……?」



シリウスはそう言った。
低くて、掠れてて、信じられないといったような声で。

彼はわたしの方をチラッと見ては、視線を『時計』に向けた。



「それなら…今まで来ていたあの白い子猫は……」

「……わたし」



そうか、と、シリウスは呟いた。











  シーン43:よそみしないで











「………はどうしている?」



がシリウスに自分が『時計』を使っていたのだと明かした後、しばらくの沈黙があった。
そのまま立っているべきなのか、それとも座るべきなのかわからず、はただ彼を見た。

の観察する限り、シリウスの表情から驚き以外の感情は読み取れなかった。
絶望や怒りを予想していたは少し意外に思ったが、
癇癪を起こした彼に暴れられても困るので、この状況は助かったというべきだろう。


しばらくしてシリウスは、がさきほどまで腰掛けていた木の根に座った。
そして未だに立ち尽くしているを見上げ、そう訊ねた。

どうしているか、と言われてもには答えようがない。
それはが彼と別れてからのことを指しているのか、
それともここ最近のの体調などを意味しているのか、迷うところだった。



「……げんき、だけど」



諮詢の末、はそれだけ言った。
シリウスはその解答で満足したようで、そうか、と言ってまた黙ってしまった。

にじりと染み出す焦燥感がの心を灰色に染めていくのを感じた。
どうして彼は何も言わないのか?かつての恋人の娘が目の前に居るのに?



「……わ、わたし、どうすればいいの?まだ黙ってなきゃダメなの?
 もうわたし、誰の言うことが本当なのかわかんないっ…誰を信じればいい?
 ママは、……ママもハリーも、あなたのこと、裏切り者だって思ってる!」

「……………」

「あなたの言うこと、信じたいよ、わたし……信じたいけどっ…
 でも大臣の話のほうがよっぽど本当っぽかったし、誰も、疑ってすらいなかった!
 スパイのあなたが、ネズミのひともハリーのママとパパのことも殺したんだって!」

「……………」

「そうじゃないなら、どうして言わないの?どうして隠すの?
 わ、わたしにはわからない、なんで、なんでそんなこと出来るの?
 みんながあなたを恨んでる、あなたは誤解で憎まれてるのに、どうしてっ……」



最初に何を聞きたかったのかも、どう答えて欲しかったのかも、わからなくなってきた。
の意思よりも早いスピードで、口が勝手に言葉を紡いでしまう。

シリウス・ブラックは思いつめたような表情でを見ていた。
はその視線を受けて、口を閉じた。言いすぎたかもしれない、と思った。
けれど、言いたいことが、聞きたいことが、まだまだたくさんあった。
結構な勢いで捲くし立てたのに、まだ一割程度もスッキリしていなかった。



「ハリーは知ってしまったのか?……わたしが彼の、名付け親、だと」

「……………うん」

「なら、さぞかしわたしを憎んでいるだろうな。
 両親の仇が、名付け親だ。殺したいと思われていても不思議ではない…」



彼はクックと口の端で自嘲気味に笑った。
しかしは、彼の瞳がひどく寂しそうだったことに気付いた。



「……わたし、ハリーに教えてあげたい」

「ダメだ。まだ…早い。ネズミを捕まえなければ、わたしの無実は証明できない。
 ハリーにすべてを説明するのはその後だ。汚名を雪ぎ、名付け親としてふさわしくなってから…」

「でも…」

「わかってくれ。わたしはこの手で裏切り者を捕まえたいんだ。
 わたしのためではなく、ハリーと……彼の、両親のために」



ハリーと、彼の両親のために。


(じゃあ、ママは?)
(ママと、わたしは?)


は俯いて、下唇を噛んだ。
彼がの名前を出さなかったことが、この上なく悔しかったのだ。

しかしシリウスは、そんなに気付かなかったように喋り続けた。



「そんなことをしたって彼らが帰って来ないことは百も承知だ。
 わたしはそれだけの過ちを犯した。12年……当然の報いだ。
 だがハリーには何の罪もない。あの子は、愛されるはずだった……」

「……………」

「きみはハリーのことを知っているか?あの子がどんな生活をしてきたか?
 わたしは此処に来る前に一度、あの子の育ての親を見た。ひどいもんだ……
 わたしが汚名を晴らしさえすれば、ハリーを助けることが出来る。
 それだけが、今のわたしに残された唯一の道なんだ」

「……………」

「しかしきみは、わたしの事情を知ってしまった。……皮肉な運命だ。
 いいか?城に戻ったら、わたしの事は忘れるんだ。
 自分勝手かもしれないが、きみやハリーを、巻き込みたくはない」



自分は、何を期待していたのだろう。

彼が「とは遊びの関係だった」と言うのを望んでいたわけではない。
しかしだからと言って、「いまでも愛している」とかそういう言葉が欲しかったわけでも、ないはずだった。

はシリウスの横っ面を叩いてやりたくなるような悔しさを感じた。
ハリー、ハリー、ハリー。彼の口からはそれしか出てこない。
結局それは、のことなんて今はもうどうでもいいということだろうか。
のことも、の娘であるのことも、ハリーに比べたら思い出す価値も無いと?



