わたしとママは森に入った。
さっきまでの騒ぎが嘘みたいに、森の中は静まり返っている。

シリウスはどこに居るんだろう?ハリーは?ハーマイオニーは?



、あなた箒に乗るのは得意?」

「え?う、うん、まあ…そこそこ…」



ママは杖を振って、どこからともなく箒を取り出した。
黒檀色のシャフトに、メタリックなオレンジ色で「Tinderblast」と彫ってある。



「いい?危ないと思ったらすぐに逃げること。
 わたしのことなんて気にせずに真っ直ぐ城に戻って、ダンブルドア先生を呼びなさい」

「わ、わかった!」



わたしは箒にまたがって、ママの斜め後ろを浮かびながら着いて行く。











  シーン76:ティンダーブラスト











案内すると言ったものの、は途中でを呼んでこようと別行動を取ったため、
ハリーたちや、狼と化したルーピンの正確な位置は分からなかった。

は難しい顔をして少し考え込むと、
適当な木の枝を手折り、それで左の手のひらをざくりと切った。
じわじわと赤い血が垂れる。は「ひぃ」と言っての頭の横に並んだ。



「な、なにやってるの!?」

「どうせならおびき寄せた方が捕まえやすいでしょう?
 狼人間が求めるのはヒト。ヒトの臭いが最も濃いのは血液。いいエサになるわ」



は手のひらから滴る雫を木の幹に擦りつける。
化膿するんじゃないかとはヒヤヒヤした。

所々に同じようなマーキングを施し、2人は更に森の奥へと進む。
の視線は鋭く、ぴりぴりした緊張感に包まれていた。
とてもじゃないが談笑しながらの探索というわけにはいきそうもない。


時々ガサリと音がすると、は足をぴたりと止めて音の正体を見極めようとした。
もそれに倣って箒の動きを止めるが、どうもブレーキが弱くて数メートル進んでしまう。

もう何回、それを繰り返しただろう?
2人が森に入ってから、どれだけの時間が経ったのだろう?

は手が箒の柄から滑り落ちそうになり、何度か慌てて持ち直した。
朝から試験、昼はシリウスのことでヤキモキし、夕方から夜にかけては『叫びの屋敷』で怒涛の展開。
これでは疲れるなというほうが酷な話だろう。

は何度も「帰れ」と言いたそうな顔でを見ていたが、
そういうとき、は断固として視線を合わせなかった。
まだ帰るわけにはいかない。みんなの無事を確かめてからじゃないと安心できない。


湖か大きな水溜りでもあるのだろうか、月光がキラキラと反射する一角が視界の隅に映った。
そのとき、今までよりひときわ大きく、狼の遠吠えが聞こえた。ということは、近いのだろう。

は少しずつ箒を前進させながら、周囲を窺った。
どこだろう?どこにいる?シリウスやハリーも一緒なのだろうか?



うしろ!」

「え?」



の、切羽詰った声がした。
次の瞬間には箒の先を引っ張られ、は自分の意思とは無関係に数メートルほど前にのめった。

振り返りざまに、赤い光が周囲を照らすのがわかった。
これは呪文?じゃあ、「うしろ」というのは――


後ろ足で立ち上がった、その毛の長い生き物は、数十分前に見た「狼人間」だった。
はすこしよろめき、左の頬を押さえている。

再び赤い光。の杖から発されているようだ。
狼人間はそれをやすやすと受け流し、長い腕で大きく薙いだ。



「リーマス!聞こえてるんでしょう!
 あなた、そんなに簡単に狼に負けていいの!?」



が怒鳴ると、狼人間はわずかにたじろいだ。

は目の前の狼人間がリーマス・ルーピンであることを改めて思い出した。
優しくて、いつも丁寧な授業をしてくれて、みんなに好かれていた先生。
それが今では、見境なく女子供を襲っている。

『狼人間になるのは苦痛に満ちたこと』だと、彼はついさっき語っていた。
苦しいから、爪を振るうのだろうか?痛い、助けてほしい。それを、訴えるために?

つい物思いに耽ってしまったに気付き、狼人間は進路を変えた。
こちらに向かってくる。は息を呑んで、ティンダーブラストの柄を上方に向けた。



「リーマスだめ!!」



ぐんっと体に圧がかかり、上昇する感覚。爪が身体を引っ掻いた感触は無かった。


わずか下方では、が狼人間に体当たりをしていた。けれど、体格が違いすぎる。

膝をついたの真正面に、鋭い爪を光らせた狼人間がゆらりと立つ。
このままでは――このままでは、がズタズタにされてしまう。



「や、やだ……先生だめっ、やめて!――インセンディオっ!!」



狼人間が爪を振り下ろすのとほぼ同時に、は杖を振り下ろした。
狙うは狼人間の右目の横あたり。飛び出している若枝を目掛けて発火の呪文をぶつける。

早かったのは、の呪文である。

『伝令の杖』を模しただけのことはある。の杖は今までで最高の反応速度で呪文を発動させたのだ。
狼人間は急に頭の横が燃えたので驚き、振り上げた爪の軌道が大きくずれた。



