「あんまり暇だからパンケーキ・レースでもやろうかと思うんだけど、」
一緒にやる人?とジェームズが挙手を呼びかけて、
そこで素直に手を挙げたのはわたしとリーマスだけだった。
ジェームズはハチミツ色のエプロンを身につけて手には小さな丸いフライパンを持っている。
その姿は寮の談話室にはとても馴染んでいなくて、だからといってキッチンに居たら似合うかと言うと、
料理人というよりはシェフのお手伝いをする見習いのような格好なので、やっぱり不自然かもしれない。
「バターとハチミツはたっぷりで頼むよ、ジェームズ」
「あ、そういえばわたし、部屋にアイスクリーム隠し持ってる!
半ガロンもあるから、ちゃんと保冷の呪文をかけて少しずつ減らしてるの」
「それは素晴らしいね。チョコレートソースも捨てがたいところだけど」
わたしとリーマスはジェームズにそれぞれ好き勝手に注文をつけた。
ジェームズはうんうんと頷いきながらそれを聞いていたけれど、
そんな彼を呆れたように横目で見て「ちょっと待ってくれ」と遮ったのはシリウスだった。
「なんだよ、そのパンケーキレースってのは」
「ジェームズが体力の限界までパンケーキを焼き続けるレースじゃないのかい?」
「えっ?何を言っているんだい、君は。
どうして僕がそんなことをすると思えるのか理解に苦しむよ、親友」
えっ違うの?
わたしとリーマスは揃って驚きを口にした。
するとジェームズとシリウスが揃って首を振って溜息を吐く。
言いだしっぺのジェームズはともかく、なんでシリウスにまで呆れられるんだろうと思ったけど、
二人の間にはなにかシンクロするものでもあるのかもしれない。
「いいかい、これはマグルの宗教的な伝統行事なんだ。
告解の火曜日、マグルは教会へ行き、四旬節を迎える前に悪事を吐露し、
食事にはパンケーキを食べることが義務付けられている」
「義務なの?」
「ああうん、ちょっと誇張したことは認める…で、ある年のことだ。
毎年恒例の大量のパンケーキ作りに忙殺されていたとある主婦が、
なんと教会への集合時間に遅れそうになってしまい、慌てた主婦は急いで家を飛び出した。
あんまり急いでいたからフライパンを持ったままだった…という出来事を起源に、色々あってレースになったのさ」
ジェームズが説明してくれて、わたしとリーマスと、様子を窺っていたピーターは「へえ」と感心した。
どういう風にその話が伝わってレースになったのかは結局よく分からないけど、
そういえばマグルはそういう不思議なレースが好きらしいということはリリーの話の端々に感じることがある。
だからきっとこのイベントもそれの一種なんだろう、とわたしは半ば強引に納得した。
でもシリウスはまだ納得していなさそうで、「それで?」と親友に話の続きを促した。
「そのホットな火曜日というのが正に今日!というわけさ。
だから、レースをしようじゃないか、諸君。どうせ暇だろう?」
ニコニコと良い笑顔でジェームズが言う。
確かに今日の最後の授業はフリットウィック先生の都合で早めに終わったし、
新しい課題は出ていないし、先生たちから用事を言いつけられているわけでもない。
どうやら見たところクィディッチの練習もないようで、ジェームズは相当暇らしかった。
「それで、どういうレースなの?美味しさを競うトーナメントじゃないんでしょ?」
「そうとも。先程の開祖の逸話にあった通り、本質は陸上競技なのさ。
今回のレースは、そうだな…コースは校舎一周、キッチンがスタートで、パンケーキの焼けた順に出発。
地下牢、温室前、大広間、校長室前、天文学塔を通ってこの談話室でゴール、というのでどうだろう?」
「優勝者には、敗者のパンケーキを食べても良い権利を与えるという案を提言するよ、主催者殿」
