家、という場所。
BEHIND THE SCENES : XIII.
借りていた部屋は、そのまま残っていた。
家賃や管理費をすべてグリンゴッツからの自動引き落としにしていたからだろう。
家具も、本も、服も、すべて残っていた。
わたしは窓辺に歩み寄って、カーテンを開けた。
陽は落ち、差し込んでくるのは薄い月光。
杖灯りを灯し、本棚をさぐる。
スネイプに借りた本なら、自分では選ばないような内容である筈だから、すぐわかるだろう。
一冊一冊、背表紙をなぞる。
変身術の本、妖精の呪文の本、それらの間になぜかマグルのファッション雑誌。
ファッション雑誌を本棚から引き出す。
十年以上昔のファッションは、思わず苦笑が零れてしまうほど懐かしさに溢れている。
ページをめくれば、所々くっついていてパリパリと音がする。
雑誌の真ん中ほどのページを開いたとき、不意にある写真が目に飛び込んできた。
深紅を基調にして整えられたモデルは美しく、一昔前のセンスとは思えないほどだ。
そしてその写真は、黒いフェルトペンでぐるぐると囲まれていた。
鮮明な記憶が甦る。
彼はその時、わたしのアパートに遊びに来ていた。
手土産はどこかのケーキと、マグルのファッション雑誌。
彼が持ってきたのに、それは女性向けの雑誌だった。
そして二人でそれを眺めた。
彼のために特別に濃く淹れたコーヒーを飲みながら。
真ん中あたりのページをめくったとき、彼は目を輝かせてわたしを見た。
指差す写真は、深紅のドレスを着た女性のもの。
こんなドレスを着てみてはどうだろう、と彼は言った。
きっと似合うから。
彼はフェルトペンを握り、その写真をぐるぐると囲った。
きっと似合う、ぜったい似合う、と言いながら。
わたしは眉ひとつ動かさずに彼を見ていた。
いつ着るのかとか、そういうことは聞かなかった。
彼がどういうつもりで言っているのかはわかっていたからだ。
着れたらいいな、と思った。
ずる賢くて、すこし卑怯なわたしには、きっとリリーの時のような無垢な白は似合わない。
真っ赤な、燃えるような色こそ、きっとわたしたちにふさわしい。
それはあの悲劇の日よりもわずかに前の出来事。
叩きつけるように、雑誌を閉じた。
十二年分の埃が、部屋中を舞う。
この記憶は、あまりに辛すぎる。
結婚だって意識していた。
憎まれ口を叩きあいながらも、わたしは確実に彼を愛していた。
どうして。
どうして今になって。
雑誌を傍らへ置いて、再び本を探す。
今度は他のものに目を遣ることなく、スネイプの本だけに意識を集中して。
黒い皮の背表紙。表題は無い。
他の本よりも突出した古さを醸し出すそれを手に取ると、少しだけページをめくる。
みっしりと細かい字で埋め尽くされたページは、とても学生の蔵書とは思えない。
しかし、当たりだろうと検討がつく。誰であろうスネイプの趣味なのだから。
その黒い本と雑誌を手に持ち、わたしは立ち上がる。
急がなければ、警邏の時間に遅れてしまう。
自分がわからない。
どうしてこの雑誌を細かく破ってしまうことが出来ないのだろう。
あの頃の思い出に未練があるから?
あの頃、自分を愛してくれた男を、忘れられないから?
どうして今になってそんなことを思う?
どうして今になって。どうして。
目を瞑り、踵を軸にしてくるりとまわる。
目指すのはホグワーツ。正門の前。
わたしと彼が、出会った場所へ。
*
「遅い」
自分が地面の上に立っていることを確かめて、わたしは目を開けた。
真っ先に目に入るホグワーツの門と、黒いローブのスネイプ。
吸魂鬼たちがわさわさと寄ってくる。
「まだあと2分くらいの余裕はある筈よ」
杖を振り、守護霊を呼び出す。
「そうではない」
いつもの様に吸魂鬼たちを追い払おうとしたとき、スネイプがわたしの腕を握った。
何事だろう。胃のあたりにずしんと重いものが襲い掛かる。
「――奴だ」
奴、って、ことは?
