なんだか、バックビークの裁判に最初に負けたときみたいな気分だった。
ほんとうはシリウスは悪くないのに、
証拠がないから、指名手配犯だから、負けてしまうのかもしれない。
そりゃ、ちょっとは褒められないようなこともしちゃったけど、
でも、ただあの人は、ハリーやわたしやママのために一生懸命だっただけで、
本当は、すごく、いい人。なのに。
また、わたしたちは、現実に負けるのかな。
シーン77:黒き血の姫 2
マダム・ポンフリーはどうやらが「錯乱呪文」にかけられていると判断したようだ。
ホットミルクを手渡され、「飲むと精神が落ち着きますよ」などと言われてしまった。
確かに、あの場にいてペティグリューを目撃していないと、
がさっき語ったようなことはただの絵空事にしか聞こえないのかもしれない。
けれど、やハリーにとっては、現実に起こった出来事だったのだ。
「マダム・ポンフリー……シリウス・ブラックは、これからどうなるんですか?」
「お嬢ちゃん、心配しなくても大丈夫ですよ。
すぐに魔法省が『吸魂鬼のキス』をしますからね」
が少し我に返り始めたとでも思ったのか、
マダム・ポンフリーは優しい声でちっとも『大丈夫』じゃないことを告げた。
は立ち上がった。
なんとかして、それだけはやめさせなければならない。
せめてアズカバンに再収監とか、そういう程度に収めてもらえないだろうか?
「マダム、わたしちょっとシリウス・ブラックのところに――」
「いけません!先生がここに居るようにとおっしゃったでしょう!」
マダムの鋭い語気に圧され、は「はいっ」と返事をして丸椅子に座りなおした。
だめだ、正面から攻めても絶対にここから出してもらえそうにない。
どうにかしてここを抜け出して、大臣でもダンブルドアにでも会わなくちゃならない。
そしてシリウスに情状酌量の余地を認めてもらえないか交渉しなくちゃならない。
だけど、どうやって抜け出せばいいんだろう?
は両手で顔を覆って考えた。
八方塞な状況に押し潰され、気を抜くと涙が零れそうだった。
マダムはの頭を優しく撫でて「ベッドでお休みなさい」と言う。
眠くなんかないです、と言い返そうとして、はむぐっと口を噤んだ。
もし――がベッドで眠ってしまったと思ったら、マダムは事務室に戻るだろうか?
なんの確証もないが、とにかく試してみる価値はあるだろう。
は目を擦りながら「はい、マダム」と大人しく言った。
マダム・ポンフリーはその返事に満足したらしい。
うんうんと頷いてをベッドまで誘導し、布団をかけた。
「さあお休みなさい。きっと目が覚めたら悪いことは全部終わっていて、
お母様が優しくお迎えに来てくださいますからね」
「はい、マダム」
次に目を開けたら本当に状況が全部変わっていたらいいのにと思いながら、は目を閉じるフリをした。
*
うまくいった。
何度か本気でウトウトしかける場面はあったが、15分も経たないうちにマダムは事務室に戻っていった。
バタンと扉が閉まる音を聞き届けたは、むくりと身体を起こす。
ハリーやハーマイオニーはまだ目を覚まさない。
そっとベッドから降りて、靴音がしないよう、ソックスのままで出口に向かう。
ホグワーツは石畳なのでじんわりと冷えるが、この際気にしていられない。
あとすこし、あとすこし……どうかマダムが気付きませんように!
最後の数歩をなかば走るようにしてやり過ごすと、はドアノブに手をかけた。
右にひねる。が、開かない。左にひねっても、開かない。
どうやら鍵が掛かっているらしい。
はポケットを漁った。
たしか、杖をしまったはずだ……『時計』を持っていればもっと楽に事が済んだのに…
しかし『時計』は使ったあとトランクに放り投げてしまったのだ。
ドアノブに杖先をあてながら、はぴたりと動きを止めた。
開錠の呪文はなんだっただろうか?ア――アホロモラ?何かが違う。
アホモロラ。それもなにかしっくりこない。
アロハモラ。どんどん遠ざかっていく気がする。
「あーもう分かんない……“開けゴマ”!」
カチリ、と、音がした。
え、うそ、開いた?
は目を丸くしてドアノブを見つめた。
そんなんでいいのだろうか、魔法学校の危機管理。
しかし開いてしまったものはしょうがない。
は意気揚々とドアノブを捻り、扉を押し開けた。
途端に事務室からベルの音。
「――ッこらアンドロニカス!逃げようとしてもムダですよ!」
「え!?ご、ごめんなさいすぐ戻りますから!」
マダム・ポンフリーが「やっぱり!」という顔で事務室から出てくる。
しかしもう半身を廊下へ乗り出していたのほうが早い。
は後ろ手に扉を閉めて、全力で走った。
どこにシリウスが捕らえられているのかも知らないが、とにかく医務室から逃げなければ。
多少、冷静になって考えてみれば、『開けゴマ』などという子供だましの呪文でうまくいくはずがないのだ。
仮にもここはホグワーツ魔法魔術学校で、現在は脱獄犯のせいで特別警戒実施中である。
きっとあの扉には一定の手順を踏まないと開けられない仕掛けか、
もしくは不用意にこじ開けようとすると警報が鳴る仕組みになっていたのだろう。
は3階だか4階だかの廊下を歩きながらそう結論付けた。
石畳をソックスで走ったせいで、踵がじんじん痛む。
さて、シリウスはどこに居るのだろう?
