夢だろうか?
BEHIND THE SCENES : XX.
シリウス・ブラックは、観客席の最上段、誰も座っていない席に伏せていた。
そうして自分の名付け子が飛んでいる姿を見守る。
ハリーはなんと軽やかに飛ぶんだろう。
この天候、あの矮躯なら吹き飛ばされてもおかしくないのに、それでもハリーは飛んでいる。
きっといい選手になるぞ、と言っていた彼の父のことを思い出した。
見てるかジェームズ、ハリーはあんなにも立派になった。
シリウス・ブラックは立ち上がり、少し考えた後、そのまま競技場の外へ飛び降りた。
予想したほどの衝撃は無く、改めて動物の身体の身軽さに感謝した。
彼はそのまま矢のように走り抜け、隠れ家である森へと突き進んだ。
誰かに、しかもハリー本人に目撃されていようとは、露ほどにも思わなかった。
森の入り口へ辿り着くまでには数秒しか掛からなかったからだ。
いや少なくとも、彼には数秒だったように思われた。
森へ足を踏み入れたとき、そこら中に吸魂鬼たちが徘徊していることに彼は気付いた。
何が起きたのか、彼には咄嗟に理解できなかった。
まさか自分が森に潜伏していることがバレたのだろうかと思った。
しかし、そういうわけではないらしい。
吸魂鬼たちは、何かを探すように木々の合間を縫って歩いているが、
すぐそこで立ち尽くしているシリウス・ブラックの姿には見向きもしない。
一体何を探しているんだろうか。
そもそも吸魂鬼たちが敷地内に入ってきていいのだろうか。
なんだかよく分からないが、ひとまずいつもの場所に戻ろう。
そう決心した彼は、次の瞬間、信じられない物を見た。
力強く羽ばたく銀色の鷹。
見間違えるはずがない。
それは・の守護霊だった。
シリウス・ブラックは足を止め、目を疑った。
鷹は吸魂鬼たちに襲い掛かり、その内の幾体かは『消滅』させられていた。
彼女は闇払いだった。(彼が知っているのは見習い期間の彼女だけだが)
だから吸魂鬼たちを消滅させる手立てを知っていても、なんら不思議なことはない。
それでも、これは夢かと、彼は自問する。
つまり目の前の光景が事実ならば、
彼を捕獲するために遣わされたそれらを処分している、というのは、
彼にとって利益のある行為であり、魔法省側には不利益しかない筈なのだ。
シリウス・ブラックは再び駆け出した。
このおびただしい数の吸魂鬼を相手に、いくらといえども苦戦しないはずがない。
闘っている間なら、吸魂鬼たちに気を取られ、自分には気付かないかもしれない。
だから、ほんの一目でいい。その姿を見たいと、そう思ったのだ。
数日前のハロウィンに逃げ回った時のように、
彼は前足と後足とを交互に動かして森の中を走った。
微かに残った肉球は、しっかりと土や木の根を捉える。
人の姿で歩きたいという願望は、今この時だけは綺麗に忘れていた。
そして荊のようなトゲのある藪を抜けたとき、彼は『その』光景を見た。
明るい栗色の髪を胸のラインまで伸ばし、
耳の下あたりからゆるやかに波打たせている。
開かれた大きな瞳には、驚きと絶望とがない交ぜになっている。
その細く白い手に握っているのは、彼と一緒に買いに行った白樺の美しい杖ではなく、
学生時代に持っていた、茶色の、どちらかといえばありふれたデザインの杖。
紅い唇には歯形が少し残っていて、頬はそれと同じ色に上気している。
これは夢かと、彼は思った。
それは記憶に残っている・の幼さを残した姿とは違っていた。
面影はあちらこちらにあったけれど、彼の目の前には立っているのは、女だった。
の唇が何かを言いたげに開いた。
彼はくるりと踵を返し、立ち去ろうとした。
バレた。
もうダメだ。
完全に、バレた。
そう思ったのだが、制止の声は聞こえてこない。
彼女の声が聞けるかと少し期待していた彼は、どうしたのかと訝り、足を止めた。
そして目に映ったのは、地面に膝をついたと、
その腕を掴んで今にも『キス』をしようとしている1体の吸魂鬼だった。
彼がその吸魂鬼に飛び掛ろうとしたとき、の鷹が戻ってきた。
そして、狼藉を働いた罰だと言わんばかりに、その吸魂鬼の身体を貫いた。
耳を塞ぎたくなるほど醜悪な悲鳴を発しながら、吸魂鬼は消滅した。
はその光景を見届けたあと、ゆっくり目を閉じ、ばたりと倒れた。
辺りは静まり返った。
うようよしていた吸魂鬼たちはどこへ行ったのだろう。
自分の持ち場へ帰ったのか、それとも校内の別の場所へ繰り出していったのか。
シリウス・ブラックにはそのどちらでもよかった。
彼はただひたすらに、意識を失った(ように見える)・を見ていた。
競技場の方から、ざわめきが聞こえた気がした。
