つまみを引っ張って、蓋をしめて、何秒か待って。
あーもう面倒くさい!なんでパッと変身できないの!

やきもきする気分を抑えて、わたしは『その時』を待った。
目を閉じる。するりと、何かが抜けていく感じがする。

次の瞬間には、目を閉じていてもわかるほど、
自分の体が軽いのと、聴覚がいやに研ぎ澄まされていることがわかる。

わたしは目を開けた。
待っててもらっていたクルックシャンクスの姿が目に入る。



ニャァニャァ
( よーし!じゃあ、わたしとクルックシャンクスを抱っこして、
  迷子の猫を放り出すだけですっていう顔をしながら玄関ホールまで行くでしょ、 )

「…………」

ウーニャァ
( そしたらあなたは、何か本でも持って談話室に行って、
  試験が終わってハシャぎすぎましたっていう風にウトウトするのよ! )

「ラジャー、マスター」



ん?あなた、そんなキャラだったっけ?











  シーン70:木星と犬 5











クルックシャンクスを待ちわびていたのだろうシリウス・ブラックは、
と思しき白い仔猫の姿を見止めると、盛大に眉を顰めて溜息をついた。
犬のくせに器用だなあと感心しながら、は黒い大きな犬に相対する。



( ……わたしは来るなと言ったはずだかな… )

( “わかりました行きません”なんて返事してないもん。
  それに、じっと待ってるなんて耐えられないし… )



青い夏草が生えている森の地面を見つめながら、はボソボソと喋った。
だって本当に、置いていかれたくなかったのだ。
全部が終わったあとで「実はこういうことでしたー」なんて言われても、納得できる気がしない。

出来る事なら、この出来事をハッピーエンドに持って行きたい。自分の手で、自分の力で。

その気持ちが分からない訳ではないので、シリウスはとうとう折れた。
人手が増えるのはありがたいし、正直なところ、と一緒に何かが出来ることが嬉しいのだった。



( ……仕方ない。その代わり、今なにが起きているのか教えてくれ )

( えっと……ハグリッドのヒッポグリフが裁判にかけられてて、今日が控訴の日だったの。
  本当はマルフォイが悪いんだよ。バックビークは悪くないの。なのに……
  ねえ、ハグリッドが泣いてたって、なんでか分かる?嬉し泣きだった?悔し泣きだった? )



シリウスは遠目にハグリッドを見たときのことを思い出した。
肩はがっくりと力無く落ちていて、とても嬉しそうには見えなかった。
ということは、控訴に敗れたのだろう。



( 嬉し泣き…ではなかったろうな、アレでは )

( うそ。じゃあ……バックビーク、処刑、されちゃう… )



何やら不穏な単語が出たので、シリウスは内心で( どうなってるんだ? )と困惑した。
脱獄してから今までの経験でも活かされた彼の生来の勘の鋭さが、何かが起きようとしているのだと告げる。
そのヒッポグリフの件については、きっとただの切欠でしかない。

処刑ということの非道さはひとまず置いておいて、
それが為されることによるこれからの動きについて考えてみよう。

ヒッポグリフの処分が決まる。
処刑の執行人や立会人がハグリッドの小屋を訪れる。
まさか室内で首を落としたりはしないだろうから、一旦全員が外に出る。

狙うべきはそこだ。

小屋が無人になったときなら、侵入しても他の人間を危険に晒すことはないだろう。
ただし、処刑に立ち会いたくないといって誰かが残っていなければ、の話だが。



( ……、ではこうしよう。まずきみはハグリッドの小屋を見張ってくれ。
  小屋が無人になったら合図をする、そうしたらわたしとクルックシャンクスで小屋に入る。
  きみはあのネズミが逃げたときのために退路を塞いでいてくれ  )



は小さく頷いた。
どうも端役しか任せてもらえないようだが、それもまあ仕方ない。



( いいか、危なくなったらネズミなんて放っておいてすぐに逃げるんだ。
  きみに何かあったら悔やんでも悔やみきれないし、に合わせる顔が無い… )

