っていたスリザリン寮の寮監にはホラス・スラグホーンが据えられた。彼は、新しい校長の就任の是非について賛成も反対もしなかった。仮にもアルバスの友人だったというのに何事だ、と、グリフィンドールの寮監たちは憤っている。けれど私は知っている。ホラスは正しい。スリザリンの者は、決して同朋を貶さない。 新しい校長は校長連盟に認められないのではないかと危惧する声もあった。だから、校長室に入ることは出来ないのではないか、と。結論を言えばそれは杞憂だった。彼は正当なホグワーツの校長だ。私たちはそれを認めた。なぜなら私たちは知っているからだ。彼と、先代校長との密約を。 事情を知らない者の瞳には、彼があの椅子に座っている光景がなんと奇妙に映っていることだろう。先代の校長を殺し、力で奪った椅子。飼い主に牙を剥いた蛇。だけど勘違いしないでほしい。彼は決してその椅子を力で奪ったのではないし、彼は自ら望んでその牙を剥いたわけではない、ということを。 「スネイプ校長」 「何でしょう、女史」 「少しはお休みにならないと、身体を壊しますよ」 「お気遣い、ありがたく存じます」 彼は机に向き直り、黙々と書類にサインをする。それはカロウ兄妹を教師としてホグワーツに就任させるための委任状だった。かつて被雇用者としてサインしたそれに、今では雇用者としてサインをする。16年。その時間の、なんと短かったことだろう。 「それが終わったら、私の肖像画に、バイオリンを描き足してくださいませんか?」 彼は羽ペンをぼとりと落とした。眉間に皺を寄せ、じろりとこちらを睨む。 「なんの冗談ですか」 「あら、冗談ではありませんよ」 ふふふ、と私は笑う。 「もう千年近くも同じ場所に居ますでしょう?少し、飽きてしまいました」 はぁ、と、彼は深い溜息。 「お暇なら、ご自身の別の肖像画でも訪ねては如何です」 「まあスネイプ校長。私が死んだのがいつなのかご存知ありませんか?まだどこかに、肖像画が残っているとでもお思いで?」 「ひとつも無いということはないでしょう」 「無いのですよ。風化してぼろぼろになって、捨てられてしまいました」 はぁ、と、彼は再び深い溜息。 アルバスはよく校長の不在時を狙って、私の肖像画へと遊びに来る。 「には頭が上がらんのう」 「あら、なぜです?私はそんなに恐ろしい女ですか?」 「そうではなくての。セブルスのことを心から信頼してくれておるのは、だけだからじゃよ」 そんなことないでしょうと言いながらも、そうかもしれないと私は思っていた。 「スリザリン出身の他の校長方はどうにもセブルスを嫌っておるようなのでのう。…無理からぬことかもしれんし、その原因はわしにあるのじゃろう。セブルスには本当に申し訳ないことをさせておると、分かってはおるんじゃ」 「仕方のないことです。大方、スリザリンがグリフィンドールに付き従っているという構図が気に入らないのでしょう。放っておきなさい、アルバス。何の得にも損にもならないことです」 「………は、そうは思わんのか?」 「思いません」 アルバスは興味深そうに嘆息した。 「アルバス、この際だから言いましょう、なぜスリザリンが傲慢で不遜だと思われているのですか。いったいいつから、スリザリンは殺人狂のように思われているのですか。サラザール先生の教えは、決してそうではありませんでした。確かに血の繋がりは大切でしょう。でも先生が説いていたのは、マグル出身者から魔法界の存在がマグルたちに知られてしまう危険がある、ということ。マグル出身であろうと、ホグワーツに入学したら一歩もマグルの世界に足を踏み入れないと誓うのなら、それはそれで良かったのです」 「なんとも……耳の痛い話じゃ」 「そうでしょう?もしその者にマグルからの危害が加えられそうになれば、私たちは一致団結して抵抗しましたよ。スリザリンの教えの本質は、内側の結束を固めることです。外側に対して攻撃をすることではありません。そうでなければ、サラザール先生とゴドリック先生が親友になれたでしょうか?」 「………では、わしらは間違っておるか?」 「それは私の判断することではありません。