ハリーは応接間の扉の前にしゃがみこんで、叔父一家が慌てるのを聞いていた。
は「主人はもう…」で言葉を切り明言しなかったが、そのニュアンスから、
続く言葉が「亡くなった」になるだろうこと位は、いくらダーズリー一家といえども理解出来たのである。
そもそも家の戸籍にの父親が存在しないことを知っているハリーとしては愉快なものだ。
ユウもサツキも、嘘は言ってないと開き直っているに違いない。
「マスコミには内緒ですよ?」とは悪戯っぽい声色で言う。
たちが特にその話題を気にしていないと分かり、ダーズリー一家はひとまず安堵した。
「あの、ところでお子さまはダドリーくんひとりですか?」
「え?ええ、そうですが?」
「でもママ、わたし見たよ、黒い髪の男の子!
わたしと同い年くらいで、眼鏡かけてて……」
ギクリとしたダーズリー氏の言葉に、の反論が重なる。
その言葉は少しも不自然さや演技っぽさがなく、ハリーは内心で感心した。
忘れてはいけないが、は去年、すでに学校全体を騙すほどの名演技を披露している。
「そうねぇ、わたしも見たような気がしたんだけど……」
「いやいやきっと何かの影を見間違え――」
そのとき、ハリーは『ついうっかり』、くしゃみをした。
再び忘れてはならないのが、ハリーがここ3年の間に咄嗟の行動や機転で何度急場をしのいだかということである。
演技力に定評があるのは、なにもに限った話ではない。
「――もしくは、我が家の居候を見られたのでしょうな……」
「ほらママ、やっぱり居たじゃない!
ねえおじさま、わたしその子に会ってみたいな」
はつとめて無邪気そうに言う。
ダーズリー氏は夫人のほうをちらりと伺って、視線だけで「絶対に駄目だ」という合意に達した。
「い、いやお嬢さん、あいつはだな、その、
更生不能非行少年院に通わせにゃならんほど手のつけられん乱暴者で……」
「まあ!ダーズリーさん、それは本当ですか?
実はわたし、いま舞台での非行少年の母親役のオファーが来ているんです。
できれば実際に少年院に通う子の話を聞いてみたいと思っていましたの。
もしその……彼の都合が悪くなければお話させていただけませんか?」
が熱を込めて言うと、氏と夫人は『この女正気か?』と言いたそうな表情になった。
彼らとしては、そんな危険な子と娘を会わせるわけにはいかないとが言うのを期待していたのだ。
それがまさか娘を差し置いて自分と話をさせてくれと言われるとは思っても見なかった。
ダーズリー氏は「いや」とか「しかし」とか言葉を濁して誤魔化そうとしたが、
結局はが期待した表情で見てくるのに耐えられず、「そこまでおっしゃるなら…」と言った。
氏は重い尻を再び上げて、応接間から玄関へ続く廊下へと出た。
そこでハリーが全て聞いていたという顔で立っているのを見つけると、一瞬ギョッとした顔になる。
「――おい、分かってるな、小僧。
もし・の前で少しでも『普通じゃない』ことを、」
「しないし、言わないよ。オッケー、分かってる。
マージおばさんの時みたいに、大人しくしていればいいんでしょ?」
ハリーの言葉に、ダーズリー氏は背筋に薄ら寒さを覚えた。
魔法事故巻き戻し局の俊敏な対応のおかげで、昨年の事件の詳細は一家の記憶には無いが、
それでも『マージおばさんの時みたいに』とハリーが口にしただけで何か嫌な予感がしたのだ。
氏はオホン!と咳払いをして、「それでいい」と呟くとハリーの背中を押した。
ハリーとダーズリー氏が応接間に戻ると、夫人とダドリーはあからさまに不安そうな顔をする。
それとは対照的にはパチリとウインクし、は穏やかに微笑みながら立ち上がった。
「ペチュニアの姉妹の息子でしてな、あー……ハリー・ポッターです、ミス」
「こんにちは、ハリー」
は腰を屈めてハリーの頬に挨拶のキスをすると、髪をワシワシと撫でる。
ハリーは恐らく、夏休みが始まってから初めて心から笑った。
小さい声で「こんにちは、先生」と返すと、がニヤリと笑う。
「突然ごめんなさいね、でも、どうしてもお話したかったの。
そうねえ、何から聞けばいいかしら?あなた、犬は好き?」
「犬ですか?」
「そう、たとえば真っ黒だったり、こんな――熊みたいに大きかったり、
そんな犬だったとしても、普通の犬のように接することができる?」
はハリーをソファのほうへ誘導しながら、両腕を広げてジェスチャーしてみせる。
『黒い』『大きな』『犬』は好きか?
