謝らないで











  BEHIND THE SCENES : LV.











は娘から今夜の事件のあらましを聞き、内心でひどく葛藤していた。
そんなバカな、ピーターが生きているだって?
しかしそれが本当だとするなら、色々なことに説明がつく。

シリウスには闇の印がなくて当然だし、
ファイアボルトだって可愛い名付け子にプレゼントがしたかっただけだろう。

ぎりっ、と歯を食いしばる。どうして自分はその可能性を考えもしなかった。
本当にシリウスが裏切ったのか?と、どうして考えようともしなかったのだ。


西塔の8階には、ダンブルドアとファッジとスネイプがいた。
フリットウィックの研究室から出てきたばかりのようだ。
つまり、シリウスの取調べを一旦終了したということか。



「大体の事情は娘から聞きました。
 ―――シリウスと話をさせてください」

、しかし…」



ファッジは困ったようにダンブルドアを見る。
はダンブルドアの青いガラス玉のように瞳をジッと見た。
―――この人は、シリウスの話を信じている。そう、思った。



「……賛成し兼ねますな、大臣。
 はブラックと親交があった。奴を逃亡させるかもしれませんぞ」

「スネイプ!い、いや、を信用できんわけじゃないんだがな、その……」



スネイプの暗い瞳が、邪魔をするなとに告げていた。
困りきってオロオロしているファッジを無視し、は外套を脱いだ。
脱いだものと杖をスネイプに投げつけ、ポケットというポケットをすべてひっくり返す。
ついでにブラウスも3つほどボタンを開けて、中に何も仕込んでいないことを示す。



「―――これで、満足?」

!わかった!わかったから!
 さあ、話でもなんでもすればいい。ただし、15分だけだ。いいね?」



ファッジはとスネイプの両方を見比べて、焦ったように言う。

ダンブルドアが小さく頷いてスネイプを促し、やがて3人は去った。
はノックをすることもなく、フリットウィックの研究室の扉を開けた。



「―――!」



後ろ手に、扉を閉める。シリウスは椅子から立ち上がって驚きの声を上げた。
は俯いたまま彼に近寄り、心音を落ち着かせようと深呼吸した。



「………とりあえず。2回くらい、黙って引っ叩かれてくれる?」

「あ、ああ……」



2回でいいのか?と聞き返したいのを抑え、シリウスは歯を食いしばった。

は腕を振り上げ、ぺしん!と、右手で左頬を、1回。
そのまま反対の腕を振り上げ、ぺしん!と、左手で右頬を、1回。

覚悟していたよりも痛くは無かったが、シリウスは椅子に座り込んだ。
バランスよく、両側の頬がじんじん痛む。

見ればの左頬にも3本ほどの引っ掻き傷があり、まだ血が滴っている。
鋭い爪で裂かれたようなその痕に、恐らくはリーマスだろうと、予想が付く。



「いまの、1発目のは子どもたちに怪我させた分と……
 2発目は、守人を勝手に変えたことを、わたしにも教えてくれなかった分よ」

「………2発目、本当にこれだけでいいのか?」

「だって別に、こういう結果になるのを見越して黙ってたわけじゃないんでしょう?
 ――もしそうだって言うんなら、いまここで消し炭にしてあげるけど?」

「そんなわけないだろ!」



慌てて否定して、シリウスはハッと気付いた。
は「シリウスが守人ではなかった」ことを前提に話をしている。
いつの間に、誰から聞いたのだろう?しかもそれを、信じてくれたのだろうか?

は窓際に立って、空を見上げた。星が瞬いている。



「―――全部、から聞いた。
 あなた、いったいいつの間にうちの娘をたぶらかしてくれたのよ?」

「人聞きの悪いことを言うな。あれはあの子が……いや、言い訳は出来ないな」

「殊勝な心がけね。どうせハロウィーンの頃にはもうグルだったんでしょう?」



シリウスは返事に詰まったが、それは「その通りです」と言っているようなものだった。
何をどう言おうとも、彼がまだ幼い子どもを巻き込んだことに変わりはない。

俯くシリウスに構わず、は彼の正面に回った。
一度、深呼吸。そしてシリウスの首のうしろに両腕をまわし、膝の上に乗るように座った。

驚いたのはシリウスだ。
まさかのほうから抱きついてこようとは思わなかった。
抱き返していいものかどうかも判断できず、両腕が無様に宙を掻く。



「ねえ。学生時代に戻ってさ、あの天下のシリウス・ブラック様がこんな浮浪者まがいになって、
 …こんな独特のにおいを発するようになるなんて言ったら、一体誰が信じたかしらね」

「―――ジェームズなら信じただろうな。
 、もう離れろ。お前の服が汚れるだけだ」

「いや」



はもう一度「いや」と言って、シリウスの首にかじりつく腕に力を込めた。
彼のうなじからは埃や汗の据えたにおいがする。は目を閉じた。涙が浮かんでくる。

ああ、この人は、こんなになるまで、リリーたちのために身体を張って。
こんなに痩せてしまうまで、自分の命を削るかのような執念だけで生きてきて。
12年もあんなに暗い、寂しいところに閉じ込められて、やっと、やっと逃げ出したのに。

この人は、もうすぐ、吸魂鬼に連れて行かれてしまう。

もしわたしが叫びの屋敷に同席していたら、こんなことにはならなかったのだろうか?
もしわたしが、12年前に、シリウスのことを信じようとしていたら。
もしわたしが、わたしが、もっと、



「……………信じるから、」



シリウスはの声が震えているのに気付いた。
それと同時に、つめたい雫が背中を伝う。
ひとつぶ、ひとつぶ、が息を詰まらせるたびに、暖かいような冷たいような、雫が。



「わたし、今度はちゃんと、しんじるからっ、」



信じる“から”。だから何だというのだろう?
は自分でも何が言いたいのか分からなくなってきた。


「だからいかないで」?それとも「だから安心していってきて」?


