以前、あれはいつ頃だっただろうか、
遅い夕食の席でトンクスが「結局シリウスとは今どういう関係なの?」と爆弾を投下した事があった。

その爆弾をぶん投げた本人と投げつけられた当人以外はみな息を飲み、
まずモリーの顔を見て、それからへと視線を向けた。
キッチンの主は眉を顰めていたが会話を止める様子はなく、も少し驚いただけのようだった。

そうねえ、と呟き、爆弾を受け止めた彼女はシリウスを横目で見た。
止めるべきかと一瞬躊躇したが、シリウスは敢えて何も言わないことを選んだ。
がどう答えるのか、その腹の内を聞いてみたかったのだ。
案外、モリーも同じような好奇心で場を制止しなかったのかもしれない。



「都合のいい関係、とか」



アーサーがスープに咽て、トンクスは「わお」と頬を染めた。
モリーが大きな音を立ててゴホン!と咳払いをすると、
は今更気付いたように「あ、違う違う!」と慌てて言葉を継ぎ足した。のだが、



「良い意味で!良い意味で都合がいいっていうか…」

「なになに、例えばどんな風に都合いいの?」

「例えば?例えば…んー…ギブアンドテイクっていうの?
 わたしはにいい顔したいシリウスを止める気がない、これはギブ。
 テイクはまぁ、にとってどういう存在になってくれるかっていうのと…
 あとどうにもならなくなったら“ブラック”の名前は便利に使わせて貰おうかなー、とか。
 ―――あ、ゴメン、やっぱり聞かなかったことにして」



モリーの睨みに負けたは大人しく言葉を撤回した。
同情と気遣いと面白がっているのが同じくらい混じった視線を一同から向けられ、
後半だけ聞かなかったことに出来たらどれだけ良いかとシリウスは思った。















唐突に、その時の会話を思い出した。



――もう放してってばぁ…」

「そしたら床で寝るんだろう」

「だってベッドはぁ…あれは罠、トラバサミ…
 でもシリウスは免許ないからだめ、逮捕よ逮捕!」



ふん!と息巻いたあと、は「痛いいたいいたい」と顔を顰めた。
何がどうなれば逮捕という話になるのか、シリウスはもっと楽しく酒に酔える体質なので
自分の声さえ頭に響くという今のの状態は興味深いようにも哀れなようにも思える。

が言うには、がこれほど酔い潰れるというのは大変珍しいことらしい。
うろうろ歩き回ろうとするのをなんとか宥め、肩を貸して歩かせてはみたものの、
広間を抜けた辺りでの身体は一気に緊張感を失い、今はシリウスが引き摺っているようなものだった。
こうなると、やハリーの視線があったとはいえさっきまで会話が成立していたのが嘘のようだ。


玄関ホールから広間へ続く廊下を横切ると、階段が目の前に立ち塞がった。
彼はこれから寝室のある最上階まで辿り着かなければならないが、
いくらなんでも大人ひとりを引き摺ったまま階段を上るのは無理というものである。



「姿勢、変えるぞ。転ぶなよ」

「えー?」



を支えている方の肩を少し下げれば、彼女の身体は簡単に傾いた。
急に軸を失ったは“あれ?”という表情をして、その場で数歩ふらついた。
そのまま自分の足につまづくという器用なことをやらかす寸前、
すかさずシリウスは腕を伸ばし、の身体を腰から横に抱え上げた。

少しは抵抗されるかと思いきやは僅かに身じろぎする程度で、
すぐに最初からそのつもりだったかのように身体を預けて来た。
こちらも一度ほっと安堵の息を吐く。


落とさないようにゆっくりと、踏みしめるように一段ずつ足を掛けて上っていると
目を瞑ったは、時々、身体の中を空にするかのように深く長く呼吸をした。

仄暗いランプのせいか真っ白な顔色に、シリウス自身の体が影を落とす。
しっとりとした唇が薄く開いている様子は、もしかしたらテレビ越しには色っぽく見えるのかもしれないが、
現実にシリウスに届くのは色気ではなく、の髪にまで染み込んだかというほどのアルコールの臭いである。


