ルーピン先生の事務室を出たときにはもう、大広間に行くことさえ面倒で。
わたしは階段を一段一段踏みしめながら、出来るだけ頭を空っぽにしようとした。
気を抜けば俯いてしまいそうになるのは、きっと色々詰め込みすぎたからだ。
お昼ご飯も食べなくてもいいかな。
もう、午後の授業もサボっちゃおうかな。
窓枠から見える空は、深い青。
シーン62:フレンズアゲイン!
他人の振りを貫かなければならない状況下にもかかわらず、
がこうしてのことをキチンと心配してくれたということは素直に嬉しいことではある。
あるのだが、どうしてこうも噛み合わないのだろう。
午前の授業が終わるまでには、まだ時間があった。
だからといって自習にわざわざ参加するのも面倒だし、昼を食べに行くのも億劫だった。
は食欲というものをすっかりどこかへやってしまったような気がした。
それはきっと一時の気分なのだろうが、ムリに食べても味がするとは思えなかった。
しかし食欲が無いのはだけかもしれない。
大広間でいやおうもなく好奇の視線に晒されていては下手に身動きなかったため、
シリウス・ブラックの場合、少なくとも1日半は飲み食いを全くしていないのだ。
自分用ではなく、彼用に食物を確保するため、は厨房に寄って行くことにした。
*
いつかのようにお土産を大量に渡されてしまったので、
はそれらを小さく齧りながら校庭を横切って森へ向かった。
大丈夫だろうとは思うが窒息されては困るので、
玄関の扉を通り過ぎた時にシリウスはカバンから解放してある。
がわざと落とすショートブレッドの欠片を拾い食いしながら付いてくるのがそれだ。
ゆっくり、ゆっくり、晩冬の乾いた陽を浴びながら歩く。
考えるのはバックビークの裁判のことだ。
今までは負けるはずがないと思いながら資料集めをしていた。
負けるはずはないが、有利な判例を用意しておくに越したことはない、と。
しかし今では灰色の雲がの心を覆っていた。
セドリックも、も、『正しいだけじゃどうにもならないことがある』と言う。
もしそうなったら。もしたちの想いがマルフォイの手で潰されてしまったら。
その仮定はどうしても、『シリウスが問答無用で捕まえられたら』の仮定を連想させてしまう。
(……そんなの、やだ)
そう思うのは、に本当のことを本人の口から聞かせてあげたいから、だけではなく。
ハリーに彼の名付け親の潔白を伝えたいから、だけではなく。
正しいことが権力の前に潰されるのが許せないから、だけではなく。
もしかしたら、彼が父親なのだろうかという思いを捨てきれないからかもしれない。
父親なんて、要らないと思っていた。
今でも、もし「パパが欲しい?」と聞かれれば「いや、別に」と答えるだろうというのは確かなことだ。
しかしシリウス・ブラックを『居なかった』ことにしてしまうのは、何かが違う気がする。
何が違うのだろう?
に言い寄る大人はそれなりに居たし、中にはほんとうに良い人だって居た。
それでもその人たちは、一時期が過ぎると家の中では『居なかった』ことになっていた。
それについて何かを思ったりすることは、特になかったはずなのに。
思考がタイミング良く途切れたとき、禁じられた森はもう目の前に迫っていた。
は背後を振り返り、いつもとは違う姿形をしたシリウス・ブラックを見た。
彼もまたの視線を感じ取り、森を見て、小さく頷いたかと思った瞬間には駆け出した。
白い影が、黒ずんだ緑の中へ消えていく。
その後姿に向かって、はしもべ妖精からのお土産を放り投げた。
わずかばかり校庭の散歩をしたところで、滅入った食欲は戻ってこなかったのだから、
ハーマイオニーともロンとも微妙な空気の今、ひとりで食べるにはこの菓子類の量は多すぎる。
肩が外れるかと思うほどの力を込めて、はビスケットタイプのものを森に投げる。
もやもやした気分を薄い小麦色の板に乗せて、出来るだけ森の奥深くにまで。
(…信じるしか、ないんだから!うまくいく、大丈夫、うまくいく!)
