わたしのママは、変わってる。
たとえばこんな感じ。
わたしがママと水族館に行ったとき。
ママはイワシの水槽の前から動こうとしなかったから、何を見てるのか聞いたときのママの返事。
ねえ、。あの大きなイワシを見て。彼がこの群のボスなのかな。
でもね、ボスだとしたら、とても頼りがいの無いボスね。
だってほら、別の魚に何度も進路を譲ってる。
今の時代、イワシの世界でも強さだけではやっていけないということ?
それとも、本当にただの木偶の坊だということ?
ママは30分くらいイワシを見つめていた。
その日の晩御飯にはイワシがお皿の上に乗っていた。
たとえばこんな感じ。
わたしがクラスの劇でハムレットをするんだよってママに言ったとき。
クラスの女の子はみんな(もちろんわたしも)オフィーリアがいいんだって報告したときのママの返事。
わたしもやったっけなあ、ハムレット。
わたしはね、なにがなんでもガートルードをやりたかったの。
だから他にライバルがいたら絶対諦めないでとことん戦うつもりでいたのね。
それで、「ガートルード役がいい人?」って先生が言ったから、立ち上がる勢いで手を挙げたわ。
そしたら、わたしだけだったの。みんなオフィーリアで。なんでだろうね。
ちなみに、椿姫をだったらマルグリット・ゴーチエじゃなくてジュリー・デュプラがいいらしい。
そして、こんな感じ。
テレビをつける。
あるチャンネルに合わせれば、主人公の女性と個性的な仲間たちのヒューマンドラマをやっている。
その中のひとり、ジャパン・フリークの女性。
ある回では、自称・サムライのアジア人男性と同棲していたところ、帰宅したら金品と男が失踪していた。
「ねえ、だって、サムライがそんなことするなんて、思わないじゃない?
わたし、サムライのお嫁さんになるのが夢だったの。ほんとうに。小さい頃から。
こんなの、酷すぎるわ。夢だったのよ。ほんとうに。わたし、ジャパンのこと信じてたのに!」
そして男が「仕事だったんだ。ごめんね、愛しているよ」と言いながら戻ってくる日を夢見て主人公宅で居候となる。
それがわたしのママ、・。
職業は、女優。
週に1回は何かに出演してるけど、主役というよりは名脇役、といった感じ。
そんなママの娘が、わたし、・。
わたしはガートルードじゃなくてオフィーリアがいいけどなあ…
シーン1:木星と犬 1
カレンダーの7月を完全に破り捨ててから1週間ほどが経過した。
その日の・の1日は窓から差し込む眩しい光によって幕を開けた。
タオルケットを絡ませたまま上体を起こし、あたりをさぐる。
枕元の置時計を取ったつもりで手の中をのぞきこむと、そこには惑星がぐるぐるしている、シックな色合いの懐中時計があった。
それは去年のクリスマスにから贈られたもので、時計の体裁をとっているくせに指針や文字盤は見当たらない。
は喜べばいいのか怒ればいいのかわからず、とりあえず困惑しながら「これ、どこの時間?」とに聞いたところ、
ワインを片手にゴキゲンだったは「木星よ」と言って鼻歌まじりにテレビのチャンネルを変えた。
ちくしょうこの母めと思いながらもは「そうなんだ」と話を合わせることにしたので、
クラスメイトに「その時計かわってるね」と言われるたびに、うん、木星時間だから、と答えることになってしまった。
そっか、木星では今カシオペア時ベテルギウス分なんだな、と今では冷静な突っ込みをしながら、
は地球の、イギリスの時刻に合わせてある時計を今度こそ引き寄せる。
9時37分。
多少の不摂生は心にとっての摂生となる、というの持論はにも受け継がれている。
9時37分。まあ、いいか。時計を放り投げて、はベッドから降りた。
