木霊。











  BEHIND THE SCENES : LIV.











「シリウス、あいつが逃げた!ペティグリューが変身した!!」



ハリーの声が届き、シリウスは思わず振り返った。

狼人間は森のほうへ去っていく。
これで子どもたちが襲われることはなくなったが、彼は鼻面と背中を裂かれていた。


逃げた ペティグリュー 変身


その言葉だけで状況を判断するのには十分だった。
逃げた。ペティグリューが、ネズミに変身して逃げたのだ。
あと少し、あと少しですべてがうまく行くというところで、なんということだ。


血の気を失い、よろけそうになる身体を奮わせ、シリウスは立ち上がった。
黒い、獣の身体は、夜の校庭に溶けるようだ。

ペティグリューはどちらに逃げたのだろう?
この期に及んで再び校内へ行方をくらますことはないだろうから、校門の方だろうか?

4つの足で疾駆する。
ハリーたちが城に戻って誰か信頼できる大人を連れてくることを願った。
、ダンブルドア、マクゴナガル、フリットウィック、誰でもいい、誰でもいいから、どうか。















は娘に手を引かれ、持ち場を離れた。
そして禁じられた森へ入って行き、狼人間の行方を追う。


自身らを制限する忌まわしい鷹が去り、吸魂鬼たちは喜び勇んでいた。
出来るのならあの鷹を喰い尽してやりたいところだったが、目下、目的はそれではない。

吸魂鬼たちには分かっていた。
自身らが監獄から連れ出され、このような貧窮の地に追いやられた原因が、すぐ傍に居ることを。


シリウス・ブラックが、まさに今この瞬間に、すぐ傍に居ることを。


吸魂鬼たちは滑るようにして校門をくぐった。
獲物の気配を追い、湖のほうへ連れ立って行く。















ネズミの気配を追い、シリウスは校庭を走っていた。
しかし狼人間に自身の鼻先を切り裂かれたせいで、嗅覚が思うように働かない。

やがて、湖のほとりに出た。
少し行けばハグリッドの小屋があり、禁じられた森の入り口にも近いところだ。

ネズミがここにいるかどうかの確証はなかった。
ただ、足がこちらに向いたのだ。


シリウスは息をつき、湖の水を飲んで少しばかり憩おうと思った。
数秒でいい。何分も休んでいられる状況でないことは身に染みている。

血の滴る鼻先を水面に入れる。

鏡のような面に、さざ波が起こる。
さざ波は彼の黒い獣の姿と、背後の、フードを被った影を揺らした。


シリウスは水面から鼻先を抜き、バッと振り返った。
何体もの、何十体もの、何百体もの吸魂鬼たちが彼を見ていた。

彼は鋭い歯をむき出しにして唸り、吼える。
が、実体というほどの実体を持たない吸魂鬼たちにその威嚇は通用しない。
奴らが恐れるのはただ、完全な守護霊だけなのだ。


シリウスは人間の姿に戻った。
背中が軋んだが、構わないでローブのポケットに手を入れる。
から借りた杖は、まだ持っていただろうか?

しかしそこにあるのは古ぼけた新聞だけだった。
くしゃりと音がする。まるで彼の心の音のようだ。

吸魂鬼たちが一歩、また一歩と、近寄ってくる。
ざあざあというノイズが耳を塞いでいくようだった。

いやだ、だめだ、来るな、来るな、来るな来るな来るな!



「―――やめろ――来るな――頼む、来るな、来ないでくれ!!」





「ピーター?」室内はもぬけの殻。特に争った形跡はない。 「ピーター?どこだ?」返事はない。冷や汗が背中を伝う。

どこだ、どこに隠れている?落ち合う約束の時間を間違えたのだろうか? それとも場所を勘違いしているのだろうか? そうだ、きっとそうだ、あいつは昔からおっちょこちょいで、 何度、あいつの尻拭いに手を焼かされただろう?

きっと、ジェームズたちの所へ行ったんだ。 あいつはバカだから、間違えたんだ。 そうだろ、そうなんだろう、ピーター?

