がエンジン音を響かせて家を発った後、はソファで夏休みを満喫するつもりだった。
アイスが食べたくなれば冷凍庫から商業用の大きなパックを出して、テレビをつけながら雑誌を眺めたりする予定だった。

そしての輝ける休日の計画は、テレビが11時のニュースを流し始めたと同時に崩壊したのだ。



「ど、どちら様ですか…?」











  シーン2:魔女の形態素











11時のニュースが始まった時、玄関のドアをノックする音がの耳に届いた。
なぜ呼び鈴ではなくわざわざノックなのかと訝しがりながら、ソファから立ち上がり、玄関へ向かう。

―ママかな。忘れ物したとか…?時間、間違えてたとか…?



「ホグワーツのミネルバ・マクゴナガルです。ミス・に話があるのですが」



がドアノブに手を伸ばした時、ドアの向こうから声が聞こえた。
ホグワーツのマクゴナガルさん。には聞いたことの無い名前だった。



「…あの…お仕事とかは、事務所を通して…」

「事務所?ミス・の事務所があるとは把握しておりませんが…」



え?

伸ばしていた手を引っ込めて、はドア越しに訪問者を見つめた。
事務所があるとは把握していないということは、が女優であると把握していないということになる。
仮に知らなかったとしても、家を調べる過程で発覚することだろう。

それでもこの訪問者は、の職業を知らないのだ。
用事があるにも関わらず、その相手の家を知っているにも関わらず、職業を知らないのだ。

不気味な感じがして、はその場から一歩、後ろへ下がる。



「貴女は、ミス・ですか?」

「…え、と、」



変な人が来た、とに知らせるべきだろうか。それともの事務所に?

一歩、また一歩、とが後ろ歩きをしていると、訪問者は毅然とした声で、よろしい、と言った。

訪問者の声が聞こえたと同時に、こつんと、何かがぶつかる様な音がの耳に届いた。
そして―信じがたいことに―触れてもいない筈のドアが音を立て、鍵が開錠されたことをに告げた。



「よろしい。ミス・―貴女に渡すものがあるのです」



ギッと軋んだ音を立ててドアが開いてしまった。
は目の前の光景が信じられずに、五歩ほど後ろ歩きをした地点で立ちすくんでいた。

訪問者はまるで中世のカトリック教徒のような、地味な色の、飾り気の無いワンピースを着た女性だった。
トラ猫を彷彿とさせる柄のメガネに、髪をきつめに結わえている。



「か、鍵…なんで…わ、わたし触ってな……」

「ええ。わたくしが開けました」

「ど、どうやって…合鍵…」



訪問者の女性は、合鍵ですか、と眉をひそめた。



「合鍵などは持っていませんよ」

「じゃあなんで…」

「魔法です」



女性は、何度もそうしてきたかのような当たり前の様子で答えた。
見れば、右手には木の枝のようなものを握っている。



「………ど…どちら様、です、か?」



これは何だろうか?
新手の押し売りとかなのだろうか、それともを標的にしたドッキリ企画なのだろうか。
ああ参ったな、せっかく今まで自宅はバレずにいたのについに知られちゃったのかな
それにしてもタイミングが悪いなあもうほんとに参ったなあ…
は心の中で嵐のように文句をたれる。

ですから、と女性は続けた。



「ホグワーツ魔法魔術学校副校長のミネルバ・マクゴナガルです。
 、貴女に入学許可証を届けに来たのです」



女性の言葉に、は開いた口が塞がらないという慣用句を見事に体現することとなった。
自身の耳が信じられなかったし、女性の神経そのものも理解できなかった。

魔法。
この期に及んで魔法とは。



「…セールス、なら…け、結構です」

「いいえ。わたくしは訪問販売の詐欺師ではありません、
 わたくしは魔女です。そして、貴女も。貴女のお母様の、も」



魔法。
魔法とは何なのだろうか、とは考える。
本の中の、お話の中の、都合のよい存在。杖を振るというプロセスを経て結果を得るもの。
妖精が使うもの。悪魔が使うもの。かつての弾圧の元凶。

貴女も。貴女の母の、も。

魔女。
が魔女であるわけがない、とは思う。
もし魔女だったなら、女優になんてせずに暮らしていただろう。
魔女だったら、わざわざ車で出かけていくことなんてしないだろう。
魔女だったら。

魔女だったら?


マクゴナガルは呆然と立ち尽くしている少女をじっと観察した。
少女は魔法という存在を信じられないように見える。
しかしマクゴナガルにとってはが魔法を知らないということが信じられないのだ。

彼女の娘なのに?彼女の血を引いているのに?

