「あの、どうしてわたしのこと探してたんですか?」
「が授業に居なかったから心配でね。
あ、時間なら気にしなくても平気だよ。すぐ終わるし…うん」
「な、なんですか?」
「そういえばフリットウィック先生が自習にするって言っていたなあと思ってね」
「あー、そ、そうなんですか。ラッキー…!」
正直に言います。
逃げ た い よ !!
シーン61:しろくろ大作戦 3戦目:撤退セヨ!
背中に逃亡犯を負ったまま、はルーピンのあとを付いて歩いた。
タイミング的に「バレたのでは」と不安が過ぎるが、
実は今日の授業で重要なこと(テストに出る、とか)を言ったのを伝えたいだけなのかもしれない。
どうかそうでありますようにと、は会ったこともないゴドリック・グリフィンドールに祈るのだった。
のらくらと世間話をしながらも、最終的にルーピンが足を止めたのは自らの事務室だった。
とりあえず校長室に突き出されるのではないとわかり、はこっそり安堵する。
「じゃあ私は2年生の授業があるから、ごゆっくり」
「え?」
そう言って、彼は事務室の隣の教室へ入っていく。
てっきり彼から話があると思っていたは面食らった。
ならば、この部屋でを待ち構えているのは一体誰なのか。
逃げようか、とも思った。
傍目にはわからなくても、ここにはシリウス・ブラックが居る。
そんな状況でやたらに他人と接触するのは得策でないことくらい、深く考えずとも分かることだ。
それでも、ここまで連れて来られたのだから、逃げるのも不自然だった。
なにか追求してほしくないことがありますと自ら言っているようなものだからだ。
は一度大きく息を吸って、吐いた。
覚悟を決めて、ノックをする。
「……失礼します、・アンドロニカスです」
どうぞ、と、声がした。
木の板を隔てているためにくぐもってはいたが、それは聞き覚えのある声だった。
は一瞬手を引っ込めた。「なんで?」という疑問が頭の中を巡る。
ドアノブに手を掛け、扉を開ける。
飛び込むように事務室に入ると、不味そうな顔でカップに口を付けているが居た。
「ママ!ど、どうしたの?なんで…」
は何も言わずにティーカップをテーブルを置いた。
水面は黒で、砂糖も何も入れていないコーヒーだろうと予想がついた。
湯気がちらりともしていないのと併せて、とても美味しそうなコーヒーとは言えない。
がおいでおいでと手招きをする。
はカバンをドアの近くに置いて、その招きに応じた。
「……怪我とか、してない?」
「は?」
「土曜日の夜」
をソファに座らせ、そのを正面から見上げるようにしてはしゃがんだ。
両手はしっかりとの手を握っている。母の指先は、ひどく冷たい。
はようやく理解した。
土曜日の夜、つまりが大嘘をでっち上げたときのことを心配していたのだ。
「……うん、平気。してないよ」
「何か言われたとか、そういう事は」
「なんにも!ママ、心配しすぎだよ。
だってほんとに目が合ったのなんて一瞬だけだし」
はつとめて明るく言ったのだが、は無表情で俯くだけだった。
「……だって、心配だもの。心配で……底が無いくらい心配で…
が怖い思いをしたんじゃないかって、嫌な思いをしたんじゃないかって。
すぐに駆けつけたかったのに、それも出来なくて、」
「ママ…」
「日曜日、グリフィンドールはみんなで談話室にこもってたから会えなかったし。
今日は、授業があるから。リーマスに頼んでここで待たせてもらったのに。
……なのには授業、来なくて。…本当は体調、悪いのかなって、…心配で」
ごめんなさい、全部ウソなんです、と。
そう打ち明けて謝罪できたら、どんなにか良いだろう。
罪悪感に駆られて黙り込んだに気付き、は顔を上げた。
取り繕うように笑って、はの頬を撫でる。
「――なんてね。柄にもなく心配しまくってしまったわけよ。
でもいいわ。本当に何もなかったんなら…が無事なら、それでいいの」
「………心配、かけて……ごめんなさい」
「のせいじゃないんだから、謝らなくてもいいのよ。
今回の事で謝らなきゃいけないのは……ひとり、だけだから」
「……シリウス・ブラック?」
は少しだけ顔を強張らせて、そうね、と言った。
はカバンの方に意識をやりながら、この会話は聞こえているだろうかと考えた。
「そうね。あの男、とっ捕まえて土下座させてやらなくちゃ。
わたしの娘に手を出すなんて、良い度胸してるわ」
「いや、手は出されてないけど…」
むしろそんなことになったら土下座じゃ済まされない。
は顔を引き攣らせながら言った。
そして同時に考える。
ここには(シリウスは数えないとして)との2人しか居ない。
とシリウスのことを堂々と聞くのなら、今がチャンスだ。
ここで『本当のこと』をチラッと仄めかしても、それを怪しまれることは無い、かもしれない。
「ママはその…シリウス・ブラックが本当にハリーのママたちを裏切ったって思ってるの?」
「………その話、どこで聞いたの?」
「ホグズミード、で、…そういう話をしてたって。あの、まあそこしか知らないんだけど、
ロンとハーマイオニーが偶然聞こえたっていうのをハリーに言ってたのを偶然聞いたっていうか、」
作戦失敗。さっそく怪しまれた。
しどろもどろにが答えると、は渋面を作った。
小声で「あのバカ大臣」とか「役立たず」とかいう言葉が聞こえたのは気のせいだと思いたい。
「それで…わたしね、ハグリッドのヒッポグリフのことで、色々調べてて思ったの。
よく考えれば本当は悪くないのに、そう見えるからって有罪になって、処刑、されちゃって。
そういうのは魔法生物だけの話じゃないのかな、って。あの人も不当判決だったんじゃ、って…」
「……不当判決じゃないわ。現行犯だもの、審議無しで即刻収監だった」
は耳を疑った。
審議なし、とはつまり、裁判をしなかったということだ。
負けると最初からわかっている裁判にかけられるのと、
最初から裁判すら受けさせてくれないのでは、どちらの方がより残酷なのだろう。
「な、なんで?そんなの許されていいの?あの人、捕まったら今度は殺されちゃうんでしょ?