「貴君の有意なる提言に感謝し、採用とさせて頂こう。さあ、やる気は出たかい、シリウス君!」
リーマスの提案をジェームズが承諾すると、
“何が楽しいんだろう”という表情をしていたシリウスは何かを企むような顔でにやっと笑った。
バター大盛りに加えてアイス盛りパンケーキの魅力が…っていう訳ではないんだろう。
だってシリウスは甘いものがそんなに得意じゃない。
「仕方ないから付き合ってやる」
「それでこそ我が半身!」
さあキッチンへ移動だ!とジェームズが囃し立てる。
わたしはふと思い立って周囲を見回すけれど、わたしの美しい友人の姿は見当たらなかった。
きょろきょろしているわたしに気付いて、シリウスが「どうかしたのか?」と小さく聞いてくる。
「これって、マグルの行事なんだよね?だったらリリーも、と思ったんだけど…」
「逃げられたんだろ、あのメガネ」
「聞こえているよ、君たち。悔しいがご想像の通りだけれどね…!」
本当に悔しそうなジェームズは、ちょっと涙声だった。(なにも泣かなくても)
レース中はパンケーキを落とさないこと。
スタート時とゴール時はパンケーキをひっくり返す動作をすること。
それから参加者はエプロンとフライパンを装備すること、というのがレースの決まりごとだとジェームズは言った。
だけど、マントや三角帽子は準備していても、さすがにエプロンはマクゴナガル先生から送られる
準備するものリストにも書かれていなかったし、フライパンではなく薬草用の鉄鍋しかわたしたちは持っていない。
そのあたりはどうするのかと思ったら、キッチンに到着した途端、すべてが解決した。
しもべ妖精たちが準備してくれていたの だ。
リーマスにはチョコレート色の布地にクリーム色のドット柄をしたエプロンが、
ピーターにはピンク色の可愛らしいエプロンが渡された。
エプロンを渡されたとき、ピーターは絶望的な顔になってエプロン交換をお願いしようとしたけれど、
ジェームズが「案外似合うじゃないか!」とうけてしまったせいでそれも叶わなくなってしまった。
「さあお嬢様、どれになさいましょう!」
さてわたしにはどんなものが来るのかな、と思っていたら、
しもべ妖精たちはいくつかエプロンを掲げて見せてくれた。
ひとつはアイボリーの布地に紺色と赤みの強いオレンジのような色が交互に並ぶストライプ。
もうひとつは裾がフレアになっていてウェストでリボン結びをするタイプのミントグリーンのエプロン。
そして最後のひとつは、膝下までありそうな丈で、肩紐には強そうなフリルがついている、眩しいくらい真っ白なエプロン。
「こ…これ。これしかない!この白いのにします!」
まるで絵本に出てくる貴族の家のお手伝いさんが着ていそうなエプロンに衝撃を受けたわたしは、迷わずそれを手に取った。
制服の上から着ることになるので本物のお手伝いさんのようにビシッとは決まらないだろうけど、
なんだかこう、エプロンをつけるだけで紅茶を上手く淹れられるような気がしたからだ。
意気揚々とエプロンを受け取ったわたしの背後から、「げっ」と苦い声が降ってきた。シリウスの声だった。
「、本気でそれにしたのか?まだピーターの乙女エプロンの方がマシだろ?」
「む、そういうシリウスは…似合うね」
人にそんなことを言うなんて、どんなに面白いエプロンを渡されたのだろうと考えながらわたしは振り向いた。
シリウスが身につけていたのはシンプルな黒いウェストエプロンで、丈はわたしのエプロンと同じで膝下まであるものだった。
それがどうにも、似合う。腹立たしいくらいに似合う。
そうだった、彼は何を着ても何をしていても様になるずるい人種だった。
「なんか、本当に似合うね!本職の…なんだっけ、ワインに詳しい人とかに見えるよ!