( わかった、わかってるってば! )



口煩い母親のようなことを言うシリウスに少し辟易しながら何度も頷く。

本人たちはいたって真面目に作戦会議をしているつもりなのだが、
実際には森の中にワンワンニャアニャアという鳴き声が響いているだけだ。
クルックシャンクスは何も言わずにそんな光景を見ていた。















ハーマイオニーの素早い行動で透明マントを取り戻し、
ハリーたちはそれを被ってハグリッドの小屋に来ていた。

本当はも誘おうかと思ったのだが、
談話室であまりにも気持ちよさそうに寝ていたので、起こさないでおくことにした。
というより、控え目に声をかけてもちっとも起きる気配が無かったのだ。

ハグリッドは茫然自失といった体で3人を出迎えた。
「来ちゃなんねえだろうが!」と言った声にも力が無かった。

こんなにも憔悴している姿なら、泣いているハグリッドを見るほうが、随分よかった。



「ビーキーは外だ。俺のかぼちゃ畑さ繋いでやった……新鮮な空気を吸わせてやって…
 それに木とか空とかも見せてやろうかと……そんで、その後で……」

「ハグリッド、何か出来ることはないの?
 誰か、なんとか出来る人は――ダンブルドアとか、」



ハグリッドは力なく首を振りながら、お茶の準備を始めた。
しかし手が震えているせいでミルクポッドを割ってしまい、ハーマイオニーがサッと駆け寄る。

床をきれいに拭く彼女を見ながら、ハリーが訊ねた。
しかしハグリッドはまたもや首を振って、「ダンブルドアは努力なさった」と返した。



「だけんど、委員会の決定を覆す力はお持ちじゃねえ。
 ダンブルドアも――も……大臣にまで進言してくれた。出来ることは全部やってくれた。
 委員会の連中は怖気づいちょるんだ…ルシウス・マルフォイがどんな奴か知っとるだろう、え?」

「そんな……先生まで?」

は…良い奴だ。あんな大変な目に遭ったのに、昔と何も変わっちょらん。
 立派だ――それに比べて、俺ぁ……処刑人のマクネアはマルフォイの昔のダチだで、
 言うこと聞かねえわけがねえ。だけんど、あっという間にスッパリ行く…
 苦しい思いはせんでええ。それに、俺が最後までそばに居てやるし……寂しい思いも…」



割れてしまったミルクポッドの代わりに別のポッドを探していたハーマイオニーが、
涙を堪えきれず、ぐすりと、小さく、短い、すすり泣きを零した。

ハリーたちは処刑に立ち会いたいと思った。
ハグリッドを、こんな状態のハグリッドを、ひとりで処刑に立ち会わせたくない。

しかしハグリッドは断固としてダメだと言った。
大臣やダンブルドアがハリーが出歩いているのを見つけたら厄介なことになるし、
それになにより、来てくれただけで十分だ、と。


涙を隠しながら、ハーマイオニーがポッドからミルクを注ごうとする。
そして突然、「きゃあ!」と叫び声をあげた。



「ロ、ロン!信じられない――スキャバーズよ!」















はその小柄な体を活用して、窓枠ギリギリのところに隠れていた。
室内ではハリーたち3人が何やら話をしている。
きっとバックビークが敗訴した話を聞いて、慰めに来たのだろうと思った。

すると突然、ハーマイオニーの叫び声が聞こえた。

何事かと思い、はガラスに顔を近づける。
ミルクポッドを手にしたハーマイオニーが、ロンにその中身を見せている。

やがて口をあんぐりと開けたロンが、ミルクポッドから何かを掴み上げた。

ボロボロで、痩せこけ、毛はバッサリ抜けていて、あちこち禿げていて……
まるで打ち捨てられた雑巾のような姿のそれは、ネズミだった。



( あ、ああー!!! )



は思わず叫んでしまったが、幸運にも「フミャー!」という声にしかならなかった。
ロンの手の中で逃げ出そうと必死にもがいているのは、スキャバーズだったのだ。

あのネズミめ、どうやってミルクポッドの中に隠れたのだろう?

