TIMID --
I.easily frightened,skittish
II.shy,hesitant



























     オルフェウス   1-07.TIMID


























「ぇぅえ!?」







10月になり、空の色からも風の温度からも夏の様子が少しずつ消えはじめた頃。


夜は談話室の暖炉の近くのソファを寝床とし、
朝が来たらだけに聞こえるおはようを言う。
食べられもしないのに大広間で朝食を摂る生徒たちを眺め、
授業が始まれば誰も座っていない席にこっそりと座る。

要するに生徒として存在しているかのように、俺は振舞っていた。
毎日毎日それの繰り返しで、俺の気分はいまだに釈然としないままだった。

こんな調子で、俺に未来が救えるんだろうか?

ホグワーツは至って平和だった。
たとえ『空席』がのことだったとしても、他の誰かのことだったとしても、
穏やかに時が過ぎていく校内でそんな物騒な事件は起こらないのではないかと思えるほどだった。


そして朝。
すっきりと晴れ渡る空を映す大広間の天井に響いたのはの素っ頓狂な声だった。







「ちょ、え、うそ!?」


「………ど、どうしたのよ、……」





の視線は、届いたばかりのフクロウ郵便に向けられている。
文面を追う目は眼球がこぼれ落ちてきそうなほど、驚きで見開かれていた。
あまりの様子に、リリーが恐る恐るに声をかけた。

が食事をしている間はドア付近で座り込むことにしていた俺は、腰を上げる。
グリフィンドールのテーブルはドアから一番遠いのに、の声は明瞭に響いてきた。







「お、お母さんが、お母さんが、」


「おばさまに何かあったの?」







リリーやジェームズ、『あっち』の俺たちの顔を一通り凝視して、は俺に目を向けた。
『あっち』の俺たちから見れば、ジェームズの頭のななめ上あたりだ。

は手紙の文字が見えるように、向きをかえて突き出してきた。







「"子供ができたので再婚することにします。"……って、」


「……………おばさん、いくつ?」


「え……そろそろ40歳…かな…?」







は小首を傾げながら言った。
俺の視界の真向かいで、若き日の自分が驚きで口をぽかんと開けているのが見えた。
閉めろ、その口。だらしない。犬か!
俺は自分を叱咤する。心の中で。







「おめでとう……と、僕らは言うべきなのかな?」







リーマスが苦笑しながら言った。
鳶色の髪が少し乱れている。寝癖を直しきれなかったのだろう。
彼の皿にはパンがほんのひときれしか乗っていない。







「ありがと…と、言っておくわ。でも正直言って、びみょうな気分……」


「お相手はやっぱり、以前にお話のあった方なの?」







リリーが心配そうにを見た。

は再び手紙に視線をやった。
少し眉間に皺がよせながら、は手紙を読み進める。


俺は何もせず、立ち尽くしたままだ。
しいて言えば、眼下に広がるジェームズのくせっ毛を見つめている。
いっそアフロにしてしまえ、と学生時代に何度思っただろう。
しかし不思議なことに、ハリーに対しては思わなかった。







「…そうみたい。ミスター・とわたしと3人で話をしたいから、
 次のホグズミードの日がわかったら教えなさい、って……えぇぇ…」







そう言うなり、は心底嫌そうな顔をした。
そのという男がの母親の再婚相手の名前なのだろう。
しかし『以前に話のあった』という言葉がひっかかった。
思い出せないのだ。そんな話をしただろうか。

『あっち』の俺が心配そうにを見ているのがわかった。
どうやら当時の自分はそういう話があったことを知っていたらしい。
ああ、ちくしょう。一体俺はどこでの記憶を失くしてしまったんだ?







「……やっぱ、イヤか?」


「いやじゃないよ。前のときはわたしのせいでうやむやになっちゃったから、
 今度はちゃんとおめでとうって言うつもり。でもなんか…顔合わせづらいな、って…」


「そのさんとかい?」







ジェームズがそう聞くと、は小さく首を縦に振った。






「いつかは会うだろうって思ってたけど…こんなに早く実現するとは思わなかった…
 …だって、わたし、邪魔じゃない?言ってみれば新婚なのに、こんな年の子がいるって。
 ああもう、気まずい。胃がチクチクする。…かぁ……?なんか違和感…」