きっと大丈夫だから、という、この思いが届けばいい。
バックビークにも、シリウスにも、にも、のその思いが伝わればいい。
「――ぜったい、諦めないんだから!」
ぽっかりとこちらに口を開けている薄暗い禁じられた森に向かって、は叫んだ。
最後に一枚だけ残った楕円形のソフトクッキーを口に放り込み、手に付いたカスを払う。
午後の授業までは、まだまだ時間がある。
どうせなら「諦めない」というこの決意を忘れないうちに、バックビークに会いに行こう。
くるりと体の向きを反転させ、はどこか憤然とした足取りで歩き出した。
「こんにちはハグリッド!また遊びに来たの!」
ドンドン、と古ぼけた木の扉を叩く。
「おーぅか」という間延びした声が聞こえたので、は大人しく扉が開くのを待った。
ばんっ と 慌しい音がして
「――っ!」
「わっ!?」
の視界いっぱいには栗色のふわふわした髪が目に入るのだった。
急に飛びつかれ、はバランスを崩しそうになる。
「おっと」と、それを支えてくれたのはハグリッドの大きな手。
「あの、え?ハーマイオニー?」
が知っている限り、こんなにふわふわの髪をした女の子はひとりしか居ない。
「ハーマイオニー」ともう一度名前を呼ぶと、彼女はぎゅうぎゅうとを締めるように力を込める。
やばい、これはけっこう、く、くるしいかもしれない。
は僅かに自由の残された前腕部を使ってハーマイオニーの背中をぺちぺちと叩く。
「あのね、わ、わたしに謝ろうってずっと思ってたの。
ずっと、ずっとよ!だけどわたしったらまた意固地になってしまって、
話しかけるタイミングを失ってしまって、もう手遅れかもしれないとは思ったけど、」
「う、うん」
「だけど―――ごめんなさい。
わたしのことは放っておいてなんて言ってしまったけど、
クルックシャンクスのことをのせいにしたりしてしまったけど、
わたし、あの時の言葉を全部取り消したいの。のこと大好きだもの!」
ハーマイオニーはようやくの首を解放し、2人は顔を見合わせた。
彼女の目は真っ赤に充血していて、泣いた痕や疲れが隠しようもないほど際立っている。
「……うん、わたし、全部忘れるよ。
だってわたしもハーマイオニーのこと好きだもん。仲直り、しよ?」
むせ込みそうになるのを抑えながら、はハーマイオニーに言う。
すると彼女は小さく頷いて、またはらはらと涙を零すのだった。
は少し背伸びして、ハーマイオニーの頭をよしよしと撫でる。
自分のほうが2つも年下なのに、まるでお姉さんになったような気分だ。
「ほれ、だから言ったろハーマイオニー。
きちんと言やぁならすぐ許してくれるだろうってな」
ハグリッドは小さな目をパチリと瞑って、にウインクをしてみせた。
「わたし、とロンがブラックに襲われたって聞いて、
このまま2人と会えなくなってしまっていたらと思うとすごく怖くて、
ひとりで図書館に居るとずっとそんなことばかり考えてしまって、」
「……心配、かけてごめんね。ありがと、ハーマイオニー」
はまたじわりと胸が痛んだ。
あの時、ブラックに杖を取られたとでっち上げた時、
は自分を通すことばかり考えて周囲のことなんてまるで気にもしなかった。
結果として周りの人たちはの狂言を信じ、そしてを心から心配した。
自分のやり方は間違っていなかっただろうか、あの演技はしても良かったのだろうか?
諦めない。と、誓った傍から不安になる。
ハグリッドは屋外で友情劇を繰り広げた少女2人を自身の家に招き入れた。
テーブルの上には、先ほどまでハーマイオニーが飲んでいた紅茶が湯気を立てている。
彼はもうひとつカップを取り出すと、欠けた縁を指でなぞった。ケガをしなければいいがと思いながら。
「――ハグリッド、あの服はどうしたの?」
「お?おぉ、あれか。あれは週末用に干しとるんだ。
埃臭いのを着て行って裁判官の印象を悪くしちゃなんねえってハーマイオニーが言ってくれたんでな」
ひどく毛玉ができている大きな茶色の背広が、洋服箪笥の前にぶら下がっている。
それを指差しながら訊ねたは、『裁判官』という言葉に一瞬首を傾げ、次の瞬間には理解した。
「じゃ、じゃあ裁判、もうすぐなの!?」
「ええ、今週の土曜日なの。ロンドンの、魔法省で。
出来ることならわたし、着いて行ってあげたいのだけど…」
「心配すんな、ハーマイオニー。
お前さんはここのところ根詰めすぎだ、たまの休みくらい、ちったあ休め」
もし校内で裁判をするんだったら、だって傍聴を希望しただろう。
しかしロンドンで行われるのでは、いっぱしの学生にはどうにも出来ない。
ハグリッドがお茶の準備をしてくれるのを横目に見ながら、はその背広の毛玉を毟った。
埃っぽい臭いが取れても、こんなに毛玉だらけでは効果が半減してしまうかもしれない。
毟ったところからバサバサと不恰好になってしまうのは仕方の無いことだ。(ということにしておく)
そんなを咎めるかのように、バックビークはしわがれた声を上げる。
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