もしかして吸魂鬼たちはそちらへ行ってしまったのだろうかと、彼は一瞬だけ考えた。
囚人という名の餌が与えられているアズカバンから引き離され、
常に空腹のまま学校周辺の警備にあたるということは、やつらにしたら拷問に近い。
だから試合で熱狂している生徒たちに惹き寄せられて敷地内に侵入し、
だから・はそれを排除しようと闘っていたのかもしれない。
彼の出現というアクシデントに気を取られ、それも失敗になってしまったが。
これは夢だろうかと、何度目かの同じ疑問を自分に投げかける。
彼は一歩踏み出した。
が目覚める気配はない。
もう一歩近寄る。
あの時、叫びの屋敷で嗅いだのと同じ、少し甘い香水の芳香が彼の鼻をくすぐった。
一歩、もう一歩。
そして気付けば、彼女の蒼い顔をすぐ下に見下ろしていた。
彼は鼻を寄せ、彼女の口元に持っていく。
彼女の浅い、断続的な呼吸は、彼に危機感を覚えさせた。
意を決し、彼は人の姿に戻る。
「――――――」
愛しい名前。
彼は脱獄以来、というよりは逮捕以来、初めてその名前を声に出した。
いつもいつも、心の中で唱えるだけで済ますか、喉の奥でつっかえてしまっていた。
「」
もう一度。
彼女の、雨のせいで額にはりついてしまった髪を、そっと退かしながら。
かさかさに乾いた彼の指が、その水分を吸う。
額は、驚くほど温かかった。熱いと言ってもいい。
「」
もしこの瞬間に彼女が目覚めてしまったら、どうするのだろう。
やはり逮捕しようとするのだろうか。
それとも怒ってくるだろうか。泣いてしまうだろうか。
殴られるだろうか。抱きしめてくれたりは、しないだろう。
とにかく、こんな森の奥で倒れたままにしておくわけにはいかない。
彼はそう決心し、彼女の膝の裏と背中とに器用に腕を差し入れ、持ち上げた。
正直に言って、こんなに痩せてしまった自分に出来るだろうかという不安があった。
雨の中、たった独りでどのくらい闘っていたのか、着ているローブはじっとりと重い。
それでも彼には、容易く抱き上げられたように感じられた。
さっきまでよりも近くなった顔を、森の入り口へ歩きながら、ゆっくりと眺めてみた。
眉の形や肌の美しさは、常から化粧をするために整えられている、という印象を彼に与えた。
ふと、左手はおろか右手にも彼女が指輪をしていないことに気がついた。
彼は少し笑った。少し嬉しかった。
なら、彼女はまだ結婚していないのかもしれない。
もしそうだとしたら、それは何故だろう?
仕事に明け暮れていたのだろうか。それとも縁が無かったのだろうか。
彼のことを想っていたという可能性はどれだけあるだろう?(それが愛情なのか憎しみなのかはともかく)
また彼は、彼女のローブのポケットから、鋳潰した金のような色をした鎖が垂れていることにも気付いた。
好奇心をそそられ、彼はそれを引っ張り出した。
彼のことを想っていたという可能性を、期待してはいけないのだろうか。
出てきたのは、彼が彼女にクリスマスプレゼントとして贈った『時計』だった。
*
森の入り口の、ハグリッドの小屋に近い辺りの大樹の根元に彼女を降ろし、
その少し離れた所でシリウス・ブラックは再び体を伏せていた。
日が沈む前に、クルックシャンクスがいつものように彼のところに遊びに来た。
彼はクルックシャンクスに彼女の『時計』を持たせると、
リーマス・ルーピンにそれを届けてこの場所へ案内するように言いつけた。
リーマスなら、あの『時計』が彼女の持ち物だと気付くだろう。
もし彼女の姿が見えないことを心配していたら、そのメッセージに気付くだろう。
それからどれほどの時間が経っただろう。
もうとっぷりと日は暮れている。
さすがに彼にも寒さが堪えてきた。
しかし未だには目を覚まさない。
リーマスは気付かなかったのだろうか?
それともクルックシャンクスに何かあったのだろうか?
いっそ、城の玄関前まで運んだ方がいいのだろうか。
そうすれば少なくとも朝が来てフィルチが鍵を開ける時には気付くはずだ。
彼がそう思案し始めた時、暗がりを進んでくる気配に気付いた。
「…………クルックシャンクス、本当にこっちかい?」
不安そうな、掠れた声が、彼の獣の耳に届く。
どうして聞き間違えようか。リーマス・ルーピンだった。
これでもう安全だ。あとは城に帰って、温かくして、ゆっくり休めばいい。
声に出さずに彼女にそう語りかけると、彼は体を起こした。
そうだ、ハリーにクリスマスプレゼントを贈ろう。
12年間分の想いを込めて。
何がいいだろう?やはり箒だろうか。
それにしても、今日の試合はどうなったのだろう?
そうして、彼は森の奥へと戻って行った。
← XIX
0.
XXI →