何が“都合のいい”ものか。
少しヤケクソ気味に、そう思った。







ブラック邸の四階、かつて家の主たちが住んでいた部屋。
今はシリウスが主に使っている部屋で、そしてが本部で寝起きせざるを得ない場合の部屋でもある。

逃亡生活を共にしたヒッポグリフもこの部屋を住居としているのだが、
今晩は辛抱してくれと拝み倒してウォークインクロゼットに避難させた。



。おい、起きてるか」

「んんー…どうかなぁ…」



降ろす前に一応声を掛けてみれば、なんとも他人事のような声が返って来た。
これはもう眠っているようなものだろうと諦めて、ベッドへ直接降ろすことにする。

化粧を落としてないとかシャワーを浴びてないとか歯を磨きたいとか、
そういうのは一眠りして酔いが醒めた後に本人がすれば良いことなので放っておくとして、
同じベッドを共有する立場から一応靴だけ脱がせておくことにした。


そう思ってシリウスはを降ろそうとマットレスの上に屈み込むのだが、
ゆるく絡んだの腕が中々離れようとしない。

右手がベッドへ戻されている間にの左手はシリウスの耳を撫で回し、
左手が外されると右手が戻ってきて鼻先を抓んでから頬を何度か掠めてまた首に戻ってしまう。



――、いい加減に…」

「ちょっとくらい…いいでしょ、だって罠だって言ったのに。
 このまま寝たらわたし、やだぁ…起きれなかったら……」



嵐が来る、と。
それまで閉じていたの瞼が半分持ち上がって、酒の匂いに言葉が混ざった。
頼りない声が漏らす不安は、そうだ、確かにから聞いたことがある。
深酒をしたとかひどく疲れているとか、そういう時のは昔の夢に呑まれそうになるのだと。



「…その時は、起こしてやるから」

「なら、キッチンが良かったのに…パンが焼けたら、モリーがきっと…」



酔っ払いを転がしておけばモリーが起こしてくれるなんて、そんなことはきっと無いだろう。
もういいから大人しく寝てくれ、との両手を一掴みに布団の中へと押し込んで、
自分はバックビークの羽でも借りようかと考えながらベッドを降りようとした。


だが、できなかった。

押し込んだはずの細い腕が彼の服の端を掴んで引っ張っていて、
シリウスはそれに一瞬でも動きを止めてしまった。

隙を突くように、服から離れた指先が腕を肩をなぞりながら上がって行き、口元に辿り着く。
彼の頬に両手を添えて撫でるように触れる様子は、輪郭を確かめられている気分になった。

伸ばされた腕がの方へ戻っていくのに従って、シリウスの身体も傾いで行く。
大した力じゃないのに振り解くことが出来なかった。そんな考えすら浮かばなかった。


脚が絡め取られる。
冷たい手が首の裏から背中を撫でていく。



「シリウス」



ぐっと引き寄せられて、瞼に乗せたラメの粒さえ見えるほど二人の顔が近くなった。
部屋が暗い所為なのだろうか、間近に見えているはずのの瞳の色はひどく重く、
笑っているような怒っているような、泣きそうにも見える不思議な表情をしていた。



「分かってる?今ならわたし、…いいって言ってるのよ?」



なにが、とは言わない。聞かない。

昔の夢に囚われるのが怖いくせに、がしているのはその“昔”と同じ事だ。
『あの時は酔っていたから』と後で自分自身に言い訳できる状態でなければ
きっと彼女の倫理観か何かに差し障るのだろう。

“昔”、手を伸ばせなかった代わりに今のシリウスを求めているのかもしれないし、
もしかしたら今晩のことを“昔のこと”と同じように分類しての中で封印してしまうのかもしれない。

