優しい声が、月から、響く。











  BEHIND THE SCENES : XVII.











リーマス・ルーピンは事務所の隅で膝を抱えて座り込んでいた。

まだ陽は高く昇っているのにも関わらず、
彼の『獣』は早くも辛抱堪らない様に内側から彼を圧迫していた。

『其れ』を鎮めることは最早諦めた。
彼に出来るのは、ただただ、朝日が差し込むのを待つことだけだった。


彼は目を閉じて座っていた。
額を膝に乗せ、心臓の音に耳を澄ませる。

そうしている内に、眠っていた。















夢の中で、リーマス・ルーピンは少年時代に戻っていた。
彼は現実の世界と同じような姿勢で、医務室のベッドの上で蹲っていた。

体中のいたる所から、痛みと熱が彼を苦しめようとしていた。
彼は両手で耳を塞いでいた。世界中から遮断されようと必死に抵抗していた。
現実がこんなに苦しいのなら、何も聞きたくないし、何も見たくない。


不意に、何か暖かいものが彼の手を包み込んで、そっと外した。



「リーマス」



露になった耳に届いたのは、の落ち着いた声だった。
いつの間にそこに居たのかは分からなかった。気配も何もなかったはずなのに。

リーマス、と再び彼女が彼を呼んだ。
彼は何も聞こえなかったと自分に言い聞かせて、更に身を小さくした。


それは満月の翌朝だった。
彼の親友たちは、今ごろマクゴナガルに叱られている頃だろう。
度を越しすぎた悪戯が、セブルス・スネイプの命を危険に晒してしまったのだから。


彼は自分という存在をこれほど疎ましいと思ったことはなかった。
結局は危険なモノとしてしか扱われない運命なのだから。
それなら希望なんて与えられなければよかったのに。



「あのね、あたしは誰かと話すときに『この人は人狼じゃないだろう』とかさ、
 『吸血鬼じゃないだろう』とか『巨人じゃないだろう』とかそういう事は考えないのよ。
 あたしの言葉が通じるから、あたしの言葉に返事をしてくれるから、
 だから仲良くしたいと思うのよ。リーマスのときだって、そう思った」

「……そういう事は、みんな言うよ。
 僕がどういうモノであろうと、僕は僕じゃないか、って。
 そしたら次の日から、離れて歩くようになるんだ。みんなそうだ」

「じゃあ、あたしは?」



彼のベッドに腰掛けながら、は言った。



「あたしは?リーマスの事情を知ったけど、こうして傍に座ってるわよ。
 貴方は貴方。人狼であろうとなかろうと、関係ないこと。
 だってそうでしょ?リーマスはリーマス以外の何かになりたいの?」

「…………僕、は、」



(僕は、きみのように、なりたかった)


彼にとって、ジェームズとシリウスは眩しい存在だった。
こう在りたいと思う正にその姿だった。
明るくて、優しくて、人気者で。

だから、彼らの心を射止めたリリーとは、彼にとって特別な存在だった。



「あたしは今のままのリーマスで良いと思う。
 だって、友達になれたでしょ?ありのままの貴方と、あたしと」

「だから怖いんだよ。友達になれたから、傷つけたくないんだ。
 だって僕は……いつ…きみに牙を剥くか…わからないんだから…」



彼は虚ろな視界で、自分の腕に出来た傷を見つめた。
もしこんな傷を彼女たちに与えてしまったら?
こんなにも大切にしたい人たちに、嫌われてしまったら?



「噛めるもんなら、噛んでみなさいよ」



は彼の顔をぐいと上げさせ、その瞳でしっかりと彼を捉えた。
視線の逃げ場は、どこにもなかった。彼はそのまま彼女と見つめあう。



「出来るもんならやってみなさい。返り討ちにしてあげるから。
 言っておくけど、あたしもリリーも、そんなにヤワな女じゃないの」

「……………うん…知って、る」

「だったらわかるでしょ?あたしがリーマスを好きだと思うのは、
 そうやって色んなことに悩まされて傷付いてきた貴方だからこそなのよ。
 もしリーマスがシリウスみたいな性格だったら、ぜったい友達になんてならなかった!」