きっと時代の流れに応じて解釈されていくものなのでしょう。それはもう、仕方ないことです。私だって、そこは弁えているつもりですよ。だからね、アルバス、私は彼を信頼しています。私は彼を知っている。彼がまだ少年であったころからずっと、優しい子だということを知っていましたから」 「はセブルスのことをよく見ておるな」 「当然ですよ。私はホグワーツの第3代校長です。サラザール先生の意思を受け継ぎ、この世をずっと見守ることにしたのです。大切な我が寮の生徒のことは卒業しても大切で、いつだって心配しています」 アルバスは微笑む。 「お主が校長で良かったと、わしは心から思う」 長い年月を経て、歪んでしまったサラザール先生の教え。その本当の意味を覚えているのは、今では私だけかもしれない。それほどまでに長い時間が過ぎたのだ。私の肖像画だって一時期は様々な場所に掲げられていたのに、今ではこの校長室にしか残っていないのだ。 「しかし、またどうしてバイオリンを描けなどと言ったんじゃ?」 「だって、彼は働きすぎですよ。仕事以外に行うべきことを用意すれば、嫌でも息抜きになるでしょう?」 それに、退屈したというのも、少しは本当のことだ。私の研究成果である、楽器の自動演奏魔法はまだ理論が生きているという。それなら額縁の中でささやかな演奏会と洒落込んでも良さそうなものじゃないか、と私は思う。 静かな足音と共に、彼が戻ってくる。アルバスは自分の肖像画へと戻り、私は居住まいを正す。ホグワーツ初期の女校長として、威厳と慈愛に満ち溢れた自分を頭の中で想像する。夫に逃げられたの女のどこに慈愛があろうかというのは自分でもわかっているけれども。 彼は重たいローブを脱ぎ、アルバスに紙片を見せる。 「これを処分しろとのお達しでしたな」 「ご苦労じゃった、セブルス」 「いえ、大したことではありません」 彼は杖を振り、その手紙のようなものを燃やした。灰を片付けると、彼はポケットから筆と絵の具を取り出した。私は思わず目を丸くする。 「……時間が出来たときに、ご所望の品を描き足しましょう」 一瞬なんの話かわからなかったがすぐに思い至り、私は口元で微笑む。 「ありがとう、セブルス」 彼は驚いたというように目を開く。いえ別に、と、消えそうなほど小さく返事があった。 (ありがとう) 私は心の中で続ける。 (ありがとう、愛しい子。相変わらず泣き虫さんなのね) 彼の瞼は、まるで泣き腫らした後だとでも主張するかのような赤さだった。 もうすぐ、新学期が始まる。 扉の前でこそこそと話すような声が聞こえてきたとき、何気なく窓の外を見ると空は濃紺で、星が瞬き始めようかというように見えた。こんな時間に一体どうしたのだろう。私はアルバスを見た。アルバスは少し複雑そうに微笑んだ。 「…でも合言葉がわからないよ」 「大丈夫よ。昼間に窓からパフスケインを忍ばせたから、中から開けてくれるはず」 「すごいやジニー!」 「ネビル、もっと声を落として!」 お客さんのようじゃのう、というアルバスの声が静かに響く。 カタリと音がして、扉が開く。枯葉が一枚滑り込み、ああもう秋なのかと思った。 「あったわ、グリフィンドールの剣よ」 「ぼ、ぼく初めて見たよ」 「ねえ、なんだかすっごく見られてるみたい」 杖先の灯りで赤毛の少女が私たち肖像画をぐるっと見渡し、金髪の少女に引き攣った笑顔で応える。なるほど狙いはゴドリック先生の剣なのか。納得したところで、パッと部屋が明るくなる。 「ミス・ウィーズリー、ミス・ラブグッド、ミスター・ロングボトム。ここで何をしておいでかな?」 ウゲ、という子供たちの呟きが漏れる。セブルス・スネイプは悠然と入り口の扉に凭れ掛かって子供たちを見ていた。 「我輩は貴様らを呼びつけた覚えは無いが……ああそれとも、自首するという知恵をようやくつけたのかね」 まあ、なんていう悪人面でしょう。 子供たちは返事に窮し、お互いの顔を見合っていた。少しして、リーダー格なのだろうか、赤毛の少女が彼をキッと見据えた。 「すいません、校長先生。ペットが居なくなったので探していたら、迷い込んでしまいました」 「ほう、この扉は合言葉が無ければ開けられぬはずだが」 「開いていたんです、校長先生。