ハリーはその問い掛けに目を丸くしてを見た。
「たとえばその犬が何か……悪いものとして思われていても、
もしその犬があなたに懐いていたら、あなたはその犬を抱きしめてあげられる?」
「で、できます。僕――大好きです!」
「そう?そうよね。ああ良かった!
唐突な質問でごめんなさい、そのお話は非行少年と犬のお話なのよ。
で、わたしの役は何かにつけて犬を踏んづけてしまうそそっかしい母親で…」
は夫人に微笑みながら芝居の内容について説明する。
ハリーがの隣に座りながら『ほんとうに?』と目で尋ねると、
は『まさか!』という表情をしておどけてみせた。
まさかが口から出任せに芝居を創作しているとは知らない夫人は感激した様子で頷いている。
ダドリーはに見惚れるあまり、茶請けとして出されたパウンドケーキをぼろぼろ零していた。
とハリーが横からダドリーのケーキをつまみ食いしても、ちっとも気付いた様子はない。
「ねえハリー、あなたはどう思う?
お芝居のラスト、魔法の力で犬が瀕死から生き返るんだけど、ちょっと子供っぽいかしら?
わたしとしては、さんざん犬を苛めてきた母親が代わりに痛い目に遭うのがいいと思うんだけど」
「子供っぽくは無いと思います。
それに、母親が痛い目に遭う必要もないんじゃないかな、って……」
「優しいのね。お母さん嬉しいわ。
じゃあ、ハリー、ダドリー、魔法って実在すると思う?」
ダーズリー氏は思わず紅茶を気管のほうへ流し込みそうになり、大きな咳をした。
真っ赤になった顔のままハリーをぎろりと睨み、『余計なことは言うなよ』と牽制する。
ダドリーはいつぞやの豚尻尾のことを思い出して顔を青くし、「魔法なんて、ないよ!」と急き込む。
ハリーはそんな従兄弟の様子を愉快そうに眺めたあと、ダドリーの言葉に頷いた。
するとそれを見たは、一瞬ちらりとを伺って、ダドリーの方を向いて言う。
「ちがうわよ、ダドリー。魔法はあるの!
だってうちの車ね、呪われてたのをママが魔法で呪いを解いたんだから!」
「――の、呪われ、?」
「そうなの、おじさま!
あの車、買った人がぜったい事故死するって有名な呪いの車だったの!
だからまだ無名で貧乏だったママでも買えるくらい格安で売られてたのよ」
ダーズリー氏は少し蒼白な顔で、とを交互に見比べる。
は暢気に「あらあら」と笑っているが、氏からすれば冗談で済む話ではない。
プリベット通り4番地のこの家にも、“魔法使い”がひとり居るのだから。
「は、ははは……お嬢さんはミスの作り話を信じておられるようですな!」
「でも事実、ホンダの中古二輪と同じくらいの値段でしたのよ、ダーズリーさん。
事務所の社長の知り合いのディーラーが扱いに困っていると聞いて譲ってもらったんです。
何人か“憑いて”はいましたけど、主な原因はブレーキに悪霊の呪いが掛かっていたことでしょうね」
「―――ご、冗談を!まったくミスのジョークは一味違いますなあ!」
は「それはどうも」と言いながら妖艶に笑う。
その表情はまるでサムソンの目を奪おうとするデリラを連想させるようで、
ダーズリー氏は思わず目元を覆って口を噤んだ。背中を冷や汗が伝う。
いったい今の圧倒されるようなオーラを何と呼べばいいのか、殺気か、闘志か。
そんなことを考えていると、玄関でドアベルが鳴った。
きっと修理工が到着したのだろうと思い、氏は三度腰を上げた。
玄関の扉を開けると、薄汚れたつなぎを着た、馴染みの修理工が立っている。
しかしなぜかその顔色は悪く、わなわなとの車を指差していた。
「―――ダ、ダ、ダーズリーさん!