「…聞いているか?」

「…………ききたくない」



この森へとをいざなった衝動は、いつの間にか綺麗に流れ去っていた。
ただ今は、力一杯に手を握り締めて、泣きたくなるのを堪えるのが精一杯だった。

そんな様子のに気付いたのか、シリウスは立ち上がり、の顔を覗き込む。
悔しさからとはいえ、泣きべそなんて見られて楽しいものではない。
は突き飛ばすように、彼の体を押しのけた。


(べつに、心配してほしいわけじゃないし、)
(なぐさめてほしいわけでもないし、)
("お父さん"面してほしいわけじゃないけど、)



「ママのこと、好きだったんでしょ?」



どうして拒絶されたのかわからないとでも言いたそうな顔でシリウスはを見ていたが、
の搾り出すような問いかけを聞くと、ハッとした表情になった。

そして聞こえるか聞こえないか程の小声で「それはまあ、そう……だが」と言う。



「――じゃあ、わたしのこと何とも思わないの!?」



彼は苦そうな顔をして俯き、自分の爪先をジッと見た。
その様子では彼が「何とも思っていない」わけがないと気付いたが、
自分でも認めたくなかったのか、無意識の内にそれを視界から外すように顔を背けた。

再び、しばらくの沈黙があった。

現在のの視界には、彼が手から落としたナイフが地面に刺さっている光景が映っていた。
まるでそれがとても興味深いものであるかのように、はそれを見ていた。
シリウスの方へは、何としてでも振り向きたくなかったのだ。



「………………きみの…」



たっぷり5分は続いた沈黙を破ったのは、シリウスだった。
は一瞬だけそちらへ目をやって、すぐにまたナイフのほうへ視線を戻した。



「…きみの父親の顔が…見てみたいものだな……」

「――――――――――っ、うちに、」



はナイフを拾い上げ、彼目掛けて投擲してやりたい衝動に駆られた。
父親の顔が見てみたい、だと。どの口でそんなことを!
それでも相手は指名手配犯であるため、必死で衝動と戦いながらは言葉を続けた。



「うちに、パパなんて、いないっ!!」

「………え?」

「会ったことないし、顔も見たことないし、名前も聞いたことない!
 わ、わたしのっ……わたしの"親"は、ママだけだもの!!」



胸と目の奥が、カーッと熱くなってくる。



「いいわよ!来なきゃいいんでしょ、あんたなんか忘れればいいんでしょ!
 わたしは、わたしはハリーみたいにママもパパも居ないわけじゃないもの、
 そう言いたいんでしょ?ママもわたしもぬくぬく暮らしてたんだろうって、そう言いたいんでしょ!?」

、違う…」

「ちがくない!もうっ…もう知らない!もう来ない!
 ジャマばっかりで、役立たずで、わ、悪かったわね!
 これからはどうぞ思う存分ネズミでも何でも捕まえればいいわ!」



、と彼が呼びかけるのにも構わず、は走り出した。

倒木を飛び越え、ぬかるみを突っ切り、トゲのある草の間を形振り構わず走り抜けた。
ひどいことを言った、という自覚はあった。それでも足は止まらなかった。

(パパが居なくたって平気だもん)
(悔しくなんかないし、悲しくもない!)

シリウスがを侮辱しようとしていたわけではないことも、心のどこかではわかっていた。
それでも、認めたくなかったのかもしれない。
彼が戻ってくることで、の中の自分の居場所が奪われてしまうことが、怖くて。



(ママ――ママ―――ママ!)



は母親の顔を思い浮かべながら、声を出さずに呼んだ。
ぎゅっと目を瞑ると涙が出たのはきっと目に羽虫が入ったからだと、は自分に言い聞かせた。

おかしなもので、森に来る前はに対して募らせていた疑念や不安といったものが、
今では全て数倍に膨らみ、その向かう対象はシリウスに摩り替わっていた。
がシリウス・ブラックとの関係を話してくれなかったことは、もうすっかりどうでもよかった。
その代わりにの内にぐるぐると渦巻くのは、自分と母が世界にふたりだけで、
他に味方はいなくて、ずっと支え合っていくのだという想いだった。

の記憶のある限りでははずっと笑っていた。
笑って、褒めて、撫でてくれた。

父親が居なかろうが、その記憶が覆ることはない。
それでいい。それだけでいい。ひとりだけでも、家族がいる。


は足を止めた。いつの間にか、森を抜けていた。



















 ←シーン42   オープニング   シーン44→




はじめての、おやこ(?)げんか