だが一方では、この家に魔法が存在しないことを納得してもいた。
そうでなければ、わざわざ副校長の自分が赴いて入学案内など渡す理由など無いのだ。
そうでなければ、出した筈のフクロウが家を見つけられずに戻ってくるわけがないのだ。



「…信じられないようですね、。では―これなら、どうでしょう」



マクゴナガルはごく自然な動作で、その手に握られている木の枝を振った。
どうでしょうと言われてもどうなのですかと言い出さんばかりのは、ただ呆然と木の枝の先端を見守る。

すると、マクゴナガルの腕が下がり、また上がった瞬間、その杖の先端から光の筋が迸った。
光の筋はの傍を走り抜け、廊下に飾ってあったドライフラワー(が学校で作ったのだが)に衝突する。
は一瞬遅れで光の筋の行方を追うために首を廻らせ、え、と声を漏らす。



「いかがでしょう、これが―魔法です」



の瞳に映るのは、萎れていた植物ならば持ち得ない鮮やかな緑だった。
ドライフラワーだったものは今では生き生きと花開いている。
の脳裏に浮かぶのは、そのドライフラワーを作ったときの光景だった。
そういえば、メアリ・ルーがトゲで怪我をしたって騒いでたっけな…
アニー・ケニヨンはどうしても黄色い花を使いたがってた…ドライフラワーになれば色なんて関係ないのに…
ジャック・ホイヘンスにハサミを横取りされたし、手下のキムには…あれ、キムには何をされたっけ…



「…………魔法…」



そう、は確かに何年か前に手芸サークルでバラをメインにしたドライフラワーを作ったのだ。
その年の学期末には家に持って帰ったし、それをが嬉しそうに廊下に飾った様子も覚えている。

では―

では何故、目に映るその花束は生きているのだろうか。
では何故、花束は生き返ったのだろうか。
では何故、木の枝の先から光が出てくるのだろうか。

魔法なのだろうか。

本当に?ただのよく出来た手品ではなくて、本当の、本当に?

は何度も自問するが、当然答えを持ち合わせては居ない。
それを持っているのは、今、目の前に居る、古めかしい服装をした女性だけなのだ。



「…あの、リビング…玄関で話すより―その、こっちです、ど、どうぞ…」

「ありがとうございます、。では上がらせて頂きます」



セールスだったら、母が戻ってくるまで頑張ろう。
ドッキリだったら、母が戻ってくるまで我慢しよう。(でも出来れば早く帰ってきて、ママ!)

の頭の中は色々な種類の「もし」とその対処法、そして母への呼びかけが交互に渦巻いている。
点けっぱなしだったテレビがひとりで喋っているのが、には遠方からの呼びかけに聞こえた。



「さて、入学許可証です。ご両親と―まあ、なら解っていると思いますが―よく相談の上、返信して下さい」



すすめられたソファに腰を下ろしたマクゴナガルは、封筒をに差し出した。
恐る恐る触ってみれば、一見、普通の封筒と何ら変わったところなどは無いのだが、は指先に微かな違和感を覚えた。
封筒の手触りは、今まで手にしてきたどんな封筒とも、葉書とも、ノートとも、違っている。
裏返してみれば紋章のようなマークが紅い蝋で捺されているし、エメラルド色の文字は水が流れているように煌いている。

魔法。

の頭には中世の景色が浮かび上がる。(と言っても実際に見たわけではないので、空想による光景なのだが)
腰の曲がった老婆が顔を覆い隠すほどのフードを被り、大きな鍋で怪しげな液体をぐるぐるかきまわす。
傍らにある木製の机には何かの目玉などと並び、羊皮紙と羽ペンが置かれている。

この紙は、羊皮紙だろうか。
このインクは、なにから作られたのだろうか。

魔法なのだろうか。



「…ホグ、ワー…ツ」

「ええ。魔法学校の中でも一番の歴史と実績を持つ、素晴らしい学校です。
 それに、も、ホグワーツの卒業生ですよ」

「そうなんですか?」



もちろんです、とマクゴナガルは言った。



「魔力とは概ね、親から受け継ぐものです。その性質も含め。
 は優秀な魔女でした―ええ、とても優秀な……
 、ホグワーツで、きっと貴女も素敵な魔女になるでしょう。
 わたくしも、校長も、貴女が入学することを楽しみにしています」

