どくどくと波打つ心臓の音を隠しながら、わたしはみんなと一緒に大広間へ戻った。
フレッドかジョージのどちらか(もしかしたら両方)がわたしを呼んでいたけど、声が出なかった。



「ぐっすりおやすみ」



ダンブルドア先生はそう言って、大広間を出て行った。

途端に大広間はガヤガヤと騒がしくなったけれど、
みんなの声も、パーシーの注意も、全部が遠くから聞こえてくるようだった。

どうか彼が見つかりませんように。
どうか彼が捕まりませんように。

わたしは寝袋をひとつ掴んで、部屋の隅へ引き摺っていった。
懐中時計はしっかりと手の中に隠し持ったままで。











  シーン27:ナイトメア・ハロウィン 3











シリウス・ブラックがどのようにして校内に侵入したのか。
さまざまな仮説が生徒たちの間で飛び交ったが、ひとつ残らずハーマイオニーに否定された。

寝袋の奥深くに潜りこみ、懐中時計のツマミをひっぱりながらは聞き耳を立てていた。
ぎゅっと目を瞑り、白い子猫と魂が入れ替わる瞬間を耐える。

寝るんだ!というパーシーの怒声が響いたとき、大広間の照明が落とされた。
天井は星空を映していた。まるで戸外でキャンプをしているかのようだった。



(クルックシャンクス)



呼びかけても、返事は無かった。
クルックシャンクスはブラックが寮内に侵入してから案内をする手筈だった。
つまり、今も寮内に残されているのだろう。

彼は大規模な捜索がされていることに気付いているだろうか、とは思案した。



『あのネズミを捕らえた場合、それで私の無実が証明される。この時は逃亡する必要は無い。
 しくじった場合は身を隠さなければならない事態もありえる。その時は―――』



たしか、ホグズミードの方へ逃げると言っていたはずだ。
ホグワーツの一斉捜索がされても安全なように。

何かあったらすぐに飛び出して行けるように、は寝袋の中で身構えた。



一時間ごとに先生が代わる代わるやって来て、生徒たちの様子を確かめていた。
そして、午前3時。ダンブルドアがやって来た。



「先生、なにか手がかりは」

「いや…ここは変わりなかったかの?」



異常なしです、と答えるパーシーの声が聞こえた。
彼らとの間には結構な距離があったが、猫の聴力を駆使すれば聴くことができた。
自分の本体に寝たフリをするよう言いつけ、は耳をピンと立てる。



「校長ですか?」



大広間の扉が開き、第三の人物がやって来た。

――スネイプだった。
ハリーたちもまた彼らの会話を盗み聞きしているのだろう、
寝袋の中で寝返りを打っているが、グリーンの瞳がうっすらと覗いている。



「四階は隈なく探しました。奴はおりません。
 フィルチが地下牢を捜索しましたが、そちらも……」

「天文台の塔はどうかね?トレローニー先生の部屋や、ふくろう小屋は?」



スネイプが首を振った。



「すべて探しましたが…」

「ご苦労じゃった、セブルス。わしとしてもブラックがいつまでも
 グズグズと校内に残っておるとは考えておらんかったが…」



だったら探してくれなくていいのに、とは思った。
しかしそれも、スネイプの口から「」という名前が出たことで吹き飛んだ。
は目を閉じ、全部の神経を耳に集中させた。



ですが…ちょうど夜警を始めようとしていたところでしたので、
 今夜の事件のあらましを説明し、吸魂鬼たちにも警戒させるよう伝えました」

「素晴らしい仕事じゃ、セブルス」

「現在はハグリッドと禁じられた森を捜索しているはずですが…
 の受け持った捜索範囲が済み次第、ホグズミード方面へ向かうとの段取りです」



森のことはハグリッドの方が適任じゃろうて、とダンブルドアが言った。

は覚悟を決めて寝袋から抜け出した。
生徒たちの寝袋の影にかくれながら、大広間の扉を目指す。
他の扉や窓はすべて施錠されている。出られるのはそこしか無かった。

ゴーストたちに気付かれないよう、は細心の注意を払いながら移動した。
ダンブルドアとスネイプの話がどうなったのかは、明日ハリーに教えてもらおう。
それよりも今は、ホグズミードの方で潜んでいるはずの黒い犬が優先だ。

自分が一体何の役に立てるかは分からないが、何かしないではいられない。
もしかしたらシリウス・ブラックに警告できるかもしれないし、
もしかしたらホグズミード方面へ向かうだろうの母の注意を逸らさせることくらいは出来るかもしれない。


大きな樫の扉に体当たりすると、少し軋んだ音を立てて僅かな隙間が出来た。
闇にぼんやりと浮かび上がるミルク色の体を無理にねじ込んで、は玄関ホールに出た。















(シリウス!)



