その日の朝、がキッチンに入ると、シリウスが土下座していた。





「………なにしてんの?」





まだ寝ぼけているのかもしれない、
と目を擦ってみても、シリウスが床に膝を突いている状況は変わらない。
まるでシリウスを跪かせているかのようなは優雅に足を組んでコーヒーを啜っていて、
リーマスはそんな光景なんて見えていないかのようなエプロン姿でフライパンを握っていた。

なんだこれ。

内心は「?」で一杯なだが、表面上はわずかに眉を顰めているだけである。
とりあえず朝食を食べようと、なるべく音を立てないようにして足を動かす。



「頼む!」

「ダメ」

「おはよう、

「………おはようございます、ルーピン先生。あの、これ、何ですか?」



は尋ねるが、リーマスは困ったように笑うだけで、質問に答えない。
どうせしょうもないことだろうと見切りをつけ、は椅子に座ってスクランブルエッグが給仕されるのを待った。
我が事ながら、この順応っぷりには感心してしまう。


居候が増えて、家における女性の処遇は飛躍的に向上したと言える。
なにせ放っておけば居候たちが掃除も料理もしてくれるのだから、
は毎日の食事の支度や何やかんやから解放され、心行くまでダラダラ出来るようになったのだ。
最も、それまでも比較的自由にしていたことはしていたが。

料理は、食材に囲まれて幸せそうなリーマスの役目。
掃除は、細かいところが気になるらしいシリウスの役目。
洗濯は、ゴロゴロするのに飽きたときのの仕事。
そして稼ぎ頭がという、何とも適材適所な役割分担がなされている。



「おはよう、ほらさっさと食べないと」

「おはよ、ママ。さっさと、って、何か用事あるの?」



の格好は仕事用のもので、きれいに化粧をしてはいる。
けれどもどこかラフな印象があり、仕事ではなくてオフで出掛けるような雰囲気だった。
は新聞を畳み、にこりと笑って、言った。



「ハリーの所に行くわよ」

「…………は?」



掬った玉子が、ぼとりと落ちる。
下げていた頭をガバッと持ち上げたシリウスは、とても真剣な顔をしていた。



「頼む、俺も連れて行ってくれ」

「ダメ」

「運転させてくれとは言っていないじゃないか!
 大人しい犬の振りをするから!荷物みたいにトランクに詰め込まれたっていいんだ」

「ダメ」

「後生だから!ハリーが元気でやっているか気になるんだ!
 あと俺だってポルシェに乗りたい!そりゃ出来れば運転もしたいが」



は間を置くこともなく「ダメ」と切り捨てる。
はようやく事の成り行きを理解したが、余りにもばからしくてつい溜息が零れた。
指名手配犯とドライブする女優がどこに居ると言うのだ。
バレたら仕事が出来なくなるどころか、共犯の疑いで逮捕されてしまう。



も何とか言ってやってくれ!」

「え、ムリだと思うけど」



掬いなおしたスクランブルエッグを口に運びながら、が答えた。
とよく似た返答の簡潔さに、リーマスは「やっぱり親子だなあ」と呟く。
同乗出来る可能性の潰えたシリウスは再び頭をガックリと下げた。



「でもママ、ハリーに会いに行くって、約束してるの?」

「いいえ?だって昨日思い付いたばっかりだもの。
 まあ何とかなるでしょ!聞けば随分と俗物的なマグルらしいじゃない?」



は微妙な顔で「そういうもん?」とリーマスに尋ねたが、
彼もまた微妙な顔で「さあ…」と言うだけだった。















その日の朝の快晴も、ハリー・ポッターにとっては絶好の掃除日和なだけだった。
叔母に命じられるがままに朝食を作り、それが済めば窓の掃除を言いつけられた。


時刻はもう昼になるだろうか。
果たして今日はマトモな昼食が食べられるかどうかとハリーが考えていると、
プリベット通りをやって来る車が見えた。フロントガラスが日光に反射して、眩しい。

その真っ赤な車体は雑誌やCMでよく見かける高級外車と同じである。
一体どんな嫌味な金持ちが乗っているのだろうと思ったとき、車は急に不吉な音を立てて停車した。
それは奇しくも、ダーズリー家と隣家の境でちょうど二分される場所だった。


運転席から出てきたのは意外にも女性で、胸のあたりまで伸びた髪にはゆるくウェーブをかけているようだった。
その後ろ姿にどこか見覚えがある気がして、ハリーは目を細めた。
女性はボンネットを開けると、サングラスをかけた顔を覗き込ませる。
しばらくして顔を上げると、助手席に向かって首を降った。

エンジンがオーバーヒートしたのだろう、とハリーは予測をつけるが、
助手席から跳ねるように出てきた少女の姿までは予測出来なかった。
ロックバンドのマークがプリントされた丈の長いTシャツをワンピース風に来ているその少女の顔は、
少し距離があるので翳ってはいるものの、確かに・アンドロニカス、ではなく、、である。


ハリーは思わずアッと声を上げ、窓を拭いていた雑巾を庭に落とした。
ならばこっちの女性の方はであるに違いない。


ふいにサツキがハリーの方を向き、落ちた雑巾に気付いた。
彼女はまっすぐハリーの居る窓辺に向かってくると、雑巾を拾い上げ、サングラスをずらしてニヤリと笑う。





「―――何も知らないフリよ。出来るわね?」





ハリーはバネが壊れた人形のようにかくかくと頷いた。
少し離れたところに居るは、我慢できないように口許を緩めている。

颯爽とした足取りでダーズリー家の玄関へ向かうを見ながら、
今日は少しはマシな日になるかもしれない、とハリーは思った。















玄関のチャイムが鳴り、ダーズリー氏は重い尻を上げた。
せっかくお気に入りのゴルフ番組を見ていたのに一体どんなやつが来たのだろうと氏は憤る。
腰を屈めて魚眼レンズを覗き込むと、そこにはサングラスを掛けた女が立っていた。
「どなただね?」と問いながらも、それが有名なブランドのサングラスであることは見逃さなかった。