「サーペンソーティア!!」



の呪文で怯んだところを、すかさずが狙う。
杖は眩しいほどに光り、は思わず目を瞑った。

箒の柄をぎゅっと握り、恐る恐る目を開いてみると――そこにはニシキヘビもあわやというほどの大蛇。
灰色っぽい体に黒っぽい縞模様をつけ、大蛇は鎌首をもたげている。

は掠ったときに出来たらしい頬の傷を拭いながら杖を揺らす。
すると蛇はそれに呼応するかのように這い進み、狼人間に絡みついた。
狼人間は蛇を切り裂こうとするが、硬いウロコがそれを弾く。

は見ているだけで気分が悪くなるようだった。
大蛇はやがて背後にあった木もろとも狼人間を完全に巻き込んでしまった。
はオーケストラを指揮するかのように手首を動かす。


めきめき、みしり、軋んだ音がする。


軋んでいるのが木なのか、それとも狼人間の身体なのか、判断がつかない。
大蛇は幹を2周してもなお余りあるその体を、今度は狼人間の首に絡みつかせた。



「―――だ、だめっママ、それ以上は……ルーピン先生、死んじゃう…!」

「平気、死にはしない。朝まで気絶してもらうだけ」



淡々と返される言葉はまるでのものじゃないみたいに聞こえた。

数秒ほど経ち、狼人間は舌をだらりとさせたまま動きを止める。
爪はもう、大蛇を裂こうとはしていなかった。気絶したのだ。



「まったく、人の商売道具に傷つけてくれちゃって…」



はもう一度頬の傷を手の甲で拭うが、赤い雫はぽたぽたと滴ったまま止まらない。
は箒から降りてに駆け寄った。自分のせいで、怪我を、させてしまった。



「ママ、大丈夫?痛くない?ごめんなさい、わたしが……」

「謝らないの。わたしは大丈夫。
 マダム・ポンフリーがあっという間に治してくれるはずだから…さあ、行きましょう」



どうやらルーピンと蛇はこのままにしていくらしい。
は右手にティンダーブラストを持ち、左手でと手を繋いだ。
暖かい感触に、自分たちが生きていることを実感する。





「――か?」

「スネイプ?」



森の中を再び歩き出してから少し経ったとき、足音がした。
はサッと杖を構えたが、聞き覚えのある声がして、警戒を解く。

振り返ると、頭から流した血が固まりかけていっそう凶悪面になったスネイプが居た。
その背後には担架に乗せられたハリー、ハーマイオニー、ロン、それに、シリウス。

( 無事だったんだ… )はホッと息をついた。



、ルーピンは今晩薬を飲んでおらん。ここは危険だ、早く城に戻れ」

「あら、リーマスなら向こうでのびてるわよ。
 ちょっとキツめに仕上げたから朝まで平気。で?そっちはそれで全員なの?」



「ああ」とスネイプが言う。
ペティグリューが居ないが、それはどうしようもないことだ。

は大人しく手を引かれながら、ホグワーツの城に戻った。
引き渡すべきペティグリューがいなくては、シリウスはどうなってしまうのだろうと思いながら。















城の玄関まで着くと、が子供たちを引き受けて、スネイプがシリウスを引き受けた。
担架3つとを引き連れ、は医務室へ向かう。
シリウスも気を失っているのに、彼は医務室での治療は受けられないようだ。


医務室では、マダム・ポンフリーが眠そうな顔で出迎えた。
しかし教授の背後に重症患者が3人も居ると分かると、途端にキビキビと動き出す。

自身はに庇われていたので無傷なのだが、
さすがに「はいじゃあ寮に戻ってね」というわけにはいかなかった。

マダム・ポンフリーの手伝いをしながら、今夜の出来事を掻い摘んで話す。


ハグリッドの小屋でスキャバーズを見つけたこと――
ロンが柳の下へと大きな犬に攫われて行ってしまったこと――
その犬は実はシリウス・ブラックだったということ――
ネズミも、実はピーター・ペティグリューだったということ――


はなるべく、自分もハリーたちと一緒に居たかのような客観的な話し方をした。
正直に話す気はあるのだが、マダム・ポンフリーが居るので、どこまで話して良いのかわからないのだ。



「――それで、学校に戻ってきたんだけど、ルーピン先生が変身しちゃって…
 ペティグリューはその隙をついて逃げたし、シリウスはルーピン先生と戦って…」

「……うん……」



はハリーを眺めたまま、ほとんど無言で聞いていた。
マダム・ポンフリーはたらたらと血を流し続ける左頬の傷が気になるようだが、
はガーゼをあてることすらしなかった。心ここにあらずといったように見える。

は、とうとうと合流したところまで話し終えた。
その間もハリーたちは眠り続けている。何があったんだろう?とは胸騒ぎを感じる。



「―――事情は、だいだいわかった」

「ママ……」

はここに居なさい。……校長と、話してくるから…」



は立ち上がり、ふらふらと抜け殻のような足取りで医務室を出て行った。
果たして、いまの話を信じてくれたのだろうか?
それにスネイプはシリウスをどうしてしまったのだろう?

床に零れる血の跡を雑巾で拭き取りながら、は泣きたい気分になった。



















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