オフホワイトの小さなその紙切れは空中をすこし舞って、床に落ちた。
そこに書かれている文字が見えたとき、思考がぶつりと途切れる音が聞こえた気がした。



(―――なんで?)



だって“あの人”は、わたしのことをどうも思ってないはずなのに。
わたしよりママより、ハリーのほうが大事なはずなのに。


    12年の溝と その面影を 飛び越えて贈る


差出人の名前は無かった。
もしかしたら“あの人”じゃない、まったく別の人からかもしれない。

だけどそれでも、黒い大きな犬が、森の中で蹲っている姿を思い浮かべずにはいられなかった。











  シーン48:スカーレット・ステップ 2











はその赤いエナメルの靴を前に、ただ放心していた。
まさか、とか。どうして、とか。そういった言葉ばかりが喉元までせり上がってくる。

それがシリウス・ブラックからのものであるという、明確な証拠はない。
しかし添えられていた暗号のようなメッセージを読み解けば、それ以外の解答は見出せないのだ。

『12年の溝』は彼が投獄されていた期間に出来た距離。
『その面影』は恐らく、の中にあるのことだろう。



「――――、起きてるの?」



コンコン、と、ノックの音。

続いて聞こえてきたの声で、はようやく我に返った。
靴を乱暴に箱に戻し、箱はチェストの影にすばやく隠す。



「お、起きてるよ。おはよ、ママ」



なるべく自然に見えるように振る舞いながら、ドアを開ける。
紅茶のカップを片手に、は少し首をかしげてを見た。



「な、なに?」

「……ううん、べつに。
 がきょどってるから、男の子から思わぬ貢ぎ物でも来たのかなあーって…」

「そん、なことない、し!」



は顔の横で手を振りながら否定した。ウソは言っていない。
だって貢ぎ物は男の子から来たのではなく、おっさんから来たのだから。
はそんなを「ふーん」と言って面白そうに眺める。



「そうねえ…ママ的にはハリーとかおすすめなんだけど、」

「あーあー!きーこーえーまーせーんー!」



はにやにやと笑うの声を掻き消すように言った。
「もう着替えるから出てってよ」とついでに促せば、意外にもそれ以上の追求はなかった。
いつもなら「わたしに似たんだからもっとモテるはず」とかいうことを言うだろうに。

結局なにをしに来たのかよくわからないまま、は階下へ戻って行った。
はあとからドレスに着替えることを考えて、前開きボタンのシャツを着る。
黒い、つやつやした箱のことは、ひとまず考えないでおくことにした。
今日一日は、余所事を考えていられるようなのんびりした日にはならないだろうから。















夕食は豪勢な食事が出るだろうという小市民的な発想により、朝食と昼食を併せて摂る。
しかも昨日の夕食の残りの七面鳥を、電子レンジで温めただけの簡単な食事だ。

午前の残りと午後の少しを居間でゴロゴロしながらテレビを見ることに費やしていると、
「そろそろ支度をしましょうか」とが言い出した。
はソファからがばりと身を起こし、「うん!」と元気良く返事をする。

買ったばかりのドレスを持ったに続いて2階のの部屋に向かうと、
はベッドの脇に隣接するように置かれているドレッサーに対面するように座らされた。
はドレスをコートラックに掛けてから、の背後に立つ。手にはコテを持っていた。



「いいなあ、髪の毛さらっさら…お肌もぴちぴちしてるし…
 その若さがうらやましいわ…わたしも昔はこうだったのになあ…」

「そ、そんな恨みがましく言われても…」



の髪を少し引っ張りながら、ランダムに大きく捲いていく。
やっかみ半分かと思いきや、仕上がりは至って自然なクセになっていた。
なるほど、女の人は毎朝こんな風に自分を改造していくんだな、と、は妙な納得をした。

それから右側の髪を左へと流し、すこし捩ってピンで止める。
左側の髪も捩るのだが、こちらは耳の後ろで止める。

捩って、止めて、毛先をまたすこしコテで巻いて。
最後に買ったばかりのコサージュをサイドに留めて、バランスを整える。
20分も経たないうちに、の髪はいつの間にかパーティ用のサイドアップになっていた。



「ママって、実は器用だったんだ…」

「…ちょっと、それどういう意味よ」



コテを戻し、今度は大きなポーチを漁っているが反論する。
髪型を整えたので、今度は顔を整えるのだ。

前髪をすこしよけて、の顔になにやらクリームを塗っていく。
これがファンデーションというやつかと思ったのだが、どうやら本当にただのクリームらしい。

に目を瞑らせると、はまぶたに薄く線を引いたり、少しだけまつげを嵩増しさせたり、
ラメがきらきらしている粉(?)を目元や鼻筋にふりかけたり、頬をほんのりとピンクに染めさせたりした。

