ゆるゆると絞めつけるのは、真綿のような鎖。
BEHIND THE SCENES : XXXVII.
寒い木曜日の夜だった。
そろそろ警備を始めようかと校内を歩いていると、甲冑の影に不自然な影がくっついていた。
そろりと近寄り、杖を構える。
まさかシリウスがこんな所にいるとは思わないけれど、ピーブズであっても厄介だ。
「ふたりとも死んだんだ」
耳に届くのは、少年のかすれた声。
目を細めて見ると、それは親友の忘れ形見である少年だった。
「声が聞こえたからって、父さんも母さんも帰ってこない。
クィディッチ杯が欲しいなら、ハリー、しっかりしろ」
少年は何かを必死で自分に言い聞かせていて、わたしには気付いていない。
わたしはどうすればいいのか解らず、立ち尽くした。
どうしたの?と声をかける資格が、わたしにあるとは思えない。
だからといって無視するなんてことも、できない。
そのうち、少年は立ち上がった。
そして5メートルほど離れたわたしを見つけ、目を丸くする。
潮時か。わたしは口を開く。
「……こんな時間に、何をしていたの?」
「ルーピン先生のところに行っていました」
ハリーは目元をさっと拭い、チョコレートの包み紙をポケットにしまった。
それを見てようやく思い出す。ああ、そういえばリーマスが言っていたかもしれない。
「ああ、思い出したわ。守護霊の特訓を始めたのよね?」
「そうです。………あの、聞いてもいいですか?」
どうぞ、とわたしは言う。
「先生は、吸魂鬼が近付いても何ともないんですか?
僕みたいに、倒れたりとか、そういうことは……」
「ないわ。確かに気分がいいものではないけど」
ハリーは小さく頷くと、俯いた。
何かを言い淀んでいる雰囲気を感じ、わたしは黙ってハリーを見つめる。
本当に、ジェームズにそっくりだ。スネイプが嫌がるのもムリはない。
「僕……聞こえるんです、声が。父さんと、母さんの」
「………え?」
ハリーが顔を上げる。鮮やかな緑の瞳がわたしを見る。
その色は、いつかのボガートのような、新緑の色。
「ヴォルデモートが僕の母さんを殺したときの声です。
僕の命だけは助けてくれって、母さんが言うんです。でもあいつは高笑いして…
それで、今日は父さんの声も聞こえました。僕をつれて逃げろって母さんに言ってた…」
「………………」
リリー 、 ジェームズ
心臓がドクドクと波打つ。
わたしは言葉を返せなかった。息が、詰まる。
リリー、あなたは、ハリーのなかで生きているんだね。
そしてまた死んでしまうんだね。わたしが、間に合わなかったせいで。
「僕、先生はブラックと恋人だったと聞きました」
「………だれ、から?」
「ホグズミードでそういう話を聞いたって、ロンたちが」
わたしは内心で舌打ちをする。
だからあんな場所であんな話をするべきではなかったのに、大臣は何を考えていたんだか。
ハリーはわたしを見ている。わたしの答を待っている。
「……そうね、それは列記とした事実よ。
だからわたしは、ホグワーツに呼び戻されたの。彼に対抗する駒のひとつとしてね」
「じゃあ、先生は…」
「別にあの人の手引きをするつもりはないし、あの人を庇うつもりもない。
わたしには彼との思い出よりもっと守るべき存在が出来てしまったから。
……ハリー、その中であなたは1,2を争うほど大切な存在よ」
僕が?
そう言って、ハリーはわたしを見る。
わたしは甲冑の台座に座り、横に座るようハリーに促した。
「そうよ。ホグズミードでの話を聞いてしまったなら、あの人とジェームズのことも聞いたんでしょう?
ジェームズ、シリウス、リーマス、ピーターで仲良し4人組。
リリーとわたしはそれに巻き込まれたり、たまに巻き込んだり、賑やかな学生生活だったわ」
「…母さんも?」
「意外かしら?リリーはアイドルだったからね、苦労が多かったのよ。
そんな風にして大人になったものだから、ハリーが生まれたときは大騒ぎだったわ。
ジェームズは涙で顔がぐちゃぐちゃだし、リリーはなぜかわたしに抱きついて離れないし…」
ハリーが少し笑う。
「だからね、ハリー、わたしはあなたがとても大切なの。
迷惑かもしれないけど、自分の息子のように思っているのよ。
あなたを傷つけるというのなら、かつての恋人だろうがスネイプだろうが、蹴っ飛ばしてやるわ」
なのにごめんね、ずっとあなたをひとりにさせて。大切に思ってる、そのことはウソじゃないのよ。
たぶん、あなたが生まれた時のシリウスの笑顔も、作り物じゃなかったのよ。
わたしは内心で語りかける。
ウソじゃないの、本当なの。ただの、言い訳でしかないけれど。
「ファイアボルトは絶対ハリーに返す、って約束するわ。
完璧な、新品と同じような状態でハリーが乗れるようにするから、もう少しだけ待っててくれる?」
「…あの、僕……もちろんです」
ハリーはまた、少し笑う。
「僕、先生のこと誤解してました…ごめんなさい」
「『わざわざマグル界から戻ってきてまで恋人の手引きをしようとしてる嫌な女だ』って?