自分の無実を証明するまで深い仲にはならないとか、
そんな聖人君子のようなことを言いたい訳ではない。
ただ単に、が彼女自身の中に逃げ道を作っていることが気に入らない。
その焦点のゆらゆらと定まらない様子に、なぜ分からないのかとひどく腹が立った。


もう一度、の唇が彼の名前の形になる。
「シリウス」と吐息混じりに囁かれるのは悪くない。
悪くはないが、




「……いい加減にしろ、
 言いたい事は大体分かるが、俺は酔っ払いの相手はしない主義だ」




そう言って、シリウスはの口元を手で覆い隠した。

の重そうな瞼はさっきよりも少し開かれて、
心外で不可解だと、本当に良いのかと瞼の下の瞳がそう訴えかけている。

シリウスは口を塞いでいた手を外し、綺麗にまとめられた髪をぐしゃぐしゃに掻き回してやった。
はされるがままだったが、腕を解くとそのまま彼の頭へぱたりと落とした。
それから瞼を完全に下ろして、小さくとも心底不満そうに「ばか」と呟く。

彼は馬鹿はどっちだと言い返そうとして、やっぱりやめた。
この酔っ払いはこのまま寝かせた方が良いだろうし、自分ももう眠ってしまいたい。
かなり酒臭いのは我慢しよう。なにせ脚が絡まったままなのだから、仕方ないじゃないか。















唐突に目が覚めた。


サイドボードのランプを点けて時間を確認すると、
魔法省を逃げるように飛び出してから二時間ほど経っていた。
思っていたより早い目覚めだ。まだ日の出までに何時間もある。

はシリウスの腕をどかして、ベッドから下りた。
それから伸びをして、身体をほぐす。少し足元がふらついたがそれ以上の問題はない。

顔は毛穴が詰まったようなべたつきで、それから口の中に酒の匂いが残っていて気持ち悪い。
シャワーを浴びてさっぱりしようと決め、部屋の奥へ足を向けた。


この部屋はかつてブラック夫妻の私室だっただけあって、簡易なバスルームまで設えてあるのだ。
階下には大きな浴室もあるのだが、こんな夜中にボイラーを派手に動かすのも気が引ける。

着替えを借りようとクロゼットを開けたらシリウスの相棒と目が合ったのには驚いたが、
とりあえず着られそうな服を見繕ってバスルームに向かった。







いつもより熱めのお湯でさっと全身を暖めて、バスルームを後にした。
ばっさばっさとタオルを豪快に掻き回して髪の水分を取りつつ寝室へ戻り、
勢いをつけてベッドに腰掛けた。年季の入ったスプリングは沈むだけ沈むが、跳ねる力は弱い。


ばかな男だな、と思った。
言わずもがなシリウスの事だ。

彼は子供たちのことが何より大切で、友人のことが誰より心配で、
それからには、ただ隣にいることを求めている。
言葉でストレートに伝えられたことこそないが、分かりやすいなんてものではないのだ。

反面は自分でも感情の整理がつかないでいる。
彼のために何かしたいという思いは、常に胸の中にあった。
ただそれは、愛情と呼ぶには卑怯すぎて、同情と言うには客観性を欠いた、分類不可能な根っこを持っている。


だからこそ、さっきはから手を伸ばしてみたのに、彼はどうやら気に食わなかったらしい。
シリウスの方はモリーと衝突して苛立ちが募る度にを連れ出し、
気の済むまで愚痴に付き合わせたり、時には全力で抱きしめて息苦しい思いをさせたりしているというのに、
何を今更物分りの良いポーズなんかが必要なのだろう。

これだからグリフィンドールは、と言えばいいのか、
それともこれだから男ってやつは、とでも言えばいいのか。
いずれにせよ、厄介なものだ。


はあ、と溜息をついて杖を振り、取り出したグラスに水を張る。
一口飲んだ後、ついでに濡れそぼったタオルも乾燥させようとグラスを口元から離した時、
背後からにゅっと伸びてきた腕がからグラスを奪って行った。

