状況の切迫さは、どこも同じだ。











  BEHIND THE SCENES : XXXIX.











シリウス・ブラックはいま逃亡生活においてはありえないほどの幸福感に絆されていた。
かつての恋人がたったひとりで生んだ子供が、ようやく彼の方を見てくれた。
数日置きに届く救援物資は、実際はしもべ妖精が作ったものだと理解はしていても、
まるで我が子が用意してくれた手料理のように感じられる。ああ困った、飯が美味い。

彼はその日もクルックシャンクスの姿を見るや否や人間の姿に戻った。
人間の手で小さなバスケットを受け取り、人間の手でその中の食べ物を掴み、
人間の手でそれを口まで運び、人間の口で噛み、飲み込み、胃に納める。
獣の姿では果たすことのできない繊細な動作をもって食事をすることが、
少女に対するせめてもの礼儀のような気がするのだ。

彼はバスケットを受け取り、さっそく開いた。
なにか手紙かカードが入っていたりはしないかといつも期待するが、いつもガッカリする。
しかしこの日は違った。蓋を開いてすぐ目に入るのは敷き詰められたパン類ではなかった。


魔法省、ブラック脱獄囚に吸魂鬼の接吻を許可


入っているのがパン類だけではありませんようにという彼の願いは叶った。
そして同時にそれが新聞の一面大見出しという現実は彼の願いを潰したとも言える。

シリウス・ブラックは預言者新聞のそれをバスケットから引き抜き、皺を伸ばした。
ざっと目を通す。





魔法省は、本日の閣僚会議において、未だ逃走中であるブラック脱獄囚への制裁措置についての決定を行ったと発表した。 同省大臣のスポークス魔ンは次のように語った。
「本日の閣僚会議において議題に上がったブラック脱獄囚については、捕獲し次第、吸魂鬼による『接吻』の施行を 原則許可する方針を固めた次第であります。いかようにも早計であるという保守派議員の反対は僅かで、 ほぼ満場の一致であることを明言致します」
記者団から「これまでに『接吻』の施行は検討されていたのか」という質問がされると、
「これまでに検討されていた制裁措置については多岐に亘る議論がなされており、 この場で逐一どのような案があったかと申すのは控えさせていただきます」
また「この決定への圧力があったと言っているように聞こえるが」という質問が及ぶと、
「魔法省はその決定のすべてにおいて公平、公正を期しており、 圧力による政策決定の事実はありません」
とした。元・魔法法執行部の専門家に話を聞くと「魔法省の内部は腐敗し






彼はグシャリと新聞を握り潰した。
吸魂鬼の、『接吻』。

何をいまさら、という思いもあった。
吸魂鬼たちはきっと、魔法省からの許可があろうがなかろうが、獲物を捕まえてしまえば魂を喰ってしまうだろう。
数ヶ月前のの時が良い例だ。
彼女は吸魂鬼たちを監督する立場であったのにも関わらず、あやうく喰われかけていた。
それは彼相手であっても例外ではないし、むしろ美味しく頂かれてしまう確率のほうが高い。

そろそろ彼も動くべき時が来たのだろうか。
切り札ともいえる『接吻』の決定がなされた以上、このまま待ったところで状況が改善されるとも思えない。
それならばむしろこちらから出向いて掻きまわしてやったほうが、与えられる混乱は大きいはずだ。


シリウス・ブラックはバスケットに手を入れ、無造作にブリオッシュを掴んだ。
握り潰した新聞は燃やせば暖を取るいい材料になるだろう。
いっそこのパン類を温めなおすのも一興だ。

クルックシャンクスは不満そうに「にゃあ」と鳴く。
腹が減っているのかと思ってブリオッシュの欠片を投げてやると、
クルックシャンクスはひどくバカにした様子で尻尾をぱたりと動かした。



「わかった、わかった。話があるんだろう?
 少し待て。今このブリオッシュを食べきってしまうから」



彼は柔らかいその小麦の塊を口に放り込み、零れたカスを払い落とした。
ああ勿体無い、せっかくあの子が自分のために選んでくれたものなのに。
しかしいつも食べ物ばかりで、飲み物をくれないのは何か意味があるのだろうか。
パン系ばかり食べていると口の中がもそもそするのだが、泥水を啜って後味を台無しにするのも勿体無い。



(――それで、どうした?)

(ネズミ、逃げた。死んだふり)



黒い獣の姿になって、彼はクルックシャンクスに問いかけた。
その答えはある意味で予想通り、ある意味で予想外だった。
逃げた、というのはわかる。死んだふりとは、どういうことだ?



