少女の眼差しは、思わず背筋がヒヤリとするほど母親にそっくりだった。
BEHIND THE SCENES : XLI.
シリウス・ブラックは、薄暗い、狭い、おまけに埃っぽい、という場所に押し込められていた。
こんなに悪条件の揃った物件は不動産屋をいくら回っても出会えないほど稀少なものだろう。
だからといって、そんな場所を自ら志願したわけではない。
それならいっそプライドをかなぐり捨ててでも明るい庭に設えられた犬小屋に住んでやるくらいだ。
絶海の孤島にそびえる監獄、アズカバンにおける最初の脱獄囚であり、
また12人のマグルと1人の魔法使いを殺した凶悪犯罪者として名高い彼は、
わずか12歳にも満たない少女に蹴飛ばされた結果として、この劣悪な環境に押し込められたのだった。
学生時代は『上は40、下は10』とどこかの漫画に出てきそうなほどの守備範囲を誇った彼が!
白状しよう、シリウス・ブラックはあの少女に逆らえる気がまったくしない。
「で、何しにきたの」と言って彼に投げて寄越した視線は、息の根を止められそうなほど冷たかったのだ。
ああ、どうして少女はこんなにも母親の姿形をそっくりそのまま受け継いでしまったのか。
それは対シリウス・ブラック用にと神(もしくは偉大なるマーリン)がお造りになったのであろうか。
彼が、グリフィンドール塔女子寮、とある一室のとあるベッド下に、
トランクや羊皮紙の切れ端やホコリの塊などと一緒に“お片付け”されてしまってからほぼ1日が経過した。
「――ねえ、何か動物のにおいがしない?」
そして彼にとって最大のピンチが訪れたのである。
問題の発言をしたのはロミルダ・ベインという女子なのだが、あいにく彼の知ったことではない。
問題にすべきは、彼女の鼻が、彼やの予想を裏切るほどに高性能だったことだ。
「そう?ロミルダの気のせいじゃない?」
「でも私、においには敏感なのよ!
ねえ、は何かにおわない?」
におう。きっとフレーバーな意味ではなく、スメルの意味で言われているのだろう。
彼の贔屓の国のひとつである日本風に言うなら、匂うのではなく臭う、だ。
「仕方がないじゃないか!」と彼は心の中でロミルダ・ベインに反論した。
この半年間、アズカバンを囲んでいた北海の塩水を別にすれば、水浴びなどは一度もしていないのだ!
彼はがうまくフォローしてくれることを期待した。
気のせいじゃない?で通すにはロミルダ・ベインの鼻は利き過ぎる。
「えっと、あ……も、もしかしてコレかなあ!?」
みしり、と、彼の頭上で軋んだ音。
きっとが飛び上がったりしたのだろう。
彼はがうまくフォローしてくれることを、強く強く期待した。
たとえば森で野良犬と遊んだとか、その犬はとってもお行儀がよかったとか。
「う、うちの実家で飼ってる犬がよく咥えて遊ぶタオルなんだけど、
クリスマス休暇のときに間違えて持ってきちゃったみたいで!
えーと、えー…2ヶ月もトランクに仕舞ってたから、腐っ…たわけじゃなくて、」
もしシリウス・ブラックが人間の姿をしていたら、
真上の少女に「バカじゃないのか?」と言ってしまっていたかもしれない。
冬にタオルが腐るわけがないじゃないか!
仮に腐ったとして、どれだけベチャベチャなものを放っておいたんだ!
「の家は犬を飼ってるの?」
「そうそう!黒くて、大きくて、実はクマなんじゃっていう感じの…
ま、まあ番犬みたいなもんかな?バカだけど!」
年甲斐もないのは重々承知のうえで、諸君に問う。
泣いてもいいだろうか?
犬の姿でなければ、シリウス・ブラックは目頭を押さえてしまっていたかもしれない。
番犬まではまあ、許容範囲だ。しかし、しかし、あんまりだ!
こんな状況になってしまったのはひとえに自分のせいだと理解している。
自分の慢心が招いた事態なのだと、誰よりも強くわかっているのはこのシリウス・ブラック以外に居るまい。
だから真実が知られたとき、バカだと罵られることは覚悟していた。
むしろそうしてくれと頼んだっていい。(変態的な意味ではない!)
それでも、こんな風に「おバカ」扱いされるだなんて、あんまりだ!
「ねえ!そのワンちゃん、なんていう名前なの?」
「な、なまえっ?」
ああ神さま、もしくはイギリスの誇る偉大なる魔法使いマーリンさま。
番犬でもバカでもいい、だからせめて、カッコいい名前をつけるよう、に天啓を与えてください。
彼は祈った。
マーリンが年寄りすぎてダメだというのなら偉大なるゴドリック・グリフィンドールでもいい。
だからどうか、どうかあの母親似の少女に、母親よりはマシなネーミングセンスを与えて下さい。
「ス、スナッフル、ズ!」
そして彼の祈りはあっさりと棄却されたのである。
ガッカリして悲しくなるというよりは、もういっそ笑いがこみ上げてきそうだった。
、お前の娘は、お前にそっくりだ。
だから将来、俺みたいなダメな男に引っかかるかもしれない。
そうならないように、ぜひともすぐ横で眼を光らせていたいのだが、お前は許してくれるだろうか?
「スナッフルズ?変わった名前ね」
「で、でしょ!?あの、ほら、おバカだから!
だからどこにでも鼻つっこんでフンフン言ってて」
12歳というのは、30歳をとうに超えた彼に比べればまだまだ子供。
子供たちの甲高い笑い声は個別に聞くと可愛らしいものだが、
それが集団になるとどこか耳障りで、しかしどこか小鳥の集会のようで。
「そのワンちゃん、とってもかわいいわ!
夏休みにの家に遊びに行ってもいい?」
「も、もちろん!どんどん来て!」
夏休み。その頃には、決着が付いているだろうか。
そうであればいい。いや、そうするために彼はあの監獄を脱出したのだ。
いま寝そべっているところは、暗いし、狭いし、埃っぽいが、それでもあの監獄よりはマシだった。
生きている人の声が満ちている。明るい未来の話をすることが許されている。
シリウス・ブラックは目を閉じた。
夏の日差しの下で、とが庭に水を撒いてはしゃいでいる光景を思い浮かべてみた。
そこに自分が混じれるかどうかは、今後の頑張り次第だ。
彼は自分を鼓舞した。
ハリー、、、リーマス。
まだこんなにも、自分には愛すべき相手が居る。
そのためならば、バカと言われようが駄犬と罵られようが、耐えてみせよう。
ただしロミルダ・ベインが遊びに来ても、犬の姿でスナッフルズを演じることは断固拒否する構えである。
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