・はキーを回し、エンジンを切った。
カバンを掴んで車から降り、ガレージのシャッターを下ろす。
わずかに庭を歩いた先にある家の窓はすべてカーテンが閉じられていて、
まだ誰かが起きているかどうかは判断できなかった。
それでも、玄関の鍵を開けると、キッチンから薄暗い光が漏れている。
おや、と思って足を進める。
シリウス・ブラックが食事用のテーブルに寄りかかり、新聞を読んでいた。
「まだ起きてたの」
「ああ」
帰りは遅くなると言ったのに、と思いながら、
ガス台に置かれたままの鍋の蓋を少し持ち上げる。
鍋には赤ワインで煮込んだらしき肉や野菜が入っていたが、
今朝作り置きした料理の中にそんなに手の込んだものは混ざっていなかったはずだ。
「これ、アイリッシュ・シチュー?
わたしこんな面倒なの作った覚えないんだけど」
「俺が晩飯用に作った」
「……あ、そ。相変わらずお料理上手ですこと」
スプーンで掬って味見をすると、自分にも娘にも出せないような上品な味がした。
家の料理のモットーはどちらかと言えば「食べられれば良し」に近い。
シリウスは少し自慢そうな顔をする。
誉めてないし嫌味だしこの馬鹿犬め、と思いながら、は小さなケトルに水を入れた。
鍋の代わりにそれを火にかけ、ティーポッドに茶葉をセットする。
「紅茶淹れるけど」
「ああ。……お前、昔はコーヒー党じゃなかったか?」
一杯要るかと言外に訊ねれば、彼もまた短く答える。
『紅茶の良さがわからないのはたぶん前世がドイツ人だったからだ』という
学生時代に好んで使っていた言い訳を思いだし、は口許だけで笑った。
「がね、紅茶派なのよ。
どうせなら美味しいものを飲ませてあげたいじゃない?
そうしたらいつの間にか自分でも紅茶を飲むようになってたわ」
ケトルがシュンシュンと音を立てる。
戸棚からカップを2つ取り出したところで、シリウスが新聞を畳んだ。
「何か面白い記事ある?」
「これなんかどうだ?“ブラック未だに逮捕ならず。
モルディブ行きの飛行機の搭乗口に並ぶ姿が目撃され、当局が確認中”」
「……乗ったの?飛行機」
「いや、すんでのところで思い止まった」
はポッドで茶葉を蒸らしながらその言葉を聞くともなしに流した。
捜査当局、特にマグルの警察のことを考えると憐れな話である。
シリウスが魔法使いであることも、本当はガス爆発じゃなかったことも知らず、
マグルの手法なんかでは99%不可能な逮捕をただ闇雲に目指しているに違いないのだから。
それならまだ闇払いたちのほうが知るべきことを知っているだけ有利というものだろう。
少なくとも、やリーマスが彼を匿うかもしれないという発想くらいは出来る。
・の家を探し出せるかどうかは別問題として。
哀れなマグル警察はきっと今ごろ監視カメラの画像解析や、
モルディブ政府への捜査協力依頼に奔走していることだろう。
当の本人はロンドンから車で1時間程度のこの家でぬくぬくしているのに、だ。
「……うちには当分来ないんじゃなかったの?」
「まあその、何だ…あの子のことも気になったし、
………にもちゃんと謝ってなかったな、と…」
「と、リーマスに怒られたわけね」
「…………」
シリウスは答えなかったが、に開心術でもかけられたのかと驚いているわけではない。
そもそも『うちにおいで』とホグワーツから戻ってすぐリーマスを誘った時の返事に
『じゃあついでに犬を一匹連れて行きます』と言われていたので、
なぜシリウスがここに来ることになったのか、はある程度の話は知っているのだ。
つまり、シリウスがここに来る数週間前にリーマスの家を訪ねてから、
やハリーたちにシリウスが助け出された夜にとシリウスがどうやって別れたのかを話し、
「結局泣かせてしまいました」という結末の部分でリーマスが思いっきり溜息を吐いたのだ。
『きみは本当にこれでお別れでいいのかい?』とリーマスが問い詰めること数十分。
今は仕方が無いだの何だのと言い逃れようとしたシリウスはついに『一緒に連れて行って下さい』と言った。
「わたし、あの時の往復ビンタで気が済んだんだけど」
「俺は済んでない。
あの時のあれは“子供たちを巻き込んだ”のと“守人のことを黙っていた”ことについてだろ。
俺はもっと他にも……お前とに謝らなきゃならない事がある」
「別に要らないわ、謝罪なんて」
ティーカップに紅茶を注ぐ。
アールグレイの渋味が嗅覚に伝わる。
片手にひとつずつにカップを持ってソファに座ると、シリウスもテーブルから体を離して隣に座った。
「……そう簡単に許されることじゃないのは分かっている。それでも、」
「そうじゃなくて。わたしがあなたを許す許さないの話の前に、
あなたがわたしを許す許さないの話をしないわけにはいかないでしょう?」
だから要らない、とは言う。
じんわりと熱を持つティーカップを受けとり、シリウスはを見た。
が謝らなければならないことなんてあっただろうか?
