ママがテレビ以外で泣くのなんて、いつ以来だろう?
ママに抱きしめてもらうのは、いつ以来だろう?

ああ、抱きしめてもらったのは、あの時だ。
クラスの劇で、くじ引きで勝ち取ったオフィーリアをわたしが演じきったとき。
「さすがわたしの娘!」って、自分が演技したわけでもないのに、ママはすごく嬉しそうにしてたっけ。











  シーン37:アフターワード 2











ようやくの腕から解放され、はスネイプを呼びに行くことを了承してもらった。
そして廊下に出た直後、リーマス・ルーピンがやって来るのに気付いた。

先生、とが声をかけると、彼はひどく驚いた顔をした。



「罰則なんです。スネイプ先生のお仕事の邪魔になるから、
 "あの人"の面倒を見るように言い付けられました」

「あの人?……のことかい?」



が頷くと、ルーピンは愉快そうに笑った。



「それでは?さすがにそろそろ起きたかな?」

「ちょうど起きたところです。
 …でもすごく疲れてるのか、ずっと謝りっぱなしで……」

「何を謝っているんだい?」



さあ、とは首を傾げる。
ルーピンは思い当たる節でもあるのか、すこし表情を険しくした。
そのまま彼はスネイプの事務所へ入ろうと足を動かしはじめた。



「あ、先生。ママ…じゃなくて。
 えっと、先生は結局どこに居たんですか?」

「………禁じられた森、だったよ」



は目を丸くした。
なんだってまたそんな所に?

言い終えると、ルーピンは扉を閉めた。
はその音で我に返り、スネイプと対峙すべく地下牢教室の扉を開けた。





「先生。スネイプ先生?
 あの……起きたみたいなんですけど、ちょっと…なんていうか、」



まさか「挙動不審です」とも表現できず、は曖昧な言葉を並べてスネイプに説明した。
生徒が持っているものよりもいくらか小さな鍋をかき回していたスネイプは、
のその説明ともいえない説明を聞くと、不満気に顔を顰めた。

とにかく診てみてください、と強気に言い放ち、はスネイプと連れ立って教室を出た。
スネイプはその鍋から掬ったばかりの液体を金色のゴブレットに注いで持っている。
恐らくはに処方された薬なのだろう。


そういえば、ルーピン先生が来ました、と伝えるべきだろうか。
とルーピンが二人でいる事務所の前に立ちながら、は思案した。
スネイプとルーピンは、多少柔らかい物言いをするなら、仲が良いとは言えない間柄である。



(……どっちかっていうと、険悪、よね……
 でも2人ともママとは仲良いみたいだし……)



言おうか言わまいか迷っているを見て、スネイプは微かに不思議そうな顔をした。

そしてが何気ない世間話を装って「そういえば」と口を開きかけたとき、
扉の向こうから言い争うようなの声が聞こえた。いや、聞こえた気がした。

に聞こえたのは語調を荒げた母の声だった。
言い争っているのであろう相手(ルーピン以外には居ないはずだが)の声は聞こえない。


は恐る恐るスネイプを見た。
いまや彼の眉間の峡谷はグランドキャニオンにも匹敵している。



「……アンドロニカス」

「は、はい!」



低い、絞り出すような声には背筋を伸ばして返事をする。



「……厨房から水を取ってきたまえ」

「え、厨房……ですか?」



早く行け、とばかりにスネイプは顎で方向を示した。
バネ仕掛けのおもちゃのように首を振りながら、は地下牢教室前から走り去った。



(でも、厨房って、どこ!?)




自分は体よくあしらわれただけだ、ということは解っていた。
スネイプは、とルーピンの間で話し合われていたことをの耳に入れまいとしたのだ。

それは、なぜだろう?
単純な「大人の都合」で済まされる理由なのだろうか?

は階段を上りながら考えた。


何かを隠そうとするスネイプの態度。険しかったルーピンの表情。
競技場付近から、いつの間にか禁じられた森まで移動していた

――――そこに、共通するものは?



(………もしかして、)



は足を止めた。
脳裏には自分が抱えている人に言えない秘密が浮かんだ。

シリウス・ブラック?