の返事の最後の方は、もはや独り言になっていた。
呟きながら、は手紙を折りたたんで封筒に戻す。



…たしかに、の方が馴染みがある、気がする。
俺はカボチャジュースのゴブレットを眺めながらそんなことを考えた。







「……次のホグズミードっていつだっけ?」


「ハロウィンの前だと思うわ」







そっか、とは言った。

そのまま、とリリーは他愛のない話を始めた。
俺はずっとジェームズの背後に佇んだままそれを聞いていた。


ホグワーツの朝食はとても美味しそうに見えた。
俺はじっとそれを眺めている。空腹は感じていない。
食べられないと知っているが、離れることができないのだ。


『空席』に座ることができたら、もう一度この料理を口にすることが出来るんだろうか。































「………再婚の話が出たのは2年前くらいだったかな」







いつもの空き教室で、俺とは向かい合っている。

は窓辺に腰掛け、俺は生徒用の机に座っている。
放課後。の背後に広がる空は一面、赤い。
ところどころに混じる灰色は雲の色だろう。

授業の道具の詰まった鞄を放り投げ、は足を宙に漂わせている。
俺は今朝の手紙について、更に言えば『以前に話のあった』という部分について正直に話したのだ。


思い出せない、と。


は少し困ったような顔をして、じゃあ放課後に説明するから、と言った。
ごめん、と俺は言った。何を謝っているのか分からないほど、申し訳ない気分だった。







「今朝みたいにお母さんから手紙が来たの」







そしては語り始めた。
視線は伏せたまま、この前のように後れ毛を人差し指に巻きつけながら。







「プロポーズされた、って書いてあった。わたしさえ良かったら承諾するつもりだ、って。
 わたしは、どうしても、喜べなかった。じゃあお父さんはどうなるの?忘れるの?捨てるの?
 そういう事じゃないって、頭では分かってた。それでも……考えずにはいられなかった。
 じゃあ…………わたしが17歳になって、『あの人』に差し出されたら、お父さんみたいに忘れるんだ?って」







俺はの肩のあたりに視線をやっていた。
の顔を正面から見据える勇気がなかった。記憶がないことが申し訳なくて。







「ちょうど、お父さんと『あの人』の約束について聞かされたばっかりだったから……
 わたしも混乱してて。どう返事を書けばいいのかわからなくて、今みたいにここに座ってた。
 それで、考えてた。わたしが死んだら、お母さんはどうするんだろう?本当に忘れてしまうのかな。
 それで新しいお父さんと一緒に、わたしなんて居なかったみたいに生活していくのかな。
 リリーは?リーマスは?シリウスは?ジェームズは?……みんなも、わたしの事を忘れていくのかな」







は視線を上げた。
指に絡めていた髪をほどき、ニヤリと笑う。
くちびるの端に、笑窪ができる。







「そしたら、シリウスが来たのよ」


「………俺?」







俺はようやくと目を合わせた。
さっきまでの儚げな表情は消え、は楽しそうに笑っている。







「……って言っても、『あっち』のシリウスね。
 わたしが落ち込んでるのが気になったみたいで、わざわざ探しにきてくれたの」


「そう…だったか?」


「そうだよ。それで、ジェームズの眼鏡が湖の底で水中人に割られるっていう話をしてくれた」







なんだそれは。







「その後わたしがお母さんのこと話したら、シリウスが言ったの。
 "悩むのも落ち込むのも仲がいい証拠なんだから、悪いことじゃないと思う"って。
 それがなんか……嬉しくて。死んだら忘れられるとか、そんなこと考えてる場合じゃないって気付いた。
 だって、いまは生きてるんだから。心配してくれる人がいる。なら、出来ることはやらなきゃって思ったの」







夕陽に透けて、の髪は赤く染まって見えた。
リリーみたいだ、と、ふと思った。







「気付いたわたしは、自分の正直な思いを返事に書いた。
 ………そしたらお母さん、お父さんのことを思い出して切なくなったらしくって。
 で、結局、その時は時期尚早により保留、って結論になってしまったわけ」


「あー………そうか」







思い当たる記憶は、やはり無い。
俺の表情で理解したらしく、は苦笑を零した。

本当に、俺の記憶はどこで綻んだのだろう。
誰か持っていってしまった人物がいるのなら、返してくれないだろうか。


灰色の雲の浮かぶ赤い空には、針の穴のような白い小さな光が灯り始めていた。
もうそろそろ、東のほうから蒼い闇が広がるだろう。





ガタン、と、入り口で音がした。





の目がすこし驚いたように開かれている。
俺は身体を回転させ、音のした方を向く。







「お前はほんと、居なくなったかと思えばこんなとこで何してんだよ」


「………シリウスのうわさ話をしてたんだよ」







はあ?と、『あっち』の俺が言った。
ネクタイを緩め、髪をかき上げながら空き教室に入ってくる。
ローブは慌てて整えたようで、少し不自然だった。

お前、さては走りまわってのこと探してたな。と、俺は思う。







「で、うわさって、なんの」


「ジェームズの眼鏡が湖の底で水中人に割られる話」


「なんだそれ」


「え、覚えてないの?」







あーとかうーとか言いながら、『あっち』の俺はの隣に腰掛けた。

2年前に会話したことは思い出せないが、なんせ何十年も付き合ってきた自分のことだ。
そのジェームズの眼鏡とかいうのも、焦る脳にムチ打って話したものだろう。
元気のないを、なんとか気を紛らわせてやりたかったのだろう。
だって俺は、それくらいのことが好きで好きでしょうがなかったんだ。







「……………あのな、」







『あっち』の俺は、窓の外を見ながらぽつりと言った。
は俺をチラっと見て、すぐに視線を『あっち』の俺に向けた。
自分を見るという奇妙な状況だが、俺も『あっち』の俺を見た。







「もし、がそのって奴と顔合わせにくいなら、オレもジェームズも、付いてってやるから。
 ……や、だって、の母さんだけ同伴ありでは無しってのは、なんだ、フェアじゃないだろ?
 だから………まあ、そういうことだよ。……そんだけ」







堪えきれず、俺は自分から目を逸らした。
ああもう、ちくしょう。何なんだ、お前は。(いや俺だけど)







「……ん。ありがと、シリウス」







は『あっち』の俺を見て、柔らかく微笑んだ。
おう、と、幾分か若い自分の声が応えるのが聞こえた。


当時の俺は、本当にのことが好きだった。
いま見てみれば、恥ずかしいくらいに。


























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10月中旬 恥ずかしい男