そんな思いが、眉間の皺にありありと出てしまう。
「――わたしは、逃げた。
誰も信じないで、何も考えようともしないで、ただ目の前の現実から逃げ出した」
は自分を嘲笑うように言う。
本当ならシリウスが逮捕されたとき、真っ先に声を上げるべき立場だった。
たとえわずかでも愛していたのなら、せめて面会に行って話を聞こうとするべきだった。
彼にはもう家族と呼べる人が居なくて、
彼女が闇払いという一般人より権力ある立場にあって、
なおかつ2人は恋人同士であったのだから。
「わたしはいちばん逃げてはいけない立場にあったのに。
真相を知った今さら思うのも本当は卑怯なことだって分かってるけど、
だけど他の誰が何を言おうとも、わたしだけはあなたを信じるべきだった」
もし逮捕されたのがジェームズで、リリーがの立場にあったら。
きっとリリーは、真っ先にジェームズのもとへ駆けつけただろう。
「………わたしは、自分が情けない。情けなくて堪らない。
あの時代、闇払いとして生きたのはほんの4,5年だったけど、
陥れられた人も陥れた人もたくさん見て、その違いはそれなりに分かってるつもりだった。
なのにいざ自分が渦中に放り込まれたらあのザマで―――
わたしは一体、なにを見てきたんだろう?なにを学んだつもりだったんだろう?
わたしは自分が情けないし、そんな自分が悔しくて、許せない」
ほんのり色付いたカップの中の水面をジッと見つめながら、が言う。
シリウスにはがそう言った気持ちが分かる気がした。
彼もまた、思い上がっていた自分の無力さを罪深いものだと感じたからこそ、投獄されるのを良しとした。
自分を責めずにはいられない、その気持ちは分かる。
分かるけれど、は責められて然るべきではない、と、シリウスは思った。
「……結局、あの時のことについては全員に何かしらの罪があるんだろうさ。
だけがそうやって思ってるわけじゃない。だからもうそれ以上自分を責めるな。
あの時点での判断がどうこう言うより、結果的に、お前はそれで良かったんじゃないか?」
「良いわけないでしょうが」
は一気に紅茶を飲み干し、カップを空にして言う。
横目でシリウスの枯れ枝のような手首を見遣り、恐る恐るといったように指を伸ばした。
綺麗に形を整え、先の方にかけてグラデーションになるように色付けされた爪が、
アズカバンですっかり潤いやハリを失ったシリウスの手に触れる。
「12年よ」
じわり、じわりと、の指先に力が入る。
徐々に絞まっていく血流を感じながらも、シリウスはその手を払おうとはしなかった。
「あなたをこんなにしてしまうだけの年月が過ぎたのに、その間わたしは何をしていたと思う?
きれいな服を着て、カメラの前に立って、ライトを浴びて…
あなたひとりをアズカバンなんていう暗くて冷たい、淋しいところに放り込んだまま、
リーマスやダンブルドアをひどく心配をさせたまま、
この明るくて温かい家で、と一緒に幸せな日々を送ってた」
「…………」
「12年間、あなたがひとりで罰を受けている間、わたしは何をしてたんだろう。
雑誌に載るとか、テレビに映るとか、そんなことの他にもっと出来ることが、」
「もう止めろよ」
シリウスは少し強めの口調での言葉を遮る。
追い詰められたような表情で俯く彼女を見るのは辛かった。
・は強い人間だという印象が濃いが、
その反面、信念が折れると一気に崩れるという弱さを持った人間でもあった。
それは生きた人間である以上は当たり前のことなのに、普段の飄々とした態度は、
まるで彼女が傷付いたりしない人間であるかのように見せる。
シリウスは許しを請うように彼の手を握るを、どこか客観的に見ていた。
ああ始まった、と。
彼女は意外とネガティブ思考な一面を持っているのだとは、彼女の娘でさえ知らないかもしれない。
「俺には、それについてを責める資格も謝られるも資格もない。
が俺の謝罪を要らないと言ったのと同じで、俺もからの謝罪なんて受け取れないんだ」
「でも、」
「なあ。お前はきっと、いま俺がどれだけ幸せだと思ってるか、
それを知らないからそんなにゴチャゴチャ考えてしまうんだろうな」
シリウスはのように一気にカップを呷り、サイドテーブルに置いた。
そのまま手首の拘束を払って、逆に彼女の手を掴み返した。
その指先は、他の部分より少し温度が低い。
「俺は確かに12年間アズカバンに居たし、あそこの環境ほど酷いものは無いとも思う。
だけど、もう過去の話だ。抜け出して1年経って、いまはここに居る。
明るくて、温かくて、窓の外にちゃんと景色があって、俺の言葉を聞いてくれる人が居る。
が俺のことを『信じるべきだった』って、『信じなかった自分が悔しい』って、
そう言って悩んでくれることだけで、俺がどれだけ救われるか、分かるか?」
「………そんなの、」
「12年間、がを必死に守ってきたんだってことはみんな知ってる。
俺もそれを誇らしいことだと思う。実際、あの子はあんなに良い子じゃないか。
だから、そうやって自分で『母親である・』を否定するのは、もう止めてくれ」
はシリウスの手を振りほどこうとした。
しかしシリウスは指先に力を入れて、逃げさせまいとする。
ここで逃がしてキチンと話が出来なければ、はいつまでも同じことを考えるだろう。
それでは意味が無いのだ。
いずれ、この居心地のいい『家』からも離れなければいけない時が来る。
その時にがそんな状態のままでは、彼がここに来た意味が無い。
「の存在はにとって幸せなことだったろうが、本当にそれだけか?
未婚の母親ということでたくさん苦労もしただろうし、嫌な思いもしただろう。
今だって“女優の”には娘なんて居ないことになってるんだろう?」
「………………」
「お前の贖罪は、きっと一生かけてを幸せにすることだと思う。
俺の、アズカバンという贖罪は抜け出すことが出来た。だからこそ今ここに居る。
だけど親であることからは逃げられない。お前の贖罪は一生続く。それでもまだ足りないか?」
シリウスの手の中で、の身体が強張るのが分かった。
次に来るのは怒声か、嘲笑か。それとも涙か。彼もまた、身構える。
しかしそのどれでもなく、は静かに呼吸を続けるだけだった。
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