今でもそうなのか定かではないが、彼は確かに一時期ホグワーツの森に潜伏していた。
そしてと彼とは知人であったらしい、ということは自身から聞かされている。


もしかして、もしかして、という思いばかりが頭を過ぎり、
は接近してくる人影に気付かなかった。

その人物は廊下の真ん中で立ち止まって考え込んでいるをしばらく見つめて、とんとん、と肩を叩いた。



「…気分でも悪いのかな?」



はっとして、は顔をあげた。
そこに居たのはイエローのネクタイをしたセドリック・ディゴリーだった。

セドリック!と、驚いたようにが言うと、彼は陽気そうに「大丈夫みたいだね」と言った。



「迷子かい?こっちはハッフルパフの談話室だよ」

「ううん、迷子じゃなくて……ん?でも迷子なのかも。
 えっと…わたし、いま厨房を探してて……」



自分は本当に厨房で水を貰うべきなのか迷いながら、は答えた。
セドリックは一度は納得したような顔になり、再び不思議そうにを見た。



「厨房がどうかした?」

「んっと…、おつかいというか…罰則というか…そんな感じで、」



は曖昧に笑って誤魔化した。
そうなんだ、と言うと、セドリックは深くは追求しなかった。

は彼の控え目な配慮に感謝した。
あるいはが双子と一緒にまた何かを企んでいるとでも思ったのだろうか。



「あの…セドリックは厨房がどこにあるか知ってる?」

「知ってるよ。というか……まあ、うん」



今度はセドリックが曖昧に笑った。

彼はのすぐ目の前に掛かっていた絵の中の洋ナシをくすぐる動作をした。
はセドリックが何をしたいのかがよくわからず、ぽかんとそれを見守った。
しかしすぐに、クスクスと笑うような声(あるいは空耳)が聞こえて、ドアノブが現れた。



「な、なにこれ…え?ええ?」

「ウィーズリーと仲が良くても、さすがに知らなかったかな?
 ようこそ、厨房へ。………というか、本当は生徒は入っちゃいけないんだけどね」



ドアを開けると、セドリックは苦笑して、言った。

目の前には見たことのない生き物で一杯の、立派なキッチンが広がっていた。

の常識の限度を軽く超えてしまったその光景を喩えるのなら、
「ドアを開けると、不思議の世界でした」というマグル界で聞いたキャッチコピーが相応しいのだろう。

そこに居たのは、の腰くらいの身長で、布を纏っただけの服をした、とんがり耳の不思議な生き物。
彼らはとセドリックを見ると、いっせいにキャッと悲鳴をあげた。
(な、なんかよくわかんないけど、驚かせちゃって、ごめんね!)とは心の中で思う。



なんだこれはとばかりに空いた口の塞がらないを眺めて、セドリックは愉快そうに笑った。
そして耳打ちで「彼らが屋敷しもべ妖精だよ」と教えてくれた。

昨年のハリーの受難の原因となった生き物の名前を聞いて、はようやく我に返った。
しもべ妖精。これが、その、ハウス・エルフ!
ハリーの言葉を思い出してみれば、その特徴はまさに言われた通りであった。



「何にいたしますかお嬢さま!なんでもご用意できますです!」

「お坊ちゃまも、お掛けください!」



彼らはとセドリックの周りを甲高い声で喚きながら走り回る。
耳が痛くなりそうだと思いながら、は「あの、」と声をかけた。



「あの…お水を、もらえますか?」

「ホグワーツのキッチンには何でもございますのでございます!」

「いちばん上等なウィスキー以外は揃っております、お嬢さま!」



口々に言い合いながら、彼らはの前に炭酸水のボトルを積み上げていく。
引き攣った笑顔でその光景を見守っていると、
ひとりのしもべ妖精がのローブの裾をくいくいと引っ張った。

彼はマグルのシェフの被るような、白くて長い帽子を脇に抱えていた。
そしてそのキラキラしたゴルフボールのような目で、をじっと見上げる。



「ドビーと申します、お嬢さま!ドビーはハリー・ポッターを存じ上げているのでございます!」



は、「ああ、ハリーを殺しかけたあのドビー!」と言いそうになるのをぐっと堪えた。
彼らは非情に傷付きやすい(らしい)ので、そんなことを蒸し返せばどんなお仕置きをし始めるかわからないのだ。

始めまして、とはドビーに挨拶をする。



「ドビーはハリー・ポッターのお見舞いに行きたいのでございます。
 でもドビーにはお仕事があるのです、お給料を貰っているのです!」

「あ……そ、そうなの?
 じゃあ……あなたがそう言ってたって、ハリーに伝えておくね」



ドビーはがくがくと首を振った。

お嬢さまはお優しいのです、ハリー・ポッターのお友達はみんな素晴らしいのです、と言いながら、
彼はの目の前の炭酸水のボトルの横に、出来立てのトライフルを重ね上げ始めた。



「ドビーの、ハリー・ポッターとお嬢さまへのお気持ちなのです!」

「あ、ありがと……」



とてもひとりでは持ちきれない量のお土産に困惑し、はセドリックを見た。
彼もまたトライフルをドビーから手渡され、ありがとうとお礼を言っているところだった。
目が合うと、お互いに苦笑いをする。



「……寮まで、送るよ」

「ありがとう……」



両手に一杯に荷物を抱えながら、どうしてこうなったのだろう、とは首を傾げた。



















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