「ちゃん、いまちょっといい?」
何やら不穏な呼び方に内心で「今度は何をやったんだろう」と思いながら、
は雑誌を読む手を休め、背後に立つを振り返った。
は小さな紙切れをヒラヒラさせながら笑っているが、
それは何か後ろ暗いことを話そうとしているときに独特の笑顔だった。
「……いいけど、今度はなに?」
「あのね、悪いことじゃないんだけど、ね?
クィディッチワールドカップの貴賓席チケットがここに2枚あるんだけど、」
「えええ!」
の耳はクィディッチワールドカップ、という単語を聞き逃しはしなかった。
のほうに腕を伸ばして、紙切れ、つまりチケットを受け取ると印字面を見た。
S席、ボックス6
端に描かれた魔法省のエンブレムはどうやら紛い物ではなさそうである。
「ママ!これどうしたの?行ってもいいの?」
「大臣がくれたのよ。
あのバカ犬のせいで色々巻き込んでしまったお詫びに、って」
「すっごい!ありがとう大臣!」
は小躍りしたくなるほどハシャぐが、はそれでもまだ含みの有る表情を崩さない。
しばらくチケットを眺めて堪能したあと、はようやく「まだ何かあるの?」と聞いた。
「まさかチケットが手に入るなんて、しかも貴賓席だなんて、驚きよね?
ちゃんったら小躍りして喜びたいくらいよね?」
「そりゃ、まあ……嬉しいけど」
「そうよね。だから別に、同行者がちょっとくらいアレでも文句なんか言わないわよね!
席を工面してくれた大臣の苦労とかそういうのを思えば、例えば…マルフォイ一家だろうと」
の手からひらりとチケットが舞い落ちた。