だからペットもここだろうと思って入りました」 「部屋の主の許可も無しにかね」 「すいません、校長先生」 少女にすまなさそうな態度はまったく無い。 「…処罰だ、ウィーズリー、ラブグッド、ロングボトム」 どうやら決闘騒ぎにはならずに済みそうで、私はほっと溜息をつく。 子供たちの寮監を呼びつけて嫌味たらしい応酬をしたあと、彼は無表情でアルバスの肖像画へ向き直った。そっと額縁に手を掛けて少し力を入れれば、そこにはぽっかりと空間が出来る。それはゴドリック先生の剣を隠しておくためのスペースだった。 # それから、何日か、何週間か、何ヶ月か経ったあと。 彼が黒いマントを翻して出て行ってしまった、ぽっかり空いた校長室で拍手が鳴り響いて、すこしの静寂。 「この杖はもとあった場所に戻しておきます。僕が自然な死を迎えたら、杖の力は打ち砕かれる。そうでしょう?」 「その通りじゃ」 アルバスは少年に向かって微笑み、頷く。少年の髪は黒く、くしゃくしゃに乱れている。激しく争ったのだろうか、頬には擦り傷、服には泥がついている。ああ、終わったのだな、と私は思った。私にとってはほんの短い月日で、きっと彼らにとっては途方も無く長い歳月をかけた戦争が、終結した。だけどそこに、誰よりも終結を望んでいた彼の姿はない。 「ハリー・ポッター」 私は少年を呼ぶ。少年は私を見て、戸惑うような表情をした。 「・、第3代校長です。我々を代表して、まずはあなたに感謝を述べましょう。よくこの混乱の時代を鎮めてくれましたね、ありがとう」 アルバスが私を見たが、すぐに視線を少年へ向けた。 「………けれど個人的に、先ほどから気になっていたのですが、」 私はそこで一旦言葉を切る。答えは、見えているようなものだった。しかし問わざるを得なかった。ああ、どうか、どうか間違いでありますように。 「……スネイプ校長は、どうされたのですか?」 少年は大きく目を見開いた。そのまま、ついと視線を逸らす。 「……スネイプ、先生は、」 続けるのが辛いのだろうか、少年もまたそこで言葉を切る。私は瞼を下ろした。ああ、やはり。 「……そう。わかりました。辛いのなら、言わなくてもいいのですよ」 「いいえ!僕、言えます。言います。それが彼に対する僕の義務です」 薄く瞼を持ち上げると、少年の新緑色の瞳が私を射抜く。 「スネイプ、先生は叫びの屋敷でヴォルデモートの蛇に噛まれて、亡くなりました」 ああだから、気をつけてねと言ったのに! 何度も、何度も言ったのに。蛇の毒には、毒から精製する血清しか効かないのだと、あれほど言ったのに!絶える瞬間は、痛んだろうか、苦しんだろうか。憎み憎まれながらも守り通してきた子供に看取られるというのは、どういう気持ちだったのだろうか。彼は悔しさで泣きはしなかっただろうか。 私はバイオリンを手に取った。いつかの休日に彼が描き足してくれた、歪で、少し曲がったバイオリンだった。 (泣かないで) 私は祈る。 (泣かないで。どうか泣かないで。あなたは強い子、あなたは優しい子。自分を誇りなさい。私も、サラザール先生も、あなたがずっと想い続けてきた娘も、この子供も、きっとあなたを讃えるでしょう。だから泣かないで、スリザリンの誇りを思い出して、そして前を向いて堂々と、自分の勝ちだと言っておやりなさい) 弓を動かすと、頼りない音が零れる。まるで楽器が泣いているかのような、そんな音だった。 疲れたでしょう、投げ出したいと思ったこともあったでしょう。この16年は地獄のようだったでしょう。さぞや、この世の全てを憎んだことでしょう。いまはどうかしら、少しは楽な気分になれていますか?やっと重荷を下ろして、清々していますか?それともこの世に未練がありますか?無い、と言いきられるのも寂しいけれど、でも言い切ってちょうだいね。疲れたでしょう?きっと、だから眠ったのですね。あの娘に会えるといいですね。きちんと仲直りしなさいね。スリザリンであることを、誇りに思ってくださいね。 ああ、だからどうか、どうか、このあとは、 おやすみなさい。 (どうか。どうか、良い夢を) |