シリウスはようやくの背中に腕を回し、落ち着かせるように撫でた。
やっぱり、昔よりずっと痩せたようだという印象は間違っていなかった。

はときどき堪えきれなかったように嗚咽を零した。
そうだ。滅多に泣かないから忘れていたが、この女は、こういう風に泣くんだった。

それと同時に思う。吸魂鬼の「キス」は逃れられないのだろう。
さもなければ、彼女がこんな風になるはずがない。



はいい子だな」

「…………だ、って。わたしの、娘、だか、ら、」

「ああ。優しくて、頭がよくて、可愛らしくて…
 いい子に育てたな。――本当に、お前にそっくりだ」



は答えなかった。先程までよりも激しい、咳き込むような嘆息。
シリウスはもう一度だけ、「お前にそっくりだよ」と言う。





しばらく、そのままの状態が続いた。





もう何を言えばいいのかも分からず、ふたりとも黙ったままだった。
は、もう涙も収まってきたが、ただじっと目を伏せていた。
シリウスの細い指が自分の髪を撫でるのを、ただそのままにさせる。
何も変わらない、彼の指も、声も、なにひとつ、あの頃と変わらない。


やがて、控え目なノックの音が響いた。


ハッと顔を上げ、は腕時計を覗き込む。時間切れが迫っていた。
シリウスはの表情を見ただけで、すぐに状況を飲み込んだようだった。



「――時間なんだろう?」



は小さく頷いて、彼の膝の上から降りようとした。
シリウスは右手を伸ばして、の左頬の傷に触れる。
多少痛そうな顔はしたが、特に文句を言うわけではなかった。
そのままジッと、は彼の顔を見上げる。

シリウスはその視線に応えるようにぐっと顔を近づけたが――止めた。
の瞳に映る自分の姿はまるで骸骨のようだし、
さっき言われたようにもう何日も風呂に入っていない上に歯すら磨いていない。

そんな姿を、の中での「最後に見たシリウス・ブラック」にしたくはなかった。
むやみに触れることで、これから先の長い彼女の未来を拘束したくはなかった。


一度近付いたのに離れていく彼の顔を、は呆然と見つめる。
伏せていた目をあげ、今にも「はあ?」と声が出てしまいそうだ。

これでいい、これでいいんだ。
シリウスは「もう行け」と、彼女の背中を押し出した。が、



「――し、信じらんない!
 普通こういう状況で、あ、あそこまで気をもたせといて、寸止めとかする!?」

、これは、」

「い、いくじなし!わたしなんかより吸魂鬼とキスしたほうがマシだって言うのね!
 もういい!いいわよ、だったらあんたなんか、好きなだけあいつらと―――」



少しだけ苦笑を零し、シリウスはのよく動く顎を掴んだ。
せっかく気を使ったつもりなのに、『いくじなし』とは黙っていられない。
それこそ“天下のシリウス・ブラック様”の名が廃るというものだ。

けれど、やはり心のどこかに怯えはあるのかもしれない。
ほんとうに、ほんとうに一瞬だけ、軽く唇を掠める。

そのままの矮躯をぎゅっと引き寄せても、今度は何も文句は言われなかった。



「―――ごめんな、」



の、昔より格段に柔らかくなった髪に、顔を埋める。
どこかでいつか嗅いだような、ほのかに甘い香りがした。



「―――苦労ばっかりかけて、ごめんな」




トントン、と、今度はさっきよりも強めのノック。


は顔を伏せたまま、何も言わずにシリウスから身体を離した。
ぐすりと、しゃくり上げるような音をさせたまま、扉のほうへ歩いていく。

結局泣かせてしまったかと、彼はまた苦みばしった自嘲を浮かべる。
けれど、自分に迫った死を嘆いてくれるひとがいるというのは、こんなにも、嬉しい。





ばたん、と、世界を分断するかのような音がして、扉が閉まる。




は扉に背をつけたまま、ずるずると座り込んだ。
信じられない。『ごめんな』だなんて、あんな寂しそうな声で言うなんて。

目から零れる滴が傷口に触れる。
ずきずきした痛みを頬に感じながら、は震える指先を眺めた。


『ごめんな』だなんて。苦労だなんて。


謝るのは自分の方だ。とは思った。
シリウスのことを最初から信じていれば、こんなことにはならなかった。
少しでも「本当に?」と問いかけることさえしていれば、違う結果になっていたかもしれなかった。



「さあ、立ちなさい。
 泣くのはお止しなさい……に笑われますよ」

「マ、クゴナガルせん、せい、」



のマントと杖を持って、マクゴナガルが立っていた。
はそのしゃっきりとした女性にしがみついて、今度こそ、声を上げて泣いた。


ごめんなさい、ごめんなさい、シリウス。
わたしではあなたを、助けられない。



















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