いいのよ、しょうがないわ。状況が状況だものね」
むしろわたしは、憎まれるべき存在なのだ。
親友一家の危機にも間に合わず、真相を知っていたはずの恋人を追いかけもしないで。
現実から逃げて、逃げて、ずっと逃げ回って、最後に娘が出来てようやく逃げられなくなった。
だからわたしは、ここにいる。
「……前の箒、粉々になってしまったんでしょう?ニンバスの…何番だったかしら?」
「2000です。一昨年、マクゴナガル先生が買ってくれた箒でした」
「じゃあ、練習はどうしているの?予備の箒?」
ハリーは首を振る。
「学校の備品を借りてるんです」
「備品って…『流れ星』じゃない。
あんな骨董品に乗ってたら勘が鈍っちゃうわよ!」
もったいない!とわたしが言うと、ハリーは苦笑した。
ニンバス2000は、よほど思い入れのある箒だったのだろう。
それだけ愛されれば箒冥利に尽きるというものだ。
「……ねえ、わたしの箒でよければ使ってみる?」
「でも……いいんですか?」
「骨董品には違いないけどね。ティンダーブラストっていうの。
ニンバスと比べると可哀相な箒だけど、流れ星よりはマシなはずよ」
ティンダーブラストという名前を聞き、ハリーは目を輝かせた。
やっぱり男の子はクィディッチに夢中になるものらしい。
「ティンダーブラスト!僕知ってます!『クィディッチ今昔』に書いてありました。
スウィフトスティックの前モデルなんですよね?
だけどティンダーブラストのほうが、乗り甲斐のある箒だって!」
「ん…まあ、クセは強いけどね。
わたしはそのクセの強さが好きで家から持ち出したの。
どこかに仕舞ってあるはずだから、なるべく早く探してくるわね」
「ありがとうございます!」
いいえ、とわたしは言う。
これがせめてもの償いになるのなら、安いものだ。
「…あの、先生の守護霊はどんな形をしているんですか?」
ハリーが遠慮がちに言う。
わたしは杖を振り、守護霊を創り出す。
「鷹よ。ちょっとアメリカっぽいけど、大きくてカッコいいでしょう?」
「…うわ、ほんとだ…」
そういえばハリーはリリーの姉妹の家で育てられたはずだから、
わたしが女優であることもしっているはずだ。なのにそういう目では見てこない。
ジェームズ似なのか、わたしに興味がないのか、どっちか気になるところだ。
ハリーはわたしの鷹に手を伸ばす。
触れるか触れないかギリギリのところで、鷹は嘴を差し出す。
「僕もこんな風に…かっこいい守護霊を出せるようになるのかな…」
「なれるわよ。リーマスが先生なんだから。
……そうねえ、ハリーの守護霊はきっとバッファローかヘラジカね」
「どうしてですか?」
「女のカンよ」
立ち上がりながら言うと、ハリーが驚いたようにわたしを見る。
そろそろ時間だ。早く警備を始めなければまたスネイプに嫌味を言われてしまう。
先生、とハリーが言う。
「最後にもうひとつだけ教えてもらえませんか?
先生が、どんな思い出で守護霊を創り出しているのか…」
ハリーはグリフィンドールの談話室に体を向けながら、わたしに言う。
幸福な思い出が、守護霊を有体にする。
わたしにとって大切な思い出はたくさんあるけれど、いちばん幸福な思い出は、ひとつしかない。
「……娘がね、はじめて『ママ』って呼んでくれたときの思い出よ」
「え!?け、結婚されてたんですか?」
「いいえ、シングルマザーというやつなの。
……あ、これ、マグルのマスコミには内緒でね?」
わたしが神妙ぶって言うと、ハリーはこくこくと頷いた。
素直なところはリリー似かな。なんて、思ったり。
娘が目を開けたとき、娘が声を発したとき。それらはわたしの中でかけがえのない瞬間だ。
逃げてばっかりでまるでダメ人間だったわたしを、あの子は母親として求めてくれた。
基盤となる思い出が変わっても、わたしの守護霊は姿を変えなかった。
普通はそこが変われば、守護霊の姿も変わるものなのに。
12年前のハロウィンの夜以前は、シリウスとの思い出で守護霊を創っていた。
娘の思い出で創られる守護霊がその時と同じ大きな鷹であるのは、どういう意味があるのだろう。
あの子がシリウスの何かを受け継いでいるという意味なのかもしれないし、
結局どんな思い出であろうとも術者がわたしであることには変わらないという意味かもしれない。
まあ、どっちでもいい。
あの子がわたしの娘であること、そこだけは一点の疑問もないのだから。
「おやすみなさい、ハリー。よく休むのよ」
「はい。先生も、お仕事がんばってください」
わたしはハリーに手を振り、玄関ホールに向けて歩き出す。
鷹はわたしの肩で羽を休め、小さく啼いた。
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