階段を上がり、向かって右側の扉には木製のプレートに「のへや」と彫ってある。
キャンプのワークショップか何かで作ったのだろうと見当をつけると、
あの子も普通の女の子なんだなと微笑ましい気分がした。

シリウスは左側の扉に目を向ける。
の部屋とは違い、そこがの部屋であることを示すものは何もない。

足音をさせないように忍び寄ると、耳をぴったりつけて中の気配を窺った。
あの、ほら、あれだ、いきなり開けて着替え中だったら殴られるかもしれないからだ、
とシリウスは自分に言い聞かせる。自分が緊張している気がするのは、きっとそのせいだ。



「………、起きてるか?」



コツコツ、と、軽く扉を叩く。返事はない。

部屋の中で人が動く気配もない。やはり、はまだ眠っているのだろう。
シリウスは取っ手を軽く押し、扉を開けた。軋む音もなく、扉はすっと滑る。

半分ほど中途半端に開いた隙間に身を捻じ込み、シリウスはついにの部屋に入った。
まず視界に入るのは大きなクローゼットと、少し散らかった床。
トランクがそのまま放り出されているのはホグワーツから戻って片付ける暇も無かったのだろう。

部屋の隅に配置されているベッドにはこんもりとした影があった。
やはり忍び足で近寄ると、厚手のブランケットを巻きつけたの姿だとわかる。
横向きになり、まるで子供のように身体を丸めて眠る姿は一児の母とは思えない。

シリウスは床に座り、目線の高さをに合わせた。
11月、あのクィディッチの日、禁じられた森で倒れていたを思い出してしまうが、
薄く開いた口からすうすうと空気が漏れているのがわかり、どこか安堵する自分に気付いた。



「……おい、……」



昔よりも格段にきめ細かくなった肌に、少し脱色したような色の髪がかかる。
描いていないがために眉は薄く、寝ている間に潰れたのか目尻の睫毛は妙な方向に折れている。
堪らなくなって白い頬に指を伸ばして声を掛けるが、は申し訳程度に眉を顰めるだけだった。

なんだろう。これは試されているんだろうか?

もしここに亡き親友が居れば「思い上がりはやめたまえよ」と言ってくるのであろう。
しかし現実として、この場にいるのはただふたりだけだし、そして何より、
シリウスはからの手紙の末尾にあった『あなたの鷹』という文字を見落としてはいない。


あの、初夏の満月の夜の、別れ際の苦々しさ。
平和そうなの寝顔を見ていると、あれがまるで夢だったように思えてくる。
本当はすべて上手く行っていて、彼と彼女と少女は人が羨むような一家で、
彼はただ遅起きの妻を起こしにきただけのような、そんな気分に。


ここで退いたら男が廃る。シリウスは意を決し、身を浮かせた。
風呂には入ったし歯も磨いたし、無精髭だってちゃんと剃ったのだから文句は無いはずだ。
そのままの鼻筋に、頬に、髪を掻き分けてこめかみに唇を寄せる。
仕上げとばかりに首と耳の境界あたりを2,3回甘く噛む。



、」



しつこいほどに、彼女の名前を口にする。
やっと呼ぶことを許されたのだから、何回呼んでも足りないくらいだった。

いまのからは香水の甘い香りはしないけれど、料理の移り香らしき匂いがする。
それはそれで良いものだとシリウスが思ったとき、は瞼を細く持ち上げた。



「――――まあ、実は起きてました、っていうオチなんだけどね…」

「なっ…おまえ寝たフリかよ!」



シリウスが慌てて飛び退くと、はブランケットを巻いたまま身体を起こした。
彼女はにやにや笑いながら「起きてないとは言ってないでしょ」と開き直る。
確かには起きているとも寝ているとも自分から明言していないので間違いではない。

シリウスはすっかりやり込められた悔しさやら気恥ずかしさやらを抱えたまま後ずさりを続け、
ついにはベッドに隣接するように置かれていたドレッサーにぶつかっていくつか化粧品を床に落下させた。
は困った様子もなく「あらあら」と言うだけで、ベッドから降りようとしない。



「………おまえ、昔はそこまでひねくれてなかった気がするんだがな…」

「あなたが記憶のなかでわたしを美化しすぎなんでしょうよ。
 それか、が生まれるときにわたしの素直さを全部持って行ったんじゃないかしらね」



それがもっともらしいらしい説に思えてしまうのは仕方の無いことだろう。
シリウスは肺に溜まっていた空気を浅く吐き出して、化粧品を手に取った。
それらはすべてマグルのブランドもののシリーズで、のお気に入りなのだろうということが分かった。
補足するなら「C」の文字が組み合わさったようなロゴがあり、一目で高級品だと判断出来る。

いつの間にやら、はすっかりマグルの生活に馴染んでいたようだ。
化粧品たちを適当な場所に戻し、シリウスはようやくベッドから降りようとするを振り返った。


ブランケットがするすると床に落ちていき、まず剥き出しの細い二の腕が現れる。
が上半身に着ていたのはキャミソールだけで、肩紐はすこし捩れていた。

別にその程度なら問題はなかった。
問題だったのは、更に現れた脚部が9割9分9厘ほど露出していたことだった。
『なんだそれは下着か、下着なのか、もうそこまでいくとただの下着にしか見えないというか、
 むしろ何も着ていないようにしか見えない』というアナウンスがシリウスの脳内で早口に響く。