は言い切った。



「あんなさ、子供みたいな癇癪持ちでさ、金遣いは荒くてさ、
 もしリーマスがあんな男だったら……ど、どうしよう……」

「……なんだい、それ…」



力強い始まり方をした割には不安そうな結論に、彼は思わず吹き出した。



「なんだい、それ…は僕をなぐさめに来たんじゃないの?」

「まさか!リーマスはあたしに同情してほしいの?
 違うでしょ?あたしはね、スネイプの代わりに謝りに来たわけよ」



そう言うと、は立ち上がり、彼の前で深々と頭を下げた。
彼は慌ててそんな彼女を止めさせようとしたが、彼女は構わずに言葉を続ける。



「本当にごめんなさい。貴方を、貴方が必死で守ろうとしたものを、
 もう少しですべてご破算にしてしまうところだった。
 彼の友人として謝るわ。スネイプを止められなくてごめんなさい。
 あたし、彼の気持ちも、理解できないわけではなかったから…
 だけどあのコウモリ男に言ってやるべきだったんだと、今は思う。
 『そんなことしたら、アンタの嫌いなポッターと同類になるわよ』って」



ごめんなさい、ともう一度言い、彼女は窺うように上目遣いで彼をちらっと見た。

彼の傷は未だにじくじくと痛むし、涙のせいで瞼は重いし、
さっきまでと何が違うかと言われたら何も変わらないのだけれど、
それでも確実に何かが違っていて、彼はそれを見つけたくて再び目を閉じた。

この気持ちは、なんだろう。
真正面から受け止めてもらえた、この気持ちは何だろう。



「きみは……」



ありがとう、



「きみは、ばかだよ、



今さら気付いたの、と言って彼女は朗らかに笑った。

ねえ、僕はきっとこれだからきみが好きなんだと思う。















「あら、起きちゃった」



リーマス・ルーピンが懐かしい夢から醒めたとき、
彼の目の前には先ほどまで少女だったはずのの姿があった。

差し込んでくる光は紅く、既に陽は落ちたようだと彼は思う。
ぼんやりと頭を振ると、掛けた覚えの無い毛布が体に掛かっていた。



「そんな所で寝てたら、冷えると思って。
 起こすつもりは無かったんだけど、ごめんなさい」



彼女が微笑んだとき、彼はその顔に時間の経過を感じた。
再会したときは、彼女はどうしてこんなに若々しいのだろうと思った。
今ではその時に比べて、隈は濃くなり、髪のクセも目立ってきた。



「食べ物は机の上に置いておいたけど、他に何か要るものがある?
 まだ見回りまで時間があるから、わたしに出来ることがあれば言ってちょうだい。
 あ、でも、薬が欲しいとかそういう用ならスネイプにね」



彼は何を言うべきか分からなかった。
ありがとうと言うべきなのは分かっていたが、
何か他に伝えなければいけないことが残っていたような気がした。



「………………」

「リーマス?」



やはり分からない。
きっと懐かしい夢を見た所為だろう、と彼は自分の思考を打ち切った。



「……きみはもうすっかり母親だね、



彼女はきょとんとした顔をした。



「そうよ、今さら気付いたの?女っていうのはね、子供を産んだ瞬間に、
 『命ある者みな兄弟』という真理を悟るものなのよ」



彼女は朗らかに言い、彼は苦笑で応えた。
あの頃からずっと、彼女はまるで変わっていないのだと思った。

命ある者みな兄弟。
ならば彼と彼の『獣』も兄弟なのだろう。
月に一回、必ず喧嘩をする兄弟。



「おやすみ、リーマス。
 そして週明けからはわたしをゆっくり休ませてちょうだいね」

「……でも、ハリーのクィディッチを見れないのが悔しくて、眠れないかもしれないな」



彼は言った。駄々をこねる子供のように。
きっと彼女は、幼い娘をあやしていた時のように優しく彼に語り掛けてくれるのだろう。

母親になった女の声は、癒えることのない傷を抱えた男に、ゆっくりと染み込んでゆく。



















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