はシリウスにすぐにこの事を伝えようと、
窓枠の縁ギリギリのところから飛び降りようとして、やって来る人影に気付いた。

影は5つ。

先頭を歩くのはダンブルドア。銀色の長い髭が、西日に輝いている。
その横をせかせか歩いている小太りなシルエットがファッジで、
その後ろは見たことの無い男が2人。恐らくは委員会のメンバーだろうと予想ができる。
末尾は。まるでSPか何かのようにキビキビと歩いている。


ハグリッドたちはまだ気付いていない。
このままでは、ハリーたちがここに居ることが、あの面子にバレてしまう。

は窓ガラスをガリガリと引っ掻いた。
大した音には鳴らなかったが、気を引くには十分だったようだ。

ハッとした顔でハグリッドが窓に駆け寄ってくる。
は今度こそ飛び降りて、裏口へ回り込んだ。
ぼそぼそと声が聞こえる。ハリーたちが「帰れ」「ここに居る」の押し問答をしているのだ。


裏口が開いて3人と鉢合わせてしまう前に離れたほうがいいだろう。
シリウスとクルックシャンクスはかぼちゃ畑の先で待機している。
はそちらへ向かって駆け出した。





( シリウス!シリウス、聞いて!大変!
  スキャバーズがハーマイオニーに見つかった! )

( なんだって? )

( たぶん、ロンが連れて帰ろうとすると思う。
  すごいの、ミルクポッドの中に隠れてたの!どうやって隠れたんだろう…… )



都合よく容器が空だったからいいが、ネズミ漬けのミルクなんて使う気にはなれない。
同様の理由で、隠れていたのがロックケーキの容器でなくて良かったとは安堵した。



( それから、ダンブルドアと大臣と委員会の人っぽいのがこっちに来てる。
  ハリーたちももうすぐ小屋から出てくると思うよ  )

( そうか……わたしとクルックシャンクスはハリーたちを追う。
  は――そうだな、ダンブルドアの様子を、 )

( だめ! )



ダンブルドアの様子を見ていてくれと続くのであろう言葉を、は遮った。
クルックシャンクスは少しムッとしたようにを見る。



( だめなの。だって、ママも一緒に来てたから。
  あんまり近付いたら、わたし、捕まっちゃう! )



シリウスはいっそが連れ帰られたほうが変に心配せずに済むと思ったが、口には出さなかった。
たぶん、この少女は、連れ帰られたとしてもまた抜け出してくるだろう。

ハグリッドの小屋のほうでは、裏口が開く音がした。
ハリーたちが城に戻るのだろう。



( ……厄介だな…じゃあこうしよう。
  ハリーたちに接近するのはクルックシャンクス、わたしとは後ろからだ。 )

( うん、わかっ―――?  )



わかった、と、返事をしようとしたとき。

かぼちゃ畑の、バックビークが繋がれているあたりで、人影がうごいた。
その人影はどうやら、バックビークの鎖を外そうとしているようだ。

いったい誰が?

はシリウスを見上げた。
誰だろう、バックビークを逃がそうとしてくれているのだろうか?



( ……気になるんだろう?行ってくればいい。
  わたしとクルックシャンクスは先に行っているから、
  きみはネズミが逃げたときの退路を塞ぐように追ってきてくれ )

( う、うん……ごめん。
  ちょっと見たらすぐに戻るから! )



シリウスは頷き、クルックシャンクスを促した。
犬と猫は、ハグリッドの小屋から城へ続く道を、茂みに沿ってこっそり歩いて行く。

はその後姿を見送って、かぼちゃ畑のほうへそろりと歩みだした。




















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