歩いても、歩いても、トンネルは続く。
わたしは出来るだけ下のほうを見ながら、足を動かした。
ハリーは見えない。もうずっと先に行ってしまったんだろう。
ポケットの中で、手配書がくしゃりと揺れる。
シーン42:木星と犬 3
ハリーは両親の写真の詰まったアルバムを眺めていた。
カーテンを閉ざしたベッドに座り、皮の表紙をめくる。
彼が探しているのは両親の結婚式の写真だった。
『花婿付添い人』。シリウス・ブラックは彼の父のそれだったのだ。
ハリーはページをめくる。ひとつひとつ、両親の顔を食い入るように見つめながら。
彼は手を止めた。
真っ白いドレスを纏った母が、赤い髪を揺らしながら父と腕を組んでいた。
父親は晴れ舞台だというのにいつも通りのくしゃくしゃな髪をしている。
その横に、まるで父と対照的なくらいサラリとした髪の男が立っていた。
こいつだ。
ハリーはその写真を指でなぞった。
手配書の写真とはずいぶん違うが、それはシリウス・ブラックだった。
快活に笑う表情はとてもハンサムで、これならどんな女性でもころりと参ってしまいそうだ。
言いようの無い疼痛がハリーの心臓を襲った。
このひとは、吸魂鬼が来たって平気なんだ。リリー・ポッターの断末魔だって聞くことがないんだ。
彼はこの写真が撮られたときにはすでにヴォルデモート側のスパイだったのだろうか?
自分がこの後12年間もアズカバンに収容されると知ったら、裏切ることはなかったのだろうか?
なにがあれば、どう育てば、親友を裏切るような人間になるのだろう。
叩きつけるように、ハリーはアルバムをぴしゃりと閉じた。
そしてそのままベッドに潜り込む。
ハリー?、という気遣わしそうなロンの声にも、返事をしなかった。
ただシリウス・ブラックの顔と、吸魂鬼が近付いたときに聞こえる高笑いだけが意識にあった。
だから、ハリーは気付かなかった。
シリウス・ブラックと両親が映っている次のページに、・の写真があったことに。
それは、・と彼の父親が、花嫁を挟んで睨み合っている写真だった。
背景に居るのは呆れたような顔のシリウス・ブラックと、微笑んでいるリーマス・ルーピン。
もしそれをハリーが目にしていたら、気付いていただろう。
・『アンドロニカス』は・に見紛えるほどそっくりだということに。
*
がようやくホグワーツの城に帰り着いたとき、夕食の時間は殆ど残っていなかった。
行きにかかった時間に比べて、帰りにかかった時間はなんと長かったことだろう。
ひとりで、ポケットの中のシリウス・ブラックの手配書と歩む真っ暗なトンネルは恐ろしかった。
お腹が空いたなあ、とはぼんやり思った。
思えば今日は結構な距離を移動したのだが、厨房に行く気は起こらなかった。
はまっすぐに談話室へ向けて階段を上った。
「お、。いま帰ったのか?ホグズミードはどうだった?」
「あ……うん。面白かったよ!3年生以上しか行けないのってズルイ!」
談話室に入ると、フレッドがに話しかけてきた。
はとっさに笑顔を浮かべて、それに答える。
わたし、疲れたから、もう寝るね。と言い、は女子寮の階段を上った。
一段、一段と踏みしめるたびに、顔に張り付けた笑顔が崩れていった。
こんな時に、どうして笑っているんだろう。どうして笑えたんだろう。
そう考えたとき、大臣の言葉がの脳裏に浮かんだ。
『ブラックは死体の山の前で、高笑いをしていた』。
(違う。わたしはそんなことしない。
わたしは咄嗟に笑ったのは、わたしが、おかしいからなんかじゃない!)