逃がしてあげたいなどと大それたことは言わないので、話くらいは出来ないだろうか。
もしくは大臣か校長だ。シリウスは悪くないことを証言しなければならない。
けれど、はその3人のうちの誰ひとりとして居場所を知らないのだ。
虱潰しに探していたら、見つける前に『キス』が執行されてしまうかもしれない。
は窓ガラスに映る自分の顔を見て、意外と埃だらけなことに気付いた。
鼻の頭に泥のようなものもついているし、髪もボサボサで、葉っぱまで絡まっている。
休めとか言うまえにこっちを直してほしかった。とは少し不満に思った。
これからどこへ行けばいいのか途方に呉れていたは、
なかばヤケクソの気分で窓ガラスを覗き込み、身だしなみを整える。
コンコン、と、3つほど隣の窓のあたりからノックの音がした。
ノック?
ここは3階だか4階だか(数えそびれた)で、地上階じゃないのに?
「っ」
「わぁっ!?――え、ハリー?ハーマイオニー?バックビーク!?」
音のしたほうに顔を向けると、そこには2人と1匹の姿があった。
どうやらハリーとハーマイオニーはバックビークの背中に乗っているらしい。
しかし、彼らはまだ医務室で眠っていたはずだ。
いつの間に目覚めて、どこからバックビークを連れてきたのだろう?
「説明はあとでするよ。、よく聞いて。
僕たち、これからシリウスを助けにいく。フリットウィック先生の事務室に閉じ込められてるんだ」
「そうなの?ねえ、わたしも――」
「には足止めをしてもらいたいんだ。
僕たち、ワケあって……あと15分くらいで医務室に戻らなきゃならない。
もちろん成功させるつもりだけど、、出来ればファッジとスネイプを引き止めておいてほしいんだ」
あと15分?は耳を疑った。
ここまで走ってくるのに10分とは言わないが5分を軽く越える時間はかかったはずだ。
これからシリウスを助けて、西塔の8階から医務室に戻るのは15分では相当キツイだろう……
「わ――わかった。よく分かんないけどやってみる。
ねえ、その代わり、シリウスちゃんと助けてあげてね!」
「わかってる。約束するよ――行こう、バックビーク」
ハリーはバックビークの横腹を締め、ぐんっと上昇した。
はそれを見送り、呆気に取られながら周囲を見回した。
とりあえず、近くにはファッジもスネイプも居ないようだ。
なら、フリットウィック先生の事務室、西塔8階の近くに居るかもしれない。
*
「――あとはもう、ダンブルドアが四の五の言わぬよう願うばかりで…
吸魂鬼どもの『キス』は直ちに執行されるのでしょうな、大臣?」
「ああ、マクネアが吸魂鬼を連れてきたらすぐに執行だ。
まったくブラックのせいで我々は最初から最後まで面目丸つぶれだよ。
『預言者新聞』の連中にこのニュースを知らせてやるのがどんなに待ち遠しいか……」
ハリーたちとの奇妙な邂逅から5分ほど経って、
はようやくスネイプとファッジが歩いているのを見つけた。
話題は、の思う最悪の事態がまもなく実現するという意味だろう。
「―――あのっ、大臣!スネイプ先生!!」
ファッジはぎょっとした顔でを見る。
は息も絶え絶えだったので、何度か深呼吸しなければ喋れそうになかった。
「あのっ…あの、シリウスのこと、なんですけどっ…」
「ああ、心配しないでいいんだよ。すぐに刑を執行するからね。
そうだ、スネイプ先生がいかに活躍して下さったか、インタビューを受けてみないかい?」
「そうじゃなくてっ…あの、あの人に本当に『キス』しちゃうんですか?
せめて、アズカバンに戻すとか、そういう……減刑措置は、とっていただけないんですか?」
2人はどうしてがそんなことを言うのか分からないといったように顔を見合わせる。
は一度きゅっと口を結んだ。
足止めになるなら出鱈目なことでも言おうと思っていたのだが、
どうにも、自分の感情をうまくコントロール出来そうにない。
心にあることが、そのまま口をついて出てくるようだった。
「、どうしてそんなことを言うんだね?
きみだってブラックには散々迷惑をかけられた被害者だろう?」
「だって――だって!あの人、わたしのパパかもしれないんです!
や、やっと会えた、ほ、ほんとのパパかもしれないのにっ――こんな、こんなとこで、」
はファッジのマントを掴み、見上げて言った。
感情が昂ぶりすぎていて、頭が熱で浮かされているようだった。
「た、確かにあの人、バカな事もしたかもしれませんけど、
でもっ…でもわたし、あの人とまだ何も話してないんです!
ママのこととか、もっと聞きたいことあるのに、まだ何も話せてないんです!」
「――……」
「だから……だからお願いします、シリウスを返して!
シリウス――あのひと、パパかもしれないから、だからっ……かえして…っ」
じわじわせり上がってくる涙を堪えていると、の腕が大臣のマントからそっと外された。
そのまま背後から腕がまわされ、みぞおちあたりで抱きかかえられる。
「――ごめんね、もういいの。もういいから………」
自分のものより少し明るい色の髪がなびき、
ほのかに甘い香水の匂いが、の鼻腔をくすぐる。
その涙声の持ち主は誰であろう、だった。
←シーン76
オープニング
シーン78→