ママはそれでいいの!?裁判したら、もっと違う見方だって出てくるかもしれないのに!」
「…当時は、それが許されたの。今とは比べ物にならないくらい治安の悪い時代だったから」
は、の後半の問い掛けには答えなかった。
はぐらかしたのか、それとも応えるべき言葉が見つからないのか。
は真っ直ぐにを見た。
良いわけがない。どんな人だって公平な裁判を受けて、正当な裁きを受ける権利がある。
治安とか状勢を理由にしたところで、結局は権力に負けたということになるのではないだろうか。
「もしそれでしょうがないって言うんなら、そんなの、
……そんなの、マルフォイがバックビークにしてることをしょうがないって言うのと一緒だよ」
「……一緒、かしら?」
「一緒だよ!」
セドリックの言うことが真理であるなら、『それ』と『これ』とは一緒ではないのかもしれない。
意図的な悪意をもって押し付けられる権力と、状況的にそう成らざるを得なかった圧力は必ずしも等しくない。
それでも、の知っているはそこで「仕方ない」と切り捨てるような人物じゃないはずだった。
「………似てるわね」
「なにが?」
「の、そういうところ。
……わたしの知ってるシリウス・ブラックなら、きっとそう言ったわ」
は息を呑んだ。
僅かながらにも常に意識を向けていたカバンの方でも、空気が震えたような気がした。
がの前でシリウス・ブラックについて言及したのは夏休み以来だ。
このタイミングでにそれを言うというのには、どういう意味があるのだろう。
言外に自分とシリウスが親密だったというのを仄めかしているのだろうか。
どうせもう知ってるんでしょう、と、そう言われた気がした。
「……忘れないで、」
はもう一度の手を握る。
「人間には考える頭がある。掴み取る手だって、蹴り飛ばす足だって、噛み付く歯だってある。
だけど。だけどそれでも……取り戻せないものだって、ある」
「……でも」
「があの人をどう思っていようと、わたしは何も言わない。何もしない。
だけど、そのせいで軽率なことを、危険なことをしようとしていたら、わたしは全力であなたを止める。
その結果としてシリウスを魔法省に引き渡すことになっても、わたしが裁かれるようなことになっても」
の眼差しは真剣だった。
『全力で』という言葉が比喩でもなんでもないことを、それに思い知らされる。
がすごい魔女だったことはクリスマスによくわかっていた。
“わたしが裁かれるようなことになっても”、つまり、自分がシリウスを手に掛けようとも、という意味だ。
そんなことをさせたいわけじゃない。
が芝居をするのは、が本当のことを知る手助けになりたいからだ。
(……ごめん、ママ)
はまだ親しいひとが亡くなってしまう、という経験をしたことがない。
だから、かもしれない。
取り戻せないものがある、かえってこないものがあるとは、簡単に納得してしまいたくないのだ。
「全部、大人の勝手な言い分だっていうのは分かってるの。
だけど…わたしはそれ以上に、が傷付くことのほうが、怖い」
「………わたしだって。ママがケガしたりするの、やだもん」
幾分か視線から棘を和らげてが言い、が少しむくれたように返す。
簡単に屈してしまいたくはないが、そういう言い方をされては反抗することも躊躇われる。
双方が「危険なことはしない」という意識をもつことで、この対話は一応の区切りがつけられた。
は少し早めに昼食へ行こうかと思いながら、膝を伸ばす。
それでも釈然としない思いを振り切るために、はそれとなく訊いた。
「ねえママ…バックビークのこと、どうしたらいいのかな」
どうすれば、罪の無い存在を救うことができるのか。
どうすれば、押し付けられた罪から解放させてあげられるのか。
「………信じるしか、ないわよ」
はティーカップに再び口を付けながら、ぽつりと言った。
はカバンを腕に抱きながら、少しの期待を込めて、また訊ねた。
「ママは…じゃあ、信じてくれる?」
「…………」
「……バックビークのこと」
「――信じるわ」
コーヒーを呷り、はもう一度「信じますとも」と言った。
信じるしか、ないのだ。
それが罪の無い存在であることを、正義が正しく施行されることを。
頷いて、はその腕のなかに白い猫を抱えながらルーピンの事務室を出た。
黒い犬は、たしかに、罪を背負っているかもしれない。
「…………前途多難、だね」
けれどいま、ここに居るのは白い猫なのだ。
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