「奴が出た。グリフィンドール塔への侵入を図ったようだが、
"太った婦人"がドアを開けなかったことに腹を立て、"婦人"を破壊した」
「…………うそ、でしょ…?」
聞きたくない。
「嘘なものか。幸いなことに人的な被害はないが、いつまた同じことが起こるともわからん。
生徒たちは大広間に一晩避難させる。全教員は校内を捜索せよとの事だ。
お前は吸魂鬼たちに指示を出せ。それからハグリッドと共に森の捜索に当たれ」
「……わか、った。
森が終わったらホグズミードの方へも巡回しておくわ」
うそだと言って。
どうして今日なのか。何を考えて行動しているのか。
わたしにはわからない。
どうして今日でなければいけなかったのか。
どうして。どうして。
答えてくれる相手は、いない。
杖を振り、吸魂鬼たちを呼びつける。
大きな鷹はわたしの肩に止まるが、重さは感じない。
スネイプは去った。
早足で校内へ戻っていく。彼の受け持った場所を捜索しに行くのだろう。
「吸魂鬼たち、よく聞きなさい。ブラックが現れたわ。
それでもお前たちが敷地内に入ることは許しません。
一分の隙もないよう、包囲しなさい。ネズミ一匹通さないように」
鷹を駆り、吸魂鬼たちに指示を与える。
正門から出入りするとは思えないので、周囲を重点的に包囲するよう。
ずるずるとボロ布を靡かせ、吸魂鬼たちが滑るように移動していく。
役目を終えた鷹がわたしの肩にとまり、嘴で髪を啄ばむような動作をしてから、消えた。
「!」
「ハグリッド……」
芝生に足を踏み入れたとき、反対側から馴染みの声が聞こえた。
顔だけで振り返ると、大きな体を揺らしてハグリッドがやって来るのが見えた。
足元にはファング。大きな、犬。
「ヤツめ、あのイカレ野郎!とうとう城に入りやがった!
お前さんは俺と来てくれ、森を調べるぞ」
わたしは頷いた。
ファングが甘えた声でわたしの足に擦り寄る。
「いくらお前さんでも森の生物たちはちっと手に負えんかもしれんからな…
奥へは俺が行こう。お前さんはファングと一緒だ。
入り口から浅いところをぐるっと見てまわってくれ」
わたしは頷く。
ハグリッドは悪態をつきながらのしのしと森へ向かう。
小走りでも追いつけず、わたしはハグリッドの背中を走って追う。
「なんだって今日なんだ…そう思わんか?え?
ジェームズとリリーが死んじまった日だってのにアイツめ、よくもまあ!
悔しくないか、俺は悔しいぞ。ハリーの気持ちも考えてみろ!」
そして、森へ。
*
シリウス・ブラックは隠し通路を走っていた。
影のように隠密に、影のように俊敏に。
足の裏の肉球が崩れかけた通路を踏みしめる。
暴れ柳は、今ごろ再び動き始めたことだろう。
彼は叫びの屋敷に向かっていた。
敷地内には居られなかった。
校内の大規模な捜索が行われているだろうと予想がついていた。
無我夢中だった。
決して、"婦人"を痛めつけたいと望んだわけではなかった。
しかしペティグリューの名前を出された途端、理性が飛んだ。
獣の長い舌を垂らしながら、彼は走った。
学生時代に何度も何度も通った懐かしい通路を。
一度、・を連れて通ったこともあった。
何の話をしていたのかは忘れたが、彼女が叫びの屋敷の内部に入りたいと言ったのだ。
まだ『時計』はプレゼントしていなかった頃だから、付き合い始めてまだ日は浅い時期だろう。
いつも堂々としていた彼女が、少し怯えたように自分の制服の裾を握っていた。
崩れやしないし、ゴーストもポルダーガイストも出ない、と自分は彼女に言った。
怖がるなと口では言いつつも、内心ではもっと怖がって欲しいと思っていた。
そしてもっともっと自分を頼って欲しい。すがり付いて欲しい。
泣いて欲しいとまでは望まないが、涙声を想像すると堪らなかった。
結局、彼女はものの数分で雰囲気に慣れてしまい、ひとりで歩き出したのだが。
彼は屋敷の中へ飛び込むように入っていった。
あの頃と変わらず、床板や椅子などは大破している。
埃が積もった床を見下ろしながら、肉球の形に跡が残っているのに気付いた。
万が一ここを捜索された場合に、人の足跡があってはマズイ。
自分の足で歩きたい気持ちをぐっと抑え、彼は犬の姿のまま二階へ向かった。
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