「突然すみません、という者です。実は車が急に動かなくなってしまって…
 お宅の前を塞いでしまって、本当に申し訳ございません。ご不便おかけいたします。
 それで、あの……この辺りに信頼出来る修理工場はありますでしょうか?」

だって!?」



ダーズリー氏は飛び上がらんばかりに驚いた。
と言えば、休業から最近復帰した女優ではないか!
嘘か真か氏が考えあぐねていると、と名乗る女はサングラスを外し、困ったように背後を振り返った。
その顔立ちは正に女優のであり、視線の先には高級車として名高い車が停まっている。
本物だ!と確信し、氏はドアを開けた。



「そ、それはお気の毒に!
 腕のいい修理工を知っておりますので、ぜひ紹介させて頂きたい!」

「まあ、ご親切痛み入ります」

「しかし、うむ、我が家からそこまではちと距離がありましてな。
 こう暑いと車内で待たれるのは大変でしょうから、どうぞお入り下さい!」

「でも、そこまでご迷惑をお掛けするわけには……」



ダーズリー氏は遠慮するを必死に引き留めた。
女優を家でもてなす機会など滅多に無いし、何より息子が貴女のファンなのだ、と。

はついには「ではお言葉に甘えて…」と、ダーズリー氏の申し出を受け入れた。
ちょろいもんだ、とが内心でほくそ笑んでいるということを、氏は知らないだろう。

つまり車が壊れたとかなんとかいうのは、すべての仕組んだ芝居なのだった。
そうとも知らず、ダーズリー氏は浮き足立って夫人と息子を呼びつける。
の後ろにくっついて玄関の扉をくぐるが、聞いていた通り、
ハリーがまるで存在を無視されていることに少しムカムカした気分になる。


応接間に通されてすぐに首の長い女と太った少年が入ってきて、を見つけると小さく悲鳴を上げた。
ダーズリー氏は夫人たちにの車が故障したことと、
自分はこれから修理工場に電話することを伝えると、丁寧にもてなすように釘をさして部屋を出た。



「まあまあ、ミス!ご不運、お気の毒さまでしたわね。
 車のことは心配なさらず、宅の主人にすべてお任せくださいまし。
 主人は穴開けドリルの会社を経営していますから、腕の良い職人なら山ほど知っておりますの」

「ありがとございます、奥さま。少しの間、お邪魔させていただきますね」



ダーズリー夫人はを壁際のソファ、
息子その反対側に座らせると、張り切ったようにキッチンへ舞い戻っていった。
はダドリーの豚のような瞳が自分をジッと見ていることに気付くと、にこっと笑ってみせた。



「お待たせいたしましたな、ミス
 いま修理工を手配しまして、1時間もかからずに来れるだろうとのことです」

「何から何までお世話になってしまってすみません、ダーズリーさん」

「お気になさらず!彼は信頼できる人間の紹介が無ければ来てくれんのですよ。気難しくて困りますわい!」



遠回しな自慢しやがって。とは頬をひきつらせた。
幸いにも夫人が紅茶を運んで来たので、「すごく美味しそう」という表情だと勘違いしてくれるかもしれない。



「改めて紹介いたしましょう、これは妻のペチュニア、こっちは息子のダドリーです」

「こんにちは、ダドリー。この子は娘の、12歳よ。
 ダドリーは何歳?と同じくらいかしら?仲良くしてやってちょうだいね」



を紹介すると、先程から気になって仕方がなかったような夫人がにわかに気色ばんだ。

夫人はありとあらゆるゴシップネタを知り尽くしているので、
が未婚であることも、数えるほどしかデート現場をパパラッチされていないことも知っている。
そのにまさか12歳の娘が居ようとは、雑誌に売ったらいくらになるスクープだろう!



「知りませんでしたわ、ミスがご結婚なさっていたなんて!
 うちのダドリーちゃんと同じくらい可愛らしいお嬢さんですわね」

うぇっ……あ、いや、ありがとうございます!」



たいへん不名誉な誉め言葉を頂いてしまい、は今度こそ嫌そうな声を出してしまうところだった。
脇からが突いてきたので事なきを得たが、この家は忍耐修行のための場所なのかと聞きたいくらいだ。
夫人はそれには気付かず、興奮したようにに畳み掛ける。



「いったいご主人はどんな方なのかしら?奥さまがお忙しいと大変でしょうねえ。
 一時噂になったあの俳優……ではないですわね。あら私ったら余計な詮索ごめんあそばせ。
 でもこんなにお綺麗な奥さまと可愛らしいお嬢さまがいらっしゃれば疲れも忘れるというものでしょうねえ!」

「―――あ、いえ………主人は、もう……」



は視線を伏せて苦笑しながら言う。
もしも家での奔放な姿のしか知らない人が見れば、これはいったい誰だと怒るかもしれない豹変っぷりである。

ああシリウスが殺された、とは笑いそうになるのを必死で堪えた。
きっと今ごろ家では犬がくしゃみをしていることだろう。




















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