夜の静寂を破らないよう、出来るだけ小さな声で彼の名前を呼ぶ。
月は欠けていた。満月になるには一週間ほどかかるだろう。

ふくろう小屋を通り越し、は前足と後足を交互に動かす。
黒猫だったらよかったのに、と今さら悔しく思った。



(シリウス!)



校門まで辿り着いたとき、黒く蠢く影に気付いた。
吸魂鬼だ。

は思わず足を止めた。
ホグワーツ特急の汽車の中での感覚が甦る。

もしここで吸魂鬼たちに捕まれば、干からびるまで生気を吸い取られるだろう。
それは想像できないほどの恐怖だった。


お願い、気付かないで。


は祈った。大好きな母の顔を思い浮かべながら。
そろりと前足を動かし、敷居をまたぐ。


門に配備されている吸魂鬼は2,3体のように思われた。
とは言え、ひとつの個体の面積が大きいので圧迫感はある。

胴の半分までが敷を超えた。
風が吹き、吸魂鬼のひとつがそれに流されるように進行方向を変えた。


パキン、との足が小枝を捕らえた。


ざあっと冷たい風があたりを吹き回る。
気付かれたのだ。


は火をつけられたかのように駆け出した。
心臓が早鐘のように打つ。胸の内から冷たいものが噴き出す。


早く 早く 早く もっと早く!








息を切らして走り抜け、寒さがおさまったころにようやく足を止めた。


気付けばは廃墟の前に居るようだった。
今にも崩れそうなその屋敷は、窓や戸に板張りで格子がしてある。
まるで何かが飛び出てくるのを封印するかのように見えた。



(シリウス、居るの?)



はその屋敷に向かって呼びかけた。
ンニャァという小さな声だけが寂れた村に響いた。

返答は無かった。
しかしここに違いないという奇妙な確信を覚え、はお化け屋敷に近付いた。
吸魂鬼の傍を通り抜けることが出来た今、寂れた屋敷などの恐怖の対象ではなかった。



ガラスの割れた窓から屋敷の中に飛んで入る。

着地すると、ふわりと埃が舞った。
帰るときは白い体が灰色に煤けることも覚悟した方がよさそうだ。



(シリウス?)



ごとり、と音がした。
発生源は近いようだ。
は耳をピクピク動かしながらその方向へ向かった。



(シリウスなの?)



ニャ、という声をいくらか大胆に発しながらは廊下を抜けた。
扉と階段があった。少しためらい、扉のほうへ足を進める。


ごとり、と再び音がした。
シリウス・ブラックかどうかは分からないが、そこに誰かが居るのは確実だった。


は身を捩って隙間から部屋に潜り込み、
大破した椅子や床板の間に立つ人物を見上げた。





驚愕の表情でと目を合わせたのは誰であろう、だった。





は一瞬のうちに身を翻し、元来た道を辿ろうとした。
注意を逸らさせることくらいは、と思ったことは事実だが、
自分の姿を見られることは想定の範囲外だ。

他の人間が相手であれば、この姿なので気付かれない可能性もあった。
しかしよく考えなくても「うつせみの時計」をくれたのは自身なのだ。
ならばそれを使用すればどういうことになるか、誤魔化せるわけがない。

小さな身体を最大限に動かし、は廊下を駆け抜けようとして――

待って、という消えそうな呟きが耳に入ったときにはもう宙を舞っていた。



「………どうして……」



埃っぽい空気のなかを2秒ほど飛んだあと、のミルク色の体はの腕の中にすっぽりと納まった。
見ればの右手には杖が握り締められていて、なるほど魔法で呼び寄せられたのだとわかった。

は呪文を唱えたときよりもか細い声で言った。
その目はまっすぐとを見ていた。



「……ここに、居るの……」



しっかり噛みしめた唇の隙間から絞りだすような声はすぐに廃墟に霧散した。
の表情はあまりにも苦しそうだった。
すぐにも目から涙が零れてくるのではないかと思ったくらいだ。


ごめんなさい、と謝りたくても、ニャァという声しか出なかった。



















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