あんた、あの車はどうなさった?運転手はどちらさんですかい!?」
「・だ。知っとるか?ほれ、あの女優の――」
「まさか!あの車は――あの型番は、わしら修理工の間じゃ有名な呪いの車だ。
これまで乗り手を何人も喰らってきた……最近じゃどこにも持ち込まれねえんで、
とうとうスクラップになったんだろうって、勿体ねえがそれが一番ええだろうって、わしらは……
・?あの女優?生きとるじゃないか!いったいどうやって――」
「―――魔法、ですよ」
すっかり混乱している修理工を宥めようとダーズリー氏が苦心していると、
いつの間にか背後に来ていたが、静かな声で言った。
氏と修理工はぴたりと口を閉じて、を振り返る。
「コントゥロ・マレディツィオーネ―――反対呪文、と言えば分かりますか?」
「な、なにを……」
「独り言です。お気になさらず、ダーズリーさん」
はそのまま庭を横切り、使い込んだ赤い車体を撫でた。
修理工は、本当に・があの悪名高い車の持ち主だということに言葉も出ないようだった。
エンジンのキーを差し込む動作をしたあと、は運転席に隠しておいた杖を見えないように振った。
故障したように見せかける魔法を解くと、エンジンは何事もなかったようにガソリンを燃やし始める。
「――あら?直ったみたいです、ダーズリーさん。
オーバーヒートしてしまったエンジンが冷めたのかしら?
それでもやっぱり、ラジエーターを修理する必要があるかもしれませんわね」
先ほどの妖しい表情など嘘のように、が言う。
ダーズリー氏は「そうですな」ともごもご返事をして、修理工を見た。
出張損を喰った修理工は未だに怯えたような眼つきでと車を見比べている。
エンジンのかかった音に引き寄せられて、
玄関にはハリー、、ダドリー、ダーズリー夫人までもが集まってきた。
はを手招きして呼ぶと、ダーズリー氏の前に並んで立つ。
「なんだか最初から最後までご迷惑おかけしてしまって本当に申し訳ありませんでした。
このお礼はいつか必ずさせて頂きますね。うちの事務所にもきちんと伝えておきますので、」
「ああ……そ、そうですな。では、ぜひ我が社のCMにでも…」
「穴あけドリルの会社でしたかしら?
そうですねえ……わたしがドリルでジェイソンの仮面を作るという内容なんてどうですか?
ほら、あの、『13日の金曜日』のジェイソンです。ホッケーマスクの穴をドリルで、こう、」
「ごめんなさいおじさま、ママのことは気にしないでね」
妙に嬉しそうな顔で、は恐らくはドリルで穴を開けるジェスチャーをする。
はそんな母親をまるで無視してダーズリー氏に言った。
は「ちょっとふざけただけなのに」と文句を言ってくるが、それも無視だ。
「そうだわ、ダーズリーさん。またハリーと話をしに来させて下さいませんか?
今度は一緒にドライブしましょうね、ハリー。美味しいランチにでも連れて行ってあげるわ!
あの犬も一緒に乗れたらいいんだけど……それはまたいつか。ね?」
「はい!僕、楽しみにしてます!」
またいつか、『あの犬』と一緒に、この車でドライブをして、美味しいランチに行けたら。
想像すると嬉しくて、ハリーは思わずダーズリー氏が「来てもいい」と言う前に返事をしてしまった。
いまいち展開についていけていないダーズリー一家と修理工を残し、
とは軽い足取りで車へ向かう。
はサングラスを掛けなおし、窓をあけてハリーに手を振った。
助手席のもそれに負けないくらい大きく手を振る。
「また来るね、ハリー!元気でね!また会おうね!」
「うん、きみも、元気で!」
青い空の下、まるでグリフィンドールの専用車であるような色をした車がプリベット通りを去っていく。
ハリーはその影が見えなくなるまでずっと、手を振っていた。
いつか、いつか『彼』も一緒に、みんなであの車に乗って遊びに行こう。
「ねえママ、ダドリー、ほんとにすごい太ってたね」
「そうねえ」
「ハリー、ちょっとは気分転換になったかなあ」
「たぶんね」
「……ママがあのおじさんたちに魔法を見せたら絶対すぐにハリーを苛めなくなるのに…」
「マグルの前で魔法を使うのは法律違反、なの。
――さて、このあとどうしたい?ロンドンでも行ってみる?
ああでも、夕飯の材料も買って帰らなきゃね。なにが食べたい?」
「チキン!が足りない、ってシリウスが昨日言ってた」
「あれはチキン依存症だから気にしないでいいわよ」
プ リ ベ ッ ト ・ ド ラ イ ブ
(ところでこの車、ほんとうに何人か“憑いて”るの?)
After the Lights Top
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