青空が画かれた油絵の前で、わたしと先生は佇んでいる。

、ついカッとなって喧嘩して、保護者召喚の直前です。











  シーン24:赤と黒 2











『ギリシア神話においてゼウスを育てたニンフの名前は?』



「わっ!?」



はのけぞった。
目の前にある絵から声が聞こえてきたのだ。

それは細くて落ち着いた女性の声だった。



「アマルテイア―――ラテン語読みならばアマルテア」



しかしルーピンは驚いた様子もなく、さらっとその声に答える。
アマルテア?と思う間もなく、眼前の油絵がぱかりと倒れ、空間が現れた。

合言葉だったのか、とはようやく覚った。


おいで、とを促し、ルーピンは油絵の奥の空間へ進んでいく。
恐る恐る踏み入ってみれば、すぐ目の前に木製の扉があった。
取っ手に施されているのは花をあしらった細工のように見えた。

トントン、と軽い音が響く。ルーピンがその扉をノックしていた。



「………いま……開け、……」



微かに聞こえてきたのはかすれた声だった。
あまりにも聞き覚えのありすぎるそれに、の心臓が一回だけとんでもない大きさで波打つ。
ちゃんと顔をあわせて話をしたのは、もう2ヶ月前にもなるだろうか。

ドタン!と大きな音がして、扉が開いた。
何か倒したな、とは悟る。この母は油断するとすぐに部屋を荒らすのだ。



「…リーマス」

「おはよう、



ルーピンは穏やかな笑顔で挨拶をした。
対するはと言えば、青黒い隈に縁取られた眠そうな目でもごもごと呟くのみだった。



「……あの人?」

「いや、そんなに深刻な用件じゃないんだ。……ね、



?というの声がの耳に届いた。
反射的にルーピンのローブで身を隠そうとするが、無駄な努力だった。

ルーピンに腕をつかまれ、母の前へ生贄のようにずずいと差し出される。



「マルフォイの息子さんとちょっとした騒ぎを起こしてね。
 からも一言注意してもらったほうがいいんじゃないかと思って」

「……マルフォイ?」



あからさまに機嫌の悪そうな目でじとりと睨まれ、は思わず肩を震わせた。
何だろう、この迫力。これがあのボンヤリした母だろうか。



「じゃあ、は届けたよ」

「えっ…ちょ、せんせっ……!」



てっきりルーピンが仲裁してくれるものと思っていたは思わず声をあげた。
ルーピンはそんなものを意にも介さず、穏やかな笑顔のまま油絵を元の位置に戻して去っていく。

もうダメだ。は覚悟を決めて母を見上げた。



「……ごはん、食べた?」

「え?た、食べた、けど…」



ふぅん、と言っては室内に戻っていく。
怒鳴られるかと身構えていたは呆気に取られた。
しかも何だ、ごはん食べたかどうか聞くなんて。
わけが分からないがそれもいつものことだと割り切って、の後に続いた。



「ママは?ちゃんと食べてる?」

「あんまり……」



ぐすん、と鼻を鳴らしながらが言った。
ダメじゃん!と言いながら、は室内を見回した。

部屋にあるのはシンプルなソファとデスク、それに簡単なキッチンだけだった。
ソファには毛布がぐったりと引っかかっている。まさかここで寝ているのだろうかとは思った。
おまけに、部屋の隅には本が何冊か平積みされている。

あまりに簡素だった。
これならグリフィンドールのの部屋のほうが豪華かもしれない。



「…何かあったの?」



やかんに注いだ水を一瞬で沸騰させ(魔法だったのだろうがには見えなかった)、
はコーヒーをカップに注ぎながら言った。

ソファに座りながら、来た、とは再び身構える。



「べっつに。マルフォイがママの悪口言うから…ちょっと、頭にきたの!」



あーなるほどー。と間抜けな声では言った。

予想していたよりも随分どうでもよさそうなの反応に、はちょっと肩を落す。
母相手に緊張感を求めた自分が間違いだった。そう言い聞かせた。



「ママは悔しくないの?」

「んー…代わりにが怒ってくれるから、ね。平気よ。
 それで?ただの口喧嘩で終わったわけじゃないんでしょ?」



うっとは声を呑んだ。
どうしよう。どこまで正直に言おう。
そんな葛藤が脳内で行われる。



「……つい、カッとなって……これで、こう……」



は手元のバスケットを差し出し、振りかぶる動作をした。
ちみちみとコーヒーを啜りながらその様子を眺めて、は再びふぅんと言った。



「どうせリーマスからお説教されたんでしょうから、
 わたしから特に言うことは無いけど……次からは、気をつけなさいね」

「……はぁい…」



暗に「バレないように殴れ」と言っているかのような口ぶりに、は大きな溜息をついた。
怒鳴られることはなさそうだとわかり、安心したのだ。
(最も、あの母がウィーズリー夫人のように怒鳴ることなど滅多に無いことではあるのだが)