は首だけで振り返り、犯人に視線を向けた。
シリウスは寝転んだ姿勢のまま、サイドボードの灯りに迷惑そうに顔を顰めている。



「………ヒッポグリフをあんな所に監禁するのは良い趣味とは言えないわね」

「どこかの酔っ払いが“キッチンで寝る”とか言いそうだったからな。
 バックビークの腹でも枕にしようとされたら困るから、避難させたんだ」



さらりと言い放ったあと、シリウスは身を起こして残っていた水を一気に飲み干した。
空になったグラスを受け取ろうとは手を差し出すが、彼はサイドボードの適当な所に置くだけだった。
その代わり、差し出されたままの手ががっちり握られ、は僅かに顔色を変える。

今度は空いている方の手が伸びてきて、の腰を抱き込んだ。
がさついた手がガウンの裾から入り込み、ウェストの肉付きを確かめるように動くのが気に障る。

「ちょっと」と非難の声を上げてはその無礼な手を押さえたが、シリウスは答えない。
逆に挑発するように鼻を鳴らして、二人の間にあった僅かな間を詰めた。


まずい。と頭のどこかで薄っすらと焦りを感じる。
手を払い除けると肩にのしかかられて、わざとらしく耳元で溜息を吐かれ。
身をよじれば潜んでいた手が動き出して、ガウンを更に解いていく。

最初に掴まれた手はずっと握られたままで、手のひらの温度はじわじわ上がっていくようだった。



「ちょっと、もう、なんなの、
 酔っ払いは相手にしない主義なんでしょう?」

「水で酔っ払うなんて器用だな」

「そうよ、おかげで節約になって助かるわ。
 分かったならやめなさい、やめてってば!タイムサービスは終わったの!」



まずい。まずい。流される。と焦りが強くなる。
“タイムサービス”という所でシリウスは笑ったが、が開放される訳ではない。


一呼吸置いてから、は強引に振り向かされた。

腰が変な方向にねじれて地味に痛かった。
さすがに文句を言おうと顔を上げたところで急に真顔になったシリウスと目が合い、言葉を飲む。



――そうだな、嫌に決まってるさ。
 こんな模様まで入れられた身体、気持ち悪くて見たくもないんだろう?」



そう言うと、シリウスはの手を誘い、自分の服の下に潜らせた。
昔より薄くなった腹筋から徐々に上へと導かれ、あばらの中間、心臓の真上に押し付けられる。
そこの皮膚は周囲よりへこんでいるようで、指先でなぞるとざらついていた。


囚人の烙印。


彼が何を言っているのかを理解した瞬間、喉の奥が焼け付くように熱くなった。
馬鹿にするなと怒鳴りそうになるのを飲み込んで、その印に爪を立てる。
頭の方に血が上り、火照っていた爪先や手のひらはあっという間に冷たくなるようだった。

この男は、彼の全身に刻まれた収監の証である入れ墨のことを
がまるで汚いとか怖いとか思っているだろうと言っているのだ。
そんな事を思うはずが無いのを知っているくせに、分かっているくせに。


違うと言い返すのは簡単だ。
簡単だけれど、今度はそれがお酒の代わりの“言い訳”になるだけではないか。


だったら先程のやり取りは一体なんだったのだろう。
ただ単にお酒臭いのが嫌だったのか、
それともの好きなようにさせるのが嫌だったのか。



「……お酒より、“こっち”を理由にされた方が良いなんて、」



全然理解できない。
ぼやきながらは背中から力を抜いて、シリウスに身を預けた。
ゆるく抱きとめる間に、彼は「分からないだろうな」と笑いながら言った。
には分からない、自嘲じみた声だった。



















After the Lights Top  



そういう関係。