忌まわしい想像を追い払おうとして、目を瞑り、頭を振った。
自室に戻ると、ぐちゃぐちゃに積み上げた服の山が目に入った。
そうだ、ホグズミードに行く前、何を着ていくかさんざん迷ったっけ。
は服を畳みながら、魔法で拡張されているトランクに詰め込んでいった。
最期に、着ていたローブを脱いで、ハンガーに掛ける。
パジャマ(として扱っている服)に着替えたとき、ふと視界の端で何かが光った。
見ると、それはローブのポケットからはみ出た『時計』の鎖だった。
『この時計は、私じゃなくて、この猫が……』
の身を案じて走り回ったときの、ルーピンの言葉が甦る。
クルックシャンクスが『時計』を、禁じられた森から持ってきた。
の居場所を知らせるために、だ。
は『時計』をポケットから引っ張り出した。
ベッドに座り、てのひらに乗せてそれを見る。
カサッと音がして振り向けば、少し強引に『時計』を引っ張り出した所為で、
無造作に物が入れられたポケットから、シリウス・ブラックの手配書と、いつかの飴玉が転がり落ちていた。
シリウス・ブラック。
何かを隠している様子の、大人たち。
誰に聞けば、本当のことを教えてくれるだろう。
はいったい『誰』なのだろう。と自分のことを考えた。
今までだって、そういった事を考えた日はあった。
たとえば小学校でクラスの男の子に『Bitch!』と罵られたとき、
たとえばその言葉がに向けて放たれたのを聞いたとき。
そんな時、いつもは唇をきゅっと結んで、相手を睨み付けた。
泣いたってどうにもならないし、余計に調子付かせるだけだと知っていたからだ。
それでも悔しいものは悔しいので、家に帰ってからベッドの上ですすり泣いた。
ポテトチップスをバリバリ食べながらテレビゲームでウサ晴らしをする時もあった。
そうこうしている内にが帰ってきて、そんなを発見する。
いくらが誤魔化そうとしたって、にはいつもバレてしまう。
そしてはを抱きしめながら、静かに言う。
ごめんね、わたしのせいで嫌な思いをさせてしまったね。
でもね、のお父さんのことは、わたしにもわからないけど、これだけは言える。
あなたは正真正銘、わたしの娘よ。。
今までだって痛い思いはたくさんしたけど、あんなに痛かったのはを産んだとき以外に無いわ。
その痛みが、あなたがわたしの娘である証拠。だから勘違いしないでね。
本当は生まれないほうがよかったんじゃないか、とか。
自分なんか居なければよかった、とか。そんな風に考えないで。
少なくともわたしは、が居なくちゃ生きていけないんだから。
そうだ。ママはいつだって、そう言ってくれた。
手配書を折りたたんでトランクに投げ入れ、はシーツを被った。
そして一緒に転がってきた飴玉を開封する。
それは夏からずっとポケットに入っていたようで少しべとべとしていたし、
食べようとするに抵抗するようにプラスチックの外袋にへばり付いていた。
何とか口の中にそれを放り込んで、は『時計』を握り締めた。
外気のせいですっかり冷え込んでいたそれを、布団の温度で温めようとした。
口の中で飴玉を転がすと、ざらりとした食感だった。
信じたい。と、は思う。
誰のことよりも、まず第一に、のことを信じたい。その気持ちは嘘ではない。
だけど、このモヤモヤとした気持ちはどうすればいいのだろう。
誰に言えば、正しい対処の仕方を教えてくれるだろう。
わたしは、だれ?
わたしのパパは、だれ?
溢れそうになった涙を指先で拭うとの同時に奥歯を噛みしめて、は飴玉を噛み砕いた。
聞きたい。話がしたい。こたえが欲しい。そう思った。
*
そして早朝。
はいつもより随分と早い時間に目が覚めたのだが、
既に談話室は帰省する生徒たちとそのトランクでごった返していた。
そうだ、今日から休暇だった。
は暖炉へ近寄ろうとしてその事実を思い出し、足を止めた。
みんな慌しく談話室から出て行こうとして、あちこちで衝突や渋滞が起こっていた。
だからだろう、杭で打たれたようにその場で動かないを見止める生徒はいなかった。
( 今なら )
今なら、談話室から出て行っても不自然ではない。
今なら、『彼』のところへ行っても、止める人は、居ない。
すぐに、は体の大きな6年生の影に隠れて談話室を出た。
時間が経てばハーマイオニーたちに気付かれると思ったからだ。
廊下から玄関ホールまで、人の波に流されるのは造作もないことだった。
玄関ホールからは少し慎重に動かなければならなかった。
いたるところに生徒たちが居て、まるで監視されているようだった。
箒置き場やら樹やら色々なものに隠れながら、は森を目指した。
森に入ってしまえばこちらのものだ。は最期の数メートルを駆け抜ける。
しかしクルックシャンクスを連れてくればよかったと、今さらながらに思った。
話してほしい。当事者であるシリウス・ブラックから、
の娘であるということを踏まえて、に話をしてほしい。
その一心で飛び出してはきたものの、いつも子猫の視線だったので現在地がよくわからない。
もちろんポケットに『時計』は入れてあるが、今回は使わないと決めている。
かじかむ手を温めながら苔生す地面を踏みしめ、どれだけ歩いただろう。
は凶暴な魔法生物どころかリス一匹にも遭遇しない自分の幸運に感心した。
しかし肝心のシリウス・ブラックにも出会えないのでは意味がない。
「どこにいるのよ、シリウス・ブラック……」
とうとう、は近くにあった大きな木の根に腰をおろした。
少しといわずとも盛大に座り心地が悪いのだが、疲労には代えられない。
の大きな溜息に紛れて、小枝を踏むようなポキンという音がしたような、その時だった。
「――――動くな」
急に、の首筋に細いものが突きつけられた。
そして背後から、『彼』の声。
「なぜ此処に、わたしを捜しに来た。どうやって知った?
目的は何だ?…………答えてもらおう」
は疲労感がスッと消えていくのを感じた。
それと同時に噴き出す、焦燥感と、不安。
いま首に宛てられているものからは、ナイフの刃先のような感触がした。
下手に動いたらスパッといかれてしまうかもしれない。
「……………」
「………は?」
「。わたしの名前」
は出来るだけ平静を装って言った。
シリウス・ブラックが少し躊躇ったのを気配で感じ、はポケットに手を入れた。
じゃらりと鳴る冷たい金属の鎖を、掴んで、彼に見えるように引っ張り出す。
「その……時計、は」
「……わたしの、ママがくれたの」
ママ?と彼は鸚鵡返しに訊ねる。
「ママの名前は―――・」
立ち上がって振り返り、はシリウス・ブラックを見据えた。
彼は何かを言いかけたままの形でを見つめ、ナイフを落とした。
音はしなかった。ただ、風が吹いただけだった。
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