は2ヶ月振りのを眺めた。
目の下の隈もさることながら、一段とやつれたように見える。



「……ママ、無理してない?」



は無言で肩をすくめた。

どうしようかと一瞬迷い、はバスケットを開けた。
きっと夜警が終わったばかりで何も食べていないのだろう。
同じお腹をすかせた相手ならば、熊のような黒犬よりも大好きな母のほうが優先順位が上だ。



「スネイプ先生がママに『本返せ』って言ってたよ」



食べる?とがバスケットを差し出すと、は目を輝かせて何度も頷いた。
ぐいっとコーヒーを飲み干し、再びお湯を沸かすと今度は紅茶を淹れ始める。



「あ…忘れてた……」

「やっぱり!おかげでわたしが嫌味言われるんだからね!」



それからそれから、とはここ2ヶ月の間の出来事を話しだした。
双子に騙され組み分け帽子に挨拶したことから始まり――
ハリーがホグズミードの許可をもらえなかったことも含め、
いかにスリザリンの連中が嫌味ったらしくて最悪かという話だ。

その間、は2人分の紅茶を淹れ、トーストをつまみながら黙って聞いていた。

ふと思い出し、は母親を見据えた。



「ママはハリーのパパとママのこと知ってる?」



瞬間、がびくりと肩を震わせた。
すぐに平静を取り戻したが、微かに指先が震えているのがにも見て取れた。



「……どうして?」

「えっと……マルフォイ、がね。何か知ってるみたいなの。
 ハリーに『復讐しないのか』って……その、シリウス・ブラックのことで…」



は何も言わず、ティーカップの底を見つめた。

まずいことを聞いてしまった、とは思った。
さぐりを入れるつもりは無かったのだ。ただ純粋に、興味本位だった。



「……友達だったわよ」

「そ、そっか、歳が近いみたいだったからもしかして、って思ったの。
 ……あの…わたし、いけないこと聞いた?」



は顔を上げて、困ったように笑った。



「いいえ。ただ……驚いただけ」



は返事に詰まった。


母は、シリウス・ブラックともハリーの両親とも交流があった。
そしてブラックの話によれば、『秘密の守人』のことは当人達しか知らなかった。

加えて8月頃に言われた『黒い大きな犬には近寄るな』という言葉。
つまりは、ブラックが親友たちを殺した犯人だと考えているのだ。


は良心が痛むのを感じた。
ブラックの話が本当なら、一刻も早くそれを知ってもらいたい。
しかしそれが嘘だったら?もしくは信じてもらえなかったら?



「ママは……ブラックがハリーを殺そうとしてると思ってる?」



は力なく首を振った。
折れてしまうのではないかとハラハラしてしまうほど、首筋が細く見えた。



「わからない……あの人が何をしようとしているのか、検討もつかない。
 どちらにしてもハリーにとって好ましい状況ではない、という事しか言えないわね」

「そ、そうだよね」



は慌てて紅茶を飲んだ。

母が会話を打ち切ろうとしているのは明らかだった。
しかも目に見えて疲れている。あまり長居はできそうにない。



、とが呼び、は顔を上げた。
何かをためらうような沈黙のあと、は静かに聞いた。



「…学校は、楽しい?」

「もちろん!」



はとびきりの笑顔で言った。
つられたようにも笑顔になり、はほっと胸をなでおろした。

たしかに色々と不穏な状況ではあるけれど、魔法の学校は想像以上に楽しい。



「しっかり勉強して、しっかり遊びなさい。
 わかってるだろうけど…喧嘩は、ほどほどにね」

「わ、わかってるもん…」



の頭を撫で、もう行きなさいと促した。



「ほら、せっかくの休みにいつまでも教師の部屋にいるもんじゃないわ、"アンドロニカスさん"。
 その魔法のバスケットをグリフィンドールのクィディッチチームに差し入れするんでしょう?」

「え?あ、…そ、そうそう!もう行かなきゃ!」



バスケットについて思わぬ突っ込みが入り、はぱっと立ち上がった。
(助かった!)と心の中で叫ばずにはいられない。
どんなに凄腕の魔女であろうとも、基本的に母は母のままだった。

また来よう、と思いながら、は紅茶を飲み干した。



















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