ようやく目を開けていいと言われ、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
鏡の中から見返して来る自分の顔は、普段着のシャツが可哀想になるくらいきらきらしていた。



ったら、さすがわたしの娘!ばっちり可愛いわよ。
 これでマルフォイさんちの息子でもなんでも誘惑しちゃえばいいのに!」

「じょ、冗談じゃない!」



仕上げに、と、くちびるをほんのり色づかせる。

を椅子から追い立てると、ドレスに着替えるよう指示した。
は白いふかふかしたその椅子から飛び降りるように離れると、コートラックから自分のドレスを取る。
今度はがドレッサーに向かい、変身を始めるようだ。



「ねー、ママの髪どうするの?自分で出来る?」



「やってあげようか?」とが言うと、はニヤリと笑った。
「いいえ、結構よ」と言いながら、が杖を振る。
するとコテやブラシがひとりでに宙に浮き、の髪をセットし始めたのだった。



「…オトナってさ、セコイと思うんだけど。
 ていうかわたしのも魔法でしてくれて良かったのに」

「セコくて結構!それがオトナの女ってもんよ」



どうやら魔法に任せるのは髪のセットだけらしく、はポーチから色々な道具を取り出す。
に使ったものとは違う、高級そうな、ハッキリとした発色のものが多い。



「でもね、覚えておいて。魔法使いだからって、魔法に頼りすぎてちゃダメなの。
 もし杖を取られたらその時点で負けが確定してしまうでしょう?
 だから今のうちに、出来るだけたくさんのことを自分の手でやってみなさい」

「……うん」

「魔法使いである前に、わたしたちだってひとりの人間よ。
 人間の武器は頭だけじゃない。手だってある。足だってある。噛み付く歯だってある。
 まあ、さすがにわたしみたいになれとは言えないけど…そういうことを忘れない人でいてね」

「じゃあ……昔、ママはそうやって…闘ったことがある、の?」



鏡の中から、女優の顔を造りあげながらがふわりと笑った。
返事はそれだけだった。イエスという意味だろうと、は思った。













すっかり身支度を整えきったのは、17時を過ぎたか過ぎていないかという頃合だった。

パーティが終わったらそのままホグワーツに戻るというので、
のパーティバッグにはあのバスケットのように内部を拡張する呪文がかけられた。
そこに、持って来ていた着替えや、貰ったプレゼントなどを詰め込む。
それなりの重さになったが、軽量化の呪文を何回かかけることでその問題は解消された。

行くわよ、と声を掛けられ、は玄関へ向かうの後を慌てて追った。
慣れない靴のせいで、すこし歩きづらい。ひょこひょこ歩くに、がくすくす笑う。

一日前、家に戻ってきたときに姿現しをした裏路地へ向かう。
途中ですれ違った近所のおばさんは「あらパーティ?羨ましいわねえ」と朗らかに微笑んだ。
も挨拶を返す。クリスマスというイベントのお陰で、多少ハデな格好でも許されるのだ。


路地に入り、完全に人が居ないことを確かめると、の腕を握った。
覚悟を決めたが、まつげが潰れない程度に目を瞑ると、またしてもグッとどこかに引っ張られる感覚がした。





足に触れる空気が変わった気がして、は目を開けた。
夏のあいだお世話になった、漏れ鍋の古めかしい壁が見えた。



「…漏れ鍋からは迎えが来るんだっけ?」

「そうよ、リムジンだったらいいわねえ。
 でもその前に、合流しなくちゃいけない人がいるの」

「合流?…待ち合わせ?」



首を傾げるに構わず、の腕を引いて漏れ鍋の店内へ入っていく。
クリスマスでも商売をしているトム老人は、一年のうちでいつ休むことが出来るのだろう。

ふとが足を止め、の腕を放した。
俯き加減に歩いていたは、そこで初めて顔を上げた。

――そして、絶句する。



「メリークリスマス、スネイプ。死にそうな顔してるわね!
 ほら、も挨拶なさい。今夜のエスコート、兼、ボディーガード、兼、ストッパーよ」



黒尽くめの衣装を身に纏い、スネイプはカウンターに座っていた。
その肩に手をおいて、はいかにも親密そうに言う。
スネイプは大きく溜息をついた。

ごめんなさい、母が本当にごめんなさい。
も負けじと大きく息を吐き出した。



















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