寝巻きにしているハーフパンツとTシャツのまま、は2階にある自室を出て階下のキッチンへ向かう。
階段を踏みしめながら気配を探るが、1階からは何の音もしない。
母はまだ寝ているのだろうと見当をつけ、は朝食に何を食べるかということへ頭を切り替えた。
キッチンに入り、ひとまずソーセージをフライパンに転がしてコンロに乗せたら、玄関へ向かう。
が仕事へ行く前に新聞の社会面だけ読むので、新聞はテーブルの近くに置いておく習慣になっていた。
― テムズ川にアザラシ出現 ― チェス名人、八百長か? ― 脱獄犯いまだ捕まらず ― アジア経済の危機 ― ……
ひときわ目立つ脱獄囚の記事に否応なしに目を引かれ、ざっと目を通したは眉根に皺を寄せた。
脱獄してしまったものは仕方が無いが、肝心の情報―つまり、どこの監獄から、という情報―が無いのだ。
それも今日に限ったことではなく、事件が発生してから、一度もそれが掲載されていたことはない。
が再びキッチンに入ると、ソーセージの半分焦げるような臭いがしていた。
広げかけた新聞をそのままソファに投げ出し、は慌ててコンロの火を消し、ついでにテレビをつける。
― ブラック脱獄囚は未だに姿を見せません。ブラックは12年前に…… ―
「おはよう、」
「おはよ、ママ」
そこへちょうど、極めて簡単な格好のが欠伸をしながらキッチンへ入ってきた。
ちょうどブラックが脱獄したあたりからだろうか、は撮影でアジアの方へ行っていた。
帰宅したのは昨日の深夜だったので、お土産はまだもらっていない。
「ママ、今日は休み?」
「ううん、午後から試写会のゲスト…11時には入らなきゃ…」
「それテレビでやる?」
「どうかなあ…ワイドショーなら、するかも」
は、テレビに映るを見るのが好きだった。
この人が、いま映ってるこの人こそがわたしのママなんだ、と思うと、体がむず痒くなるような嬉しさで一杯になるのだ。
午後はワイドショーをチェックしなくちゃ、と心のメモに書きとめる。
なんたって、ドラマや映画の中では奇天烈な人物ばかり演じるだったが、
演技ではない出演の時にはシンプルな服装で愛想よく笑いよく喋る人物で、それはもう世の女性がステキ!と言わずにはいないのだ。
が特に好きなのは少しかしこまった席でのシックなドレス姿で、焦げ茶色の髪をゆるやかに波打たせていたりする母だった。
パーティに出る機会があればママみたいなドレスを着るんだ、と密かに決めている。
「ママ、シリアルどっち?チョコ、プレーン?」
はフライパンの中身を皿へ移しながらに尋ねた。しかし、返事がない。
ママ?と呼びかけての方を見れば、が広げっぱなしにしていた新聞をじっと見つめている。
「ママ!聞いてる?シリアルどっち?」
「え…?あぁ…シリアルね、ごめん。うん…じゃあプレーン」
― シリウス、
幸か不幸か、が微かに漏らした声はシリアルの立てるザカザカした音に阻まれ、には届かなかった。
テレビを眺めながら軽い朝食を済ませ、はバッグを肩にかけてキッチンへ再び入ってきた。
は、だらだらとヨーグルトを啜っていたに行ってくるねと声をかける。
「そうだ、」
玄関のドアへ向かいながら、は両腕を広げて、これくらいの、とジェスチャーを始めた。
「これくらいの、黒い、でっかい犬が来てもうちに入れちゃダメだからね。見つけても近寄らないで」
その大きさだったら犬じゃなくて熊だ、と言いたい気持ちを抑え、うんわかったウチに入れないし近寄らないよ、とは言う。
ママって、どうしてこう…あぁなんだろう?
が車を発進させる音を聞きながら、は変なの、と呟かずにはいられなかった。
わたしのママは、変わってる。ほんとうに。
←
オープニング
シーン2→
そのうち椿姫パロでもかきたいです。(パロ大好き!)