ちょっと羨ましい…足の長さのせい?こっちのも着てみる?似合うかも」
「絶対、着ない」
わたしの褒め言葉に最初は満更でもないような表情だったシリウスは、
わたしのエプロンの話になったあたりで“やばい”というように口許を引きつらせた。
それからサッと振り向くと、いつの間にか真後ろにいてニヤニヤしていたジェームズの口を手で押さえる。
ジェームズはきっと「着てみればいいじゃないか!」とか言うつもりだったんだろうけれど、
その目論見は邪魔されてムガムガという音になっただけだった。
そうこうしていると、しもべ妖精が一人にひとつパンケーキ生地の入ったボウルを渡してくれた。
エプロンから意識を戻してみれば、調理台にはフライパンもバターもジャムもクリームもばっちり準備されている。
その完璧な準備っぷりにありがたく思いつつ、どこか悪いなあという気もしつつ、
わたしたちはそれぞれフライパンを片手にオーブンに向き合った。
「位置について、よーい…点火!」
ジェームズがレース開始の号令をかけると、料理長らしきしもべ妖精がパチン!と指を鳴らした。
オーブンにはパッと炎が燃え上がる。
もし一着になれなかったら、わたしの作ったパンケーキは誰かおやつになってしまうんだ。
そうと思うと、黒焦げでもいいやとか中身がドロドロでもいいやとか、そんな風には割り切れなくて、
わたしはすぐに生地を流し込むようなことはせず、フライパンが温まるのを少しだけ待つことにした。
隣のオーブンを使っているリーマスもわたしと同じ考えのようだ。この調子なら全員―
「――よし、焼けた!諸君、おさきに!」
走り出すまでにはもう少し時間がかかるかな、と思った矢先。
ものの数分でジェームズが焼きあがり宣言をして、リズムよくぽんぽんとパンケーキをひっくり返した。
やけに早いと思ったら、フライパンの影から見えるそのふわふわした円形のものはわたしのものより二回りかそれ以上に小さい。
「えっ!?ジェームズ早すぎ…って小さい!なにそのティーカップサイズ!」
「君がそんなに卑怯だったとは思わなかったよジェームズ…」
「何とでも言いたまえ、発想の勝利さ」
やり直しを要求するわたしやリーマスに気後れすることもなく、ジェームズは颯爽とキッチンから走り去って行った。
ずるい。ものすごくずるい。だけどそう、ジェームズはそういうずるい人種だった。悔しい。
わたしはポケットから杖を取り出し、オーブン上で揺れる控えめな炎に向けた。
「ラカーナム・インフラマレイ!」
「……、君もかい…」
わたしがオーブンの火とは別の小さな炎を作り出すと、すぐ隣でリーマスが失望したように言った。
小さい声だったのに音程はやけに低くて、初めてリーマスのそんな声を聞いたわたしは正直少し動揺した。
(でもシリウスは「・ブルータス」とか言って笑っていたから、そんなに珍しいものじゃないのかもしれない)
だってジェームズが、主催者様が言ったのだ。発想の勝利だと。
ジェームズがサイズを小さくすることで時間を短縮したから、
わたしは火力を上げて、焼き時間を短縮するという手段に出たまでだ。
わたしのパンケーキは二重になった炎の威力に押され、さっそく裏面を焼く段階にまで飛躍した。
どうしよう僕も何かしないと、と焦っているピーターはまだ大丈夫、出発しそうにない。
正しいパンケーキでなくちゃ意味がない、と静かに闘志を燃やしているリーマスも、(たぶん)大丈夫。(たぶん…)
「ふ、ふっふっふ、悪いけどジェームズとデッドヒートを繰り広げるのはわたしみたいね!
この綺麗な小麦色…早くアイスを乗せたい…!ごめんねリーマス、おさき…って、あああ!シリウス!」
「お、美味い」
焼き上がり宣言をして、出走合図のパンケーキ返しをしようとフライパンを振った、次の瞬間、
わたしのパンケーキは背後から伸びてきた手によって捕らえられ、再びフライパンに戻ってくることはなかった。
慌てて振り向くとわたしのパンケーキは既に捕食されていて、
シリウスは「バター付ければ良かったな」とか言いながら、あっという間に一枚を食べ収めてしまった。
「ひ…卑怯だよ、シリウス…!」
「発想の勝利、だろ」
「その発想をひどいって言ってるの!」
わたしはシリウスのエプロンを引っ張って猛烈に抗議したけれど、捕食者はどこ吹く風だった。
おまけに、これはさすがに反則だと思うんだ、と隣のリーマスに話を振っても、
「ああかわいそうな」と棒読みで返されるだけだった。
だめだ、勝てない。
不利を悟ったわたしは素直に2枚目のパンケーキに取り掛かることにした。
その間に、背後でぽん、ぽん、とリズム良くパンケーキの跳ねる音がして。
「じゃあなお前ら、お先に!あ、、2枚目も美味く焼いといてくれよ」
シリウスはわたしたちにそう言って、鼻歌交じりにキッチンを出て行った。
リーマスももうすぐ同じように出発するだろう。だからわたしの当面のライバルはピーターだ。
負けないからね!とピーターに宣言して、わたしはフライパンに向き直った。
まあ、美味しいって言ってもらえたのは、ちょっと嬉しかったりするんだけど、
このレースが終わるまでは、そんなことを思ってしまった自分には気付かなかったことにしよう。
リクエスト14ぼつねた