「わたし魔法なんて使えません、けど」

「過去に感情が昂った時など、不思議な経験をしたことがおありでしょう。それこそが魔力の顕れです」



は覚えている限り、不思議な体験に当てはまる事柄を探してみた。
小さい頃は、クリスマスの朝にプレゼントが置かれていることが不思議だった―
怒られたり、悔しかったりした時に、涙が出てくることが不思議だった―
しかしこれといって不可解なことなどは無かったように思える。



「……………………」



やっぱり、ただの詐欺師なんじゃないだろうか。
(でもドライフラワーは生き返った)
やっぱり、魔法なんて存在しないんじゃないだろうか。
(でもドライフラワーは…)


該当する記憶が見つからず黙りこくってしまったを見て、マクゴナガルは失敗したと気付く。
これでは、自分を、というよりも一度は信じかけた魔法の存在そのものを、疑ってしまう。
なにか―決定的な証明をしなければ。



「…魔法を学べば、このようなことも可能になります」



が猜疑心の渦から抜け出し、マクゴナガルの方を向いた時には、そこにマクゴナガルの姿は無かった。
そこにあるのは―どこかで見たようなトラ柄の―猫だった。
猫はをじっと見つめ、瞬きをすると、次の瞬間には再びマクゴナガルが座っていた。



「……いま、ネコが」



マクゴナガルは口元を微笑ませ、何も言わずにを見ている。
何も言わずにいるが、には聞こえる―これが、魔法なのです―と。

そして、マクゴナガルには聞こえる―ほんとうに、魔法なんだ―と。


から警戒の色が薄くなったのを感じ取り、マクゴナガルは内心安堵の溜息をつく。
よかった。この娘も理解したようだ。それに、呑み込みが早いのは母似だろうか…?



「ところで…は留守の様ですが、いまどこに―」

「あ、仕事です。すいません。たぶん、まだまだ帰ってこないかも――あ!!」



マクゴナガルは突然のの大声に驚き、彼女を見て固まっているが、はそれどころではない。
ワイドショーを見なくちゃ。ママが出るかもしれないって。試写会…なんの映画だっけ…



「あの、すいません。チャンネル変えていいですか?ママが―」



喋りながらも、はリモコンを手にとってある番組を次々と画面に表示させては別の番組へ変えていく。
マクゴナガルは知識としてのテレビジョンが目の前でその通りの動作をするのを眺めるのに必死である。

そして、何回かボタンを押した後、はある局で画面の切り替えを停止した。
ステージに椅子が設けられ、そこにはテレビでは馴染みの顔が幾人か並んでいる。
は目に全神経を集中させて、の姿を探す。焦げ茶の髪。シンプルな服で―



―では次に、ゲストのに……



いた。
中央の司会の右隣に、は母の姿を認めた。
はたちまちの内に自分の体を満たすむず痒さで一杯になる。
ママが喋る。テレビの向こうで。綺麗にお化粧をして、綺麗な服を着て―



―えぇ、それで、わたし、これから1年、お休みを取ろうと思っているんですが…
 え?引退ではないですよ。えぇ。それで……



「えぇ!?」



は画面の向こうのの言葉に度肝を抜かれた。
休む?1年?そんなの聞いてない!

一方でマクゴナガルは、よくわからないが目の前の箱の中にいる女性がかつての教え子だということに度肝を抜かれていた。
なぜ彼女があんなところに?いや、物理的にあの箱の中にいるわけではないことは知っている。
つまり、なぜ女優に?


しかしそこで画面はどこかのスタジオの風景へと切り替わる。
(えぇ、本当にびっくりですね、から休止宣言がされるとは)
(彼女は今ほんとうに活躍中ですから、この休止で今後の仕事に悪影響が出ないことを祈るばかりです)




とマクゴナガルがそれぞれ自身の「なぜ?」で頭を一杯にしていた時、ガレージで聞きなれた音がした。


にはそれが、母の愛車が帰ってきた音だとわかる。
続いてばたばたと騒がしく走る音がして、カギが回る音がして、さっきまで画面の向こうにいた筈のが表れる。



!ただいま、ねぇ、変な人とか犬とか、来てないでしょうね?」

「ママ!何なの?休むって、1年も!聞いてないよ!」

「それはいいから、後で説明するわ。とにかく―」



しかしは言葉を続けることができなかった。
呆然とした表情でソファに座っている人物を見ている。
しまった、と、は思った。
なんだかよくわからないけど、厄介なタイミングでよく知らない人を家に入れてしまった。



「―――…マクゴナガル先生…」



しかし怒声を覚悟していたの耳に入ったのは、怒りではなく、驚きに満ちた声だった。
















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