(自分、噛んだ。血が出た。死んだふり)

(……そうか。つまり、お前に食われたように偽装したんだな?)



クルックシャンクスはその切れ長の瞳を細めて彼を見た。
これは肯定の表情だ。否定ならもっとこちらをバカにしたような顔をする。



(ハリーたちはすっかり騙されたのか?
 誰かひとりくらい、逃げていくあのネズミを目撃した人間は――)

が見た)

が?なんだ、なら平気じゃないか。
 あの子からハリーたちに説明してもらえば――)

(できない)



出来ない?

シリウス・ブラックは犬の脳で人間の思考をする。
出来ないとは、どういうことだ?
「走っていくネズミを見た」と言うだけのことに何の不都合がある?



は喧嘩中)

(喧嘩?あの子が?)



それはあの少女に最も似つかわしくないような言葉に思えた。
あの子が、あの優しい子が、ハリーたちと喧嘩をした?



(ならあの子は…ひとり、なのか?)

(……ひとりじゃない)

(そ、そうか。ならいいんだ)



彼はほっと息をついた。
ハリーとその友達2人、対、。みたいな喧嘩になっていたらどうしようかと思った。
しかしひとりではないというのなら、ちょっとした内部分裂のようなものかもしれない。



(ドラコ、マルフォイ)

(は?)

(ドラコ、マルフォイと一緒だった)

(…は?)



なんだそりゃちょっと待ておいどういうことだ!
マルフォイ。マルフォイ?ドラコ・マルフォイだって!?

たしかに他寮生とも仲が良いのは、素晴らしいことだ。
しかし、しかしなんだってまたその相手がマルフォイの小僧なんだ。
もっとこう、他に居るんじゃないのか、手頃な感じの、なんというか、ああどう言えばいいのか。



(だ、だめだ!それはだめだ!それだけは許さん!)

(……………)



クルックシャンクスは「そんなこと知るかよ」とでも言いたそうに彼を見る。
ダメだ、それだけは本当に勘弁してくれ。だってきっとそう言うはずだ。

ひとしきり否定のことばを口にして、シリウス・ブラックは少し理性を回復させた。
そうじゃない、いま考えるべきはあのネズミのことだ。



(……それで、あのネズミの居所は?)

(わからない。逃げた、小屋のほう。でも見失った)



小屋というのはフクロウ小屋か、それともハグリッドの住居か。
恐らくはハグリッドの方だろうと検討をつけながら、彼は脳を最速で回転させる。

アレが森まで来ることは無いだろう。
そんな勇気は無いだろうし、実際、森の生き物にパクッとやられるのが目に見えている。
しかしその小屋にいつまでも居つくだろうか?ウィーズリー家に馴染んだときのように?

いや、それならグリフィンドール塔に戻る可能性だって考えられる。
灯台下暗しというのがいかに有効な手立てであるか、彼はハロウィーンの日に身をもって学んだのだ。
しかしグリフィンドール塔を調べるために有効な手段が見つからない。
食べられたように偽装したのなら、クルックシャンクスの行動は大幅に制限されてしまうだろう。
もう他の生徒のペットを食べてしまわないように、と。

だからといって、を巻き込みたくはないのだ。



(……自分で行くしかないな)

(なら、いいもの)



クルックシャンクスはそう言うと、入り口のほうへ引き返していった。
そして何分も経たないうちに咥えて持ってきたのは、
オヅボティキンズだのなんだのと難読な単語がいくつも並んでいる紙切れ。
恐らくはどこかから持ってきて、森の中に隠しておいたのだろう。賢い猫だ。

“いいもの”。ということは、もしや。



(合言葉。1週間分)

(……でかしたぞ、クルックシャンクス)



クルックシャンクスは得意そうに喉を鳴らした。

シリウス・ブラックはヒトの姿に戻り、再びバスケットに手を入れた。
決行はいつにするべきか。生徒たち全員が確実に寝静まったタイミングがあればいいのだが。
興奮して、疲れて、ぐっすり眠ってくれていればこれほど仕事のしやすいことはない。



「いや……クィディッチがあるな」



彼はひとり呟き、何か固い感触のものを掴み上げた。
ファイアボルトはハリーの手元に戻っただろうか?
試合に向けてチームの仕上がりは良好だろうか?

そうと決まれば、まずは腹ごしらえをしよう。
彼はその手にしたものに噛み付いた。

岩のような歯ざわりのロックケーキに、
やっぱりあの子は自分に何か嫌がらせでもしているんじゃないのかと不安がよぎる。



















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