「………どうしたのかな、シリウスくん?ん?」



は片手で目元を覆ったシリウスにわざとらしく声を掛ける。
しかしシリウスはいまそれどころではないのだった。
「ああああもう!」と叫んでしまいたい自分と、そのまま引っ張り寄せてしまいたい自分が戦争を起こしている。

の太ももから出来る限り視線を逸らしながら、乱れる心音に耳を済ませた。
落ち着け、落ち着くんだ自分、どうするにしてもまずは落ち着いてからだ!と、必死で言い聞かせる。

は相変わらず薄く笑いながらクローゼットを漁っている。
誘っているとかいうよりも、ただ単にシリウスがどう反応するかを見ようとしているだけのように思われた。


大きく息を吸って、吐いて。吸って、吐いて。


かつての威信をかけて男らしく「服を着ろ」と言い切ってやろう。
でも折角だからあの細ッこい腰に腕を回しながら言うことにしよう、そうしよう。
潔いとも往生際が悪いとも言える決心をし、シリウスはパッと顔を上げた。



「ママ!シリウス!まだー?」



が、
ちょうどその決意を掻き消すように、階下からの少し怒ったような声が響いた。


シリウスはいっそ大袈裟なほどにビクッ!と竦みあがり、
はそんなシリウスに辛抱できなくなったらしく、「ぷはは!」と噴き出した。



「………っ、昼飯。俺は先に降りるからな」

「ど、どーぞ!うはは!顔真っ赤!
 あなた昔はそこまで純情じゃなかった気がするんだけどなあ」



ひーひー笑うの横を早足で通り抜け、シリウスは急いでドアをくぐった。















起こしに行っただけのシリウスがちっとも戻ってこないことに痺れを切らし、
は階段のふもとから2階へ向けて大きな声で牽制のセリフを放った。
シリウスが自分の父親かもしれない人ではあっても、
こんなタイミングで『そういう雰囲気』になられても(主に空腹的な意味で)困るのだ。

は2階からの返事を待たずにキッチンへ戻った。
ダイニングテーブルは、さっそく電子レンジの使い方をマスターしたリーマスが
料理の皿を片っ端から温めなおして昼食の用意をすっかり整え終わったところだった。


やがてバタン!という音と、ドスドスした足音が響き、シリウスがキッチンに現れる。
ドアが閉まる前に聞こえたの笑い声と不機嫌そうなシリウスの表情で、
「ああやっぱりシリウスが負けたんだな」と2人は本能的に悟る。



「シリウス、ちゃんとママ起こしてくれた?」

「ああ」

「シリウス、どうやら顔が赤いようだけど?」

「何でもねえよ!」



決してとリーマスと視線を合わせないようにしながら、シリウスは椅子に座る。
そうしているうちに軽快な足音が聞こえて、今度はが降りてきた。

その辺に放り投げていたのを拾って着たような組み合わせなのに、
顔の半分を隠すほど大きなサングラスがオーラを出していて、ダサくは見えない仕上がりになっている。
強面にも見えようが、しかしそのサングラスはスッピンを隠すために掛けているのだ。



「え?ママ仕事行くの?ごはんは?」

「そうよー、居候が2人も増えたからしっかり稼がなきゃ。
 なのに誰かさんがくすぐったいもんだからつい時間喰っちゃった」

「悪かったな!」

「Quiet,Padfoot ! お昼はそれ3人で食べちゃってちょうだい。
 今日も夜遅くなるだろうから、待ってなくていいからね」



犬を躾けるのと全く同じ調子でが言い、シリウスはうぐっと言葉に詰まった。
は車のキーを振り回しながら「行ってきまーす」と言い残して玄関へ去って行く。
は慣れているので手を振り返したが、リーマスはその光景に呆気に取られたようだ。



「先生、シリウス、食べようよ。わたしお腹すいて倒れそう。
 ママならそのうちテレビつければ出てくるから楽しみにしててよ!」

「ああ、うん……そうだね。折角温めなおしたんだから、冷めないうちに食べないとね」



大皿からパスティを取り分けながら、は固まっている大人2人に言った。
リーマスはすぐに我に返って飲み物の準備のために立ち上がるが、
シリウスはどうすればいいのか勝手が分からずに申し訳無さそうにしている。


昼食を食べながら考えるべきことがたくさんあった。
2人をどの部屋に寝かせればいいのか、布団はそんなに余りがあったか、
マグル風のシャワーの使い方は知っているのか、ご近所に知られたらどう説明すればいいか。

しかしそれを考えなければいけないことはにとって不快なことではなかった。
むしろ昨日までの、静まり返った家でひとりで過ごす寂しさや退屈さに比べたら、歓迎すべきことだった。
ハリーやハーマイオニーやロンをうちに呼べたらもっと楽しくなるだろうか、
そんなことを思うと口元が緩み、ついでに手元が狂ってパスティがひとくち分テーブルに零れた。


ガレージでエンジンのかかる音がして、タイヤが路面の埃をじゃりじゃりと巻き上げる。
シリウスは窓からそれを見て「ポルシェ!!」と感極まったような声を出した。





「シリウス車好きなの?」

「ああ!オートバイを持っていたと言わなかったか?
 マグルのエンジン技術は本当に凄い!俺は出来るならマグルの整備士に生まれたかった」

「そっかー、そんなに好きならいいよね!」

「…何がだ?」

「部屋とか布団がもし足りなかったら……ね?」










犬 小 屋 一 棟 お ね が い し ま す
(さすがにガレージの床はザラザラしてるだろうしね!)




















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