玄関を出て、バイクに駆け寄った。エンジンをふかし、跨る。 ハロウィーンの夜空は、美しかった。






「――ハーマイオニー、何か幸せなことを考えるんだ。
 『エクスペクト・パトローナム』!きみも手伝って!エクスペクト・パトローナム――」





半分だけ崩れた家屋、大勢の人が集まっている。 その中の見知った巨体に気付き、駆け寄った。

「ハグリッド、これは、ジェームズは、リリーは、ハリーは、」
「…シリウスか…見ての通りよ、ふたりは死んじまった…」
「う――うそだ、そんな、だって、」

瓦礫の横には、傷だらけのジェームズの姿がある。 それに並ぶようにして、リリー。うそだ、こんなのは、うそだ。 計画は完璧だったはずだ、自分が囮になって、それで、ピーターが、  ピーター が 

「ほれ、ハリーだ。リリーが守ったんだ…額に傷がある…」
「俺――俺が育てる。名付け親だ。ハグリッド、俺が――」
「いんや、ダンブルドアが親戚に預けるとおっしゃった」
「俺……俺とで、」
「ダメだ、辛いだろうが、諦めてくれ…」

ピーター が ?

「……わかった。バイク使えよ、ハグリッド」
「だがお前さんは――」
「俺にはもう必要ない。することが――できたんだ」






「やめろ――やめろ!シリウスは無実だ、無実なんだ!
 エクスペクト――エクスペクト・パトローナム、エクスペクト――」





「見つけたぞ、ピーター」

大通り。マグル風のシャツを着たピーター。通行人が何人か振り返るが気にしていられない。

「シ――シリウス!よくもジェームズとリリーを!」
「どの口でそんな事ほざきやがる!てめえが――」
「うるさい!君が悪いんだ!君が全部悪いんだ!!」

逆上する声は耳障りだ。ポケットに手を伸ばす。しかし、それより早くピーターが杖を抜く。

爆発音。

悲鳴。血だまり。悲鳴。抉れた道路。なんだこれ。喉が鳴る。笑いが零れた。 ああ、やってらんねえな。ほんとに、なんだ、どうしてくれるんだ、これじゃあ に怒られちまう。

お前、そんなに素早く動けたんだな、ピーター!






もはや身体は動かなかった。
先程から、遠くのほうでハリーの声が聞こえる気がするのだが、気のせいだろうか?

守護霊の呪文を必死で唱え、自分を助けようとしてくれている声がする。
ハリー、もういい、無茶をするな……


目は閉じているはずなのに、なぜだろう、吸魂鬼がどう動いているのか分かる気がする。

するすると滑るように動き、奴らはハリーを捕まえる。
腐りきった両腕をあげ、フードを取る。『キス』だ。


シリウスは身体を動かそうとした。
だめだ、そんなことはさせない、絶対に、それだけは。

しかし身体は動かない。犬に変身することもできない。
耳鳴りがする。あの時の通行人の悲鳴が木霊する。指をさしてこちらを見ている。

また別の光景が脳裏に浮かんだ。
今度は現在のだ。秋の中ごろ、今の自分のように森の中で倒れていた。
彼女はあのとき、どんな声を聞きながら意識を失ったのだろう?

意識が薄れていく。シリウスの耳に届くのは、ハリーの声だ。
ハリー。大きくなった。立派になった。名付け親として、とても誇らしい……



突然、銀色が霧を貫いた。



『それ』はシリウスたちの周囲を旋回し、吸魂鬼たちを追い払う。
暖かさが戻ってくる。ハリーは力を振り絞って顔を上げた。

湖の対岸に、誰かが居る。
銀色の、角の生えた動物の形をした守護霊を撫でようと、手を上げている。
ハリーはそれが誰か分からなかった。ただ、ひどく見覚えがあるような気がした。


シリウスはどこでもない意識の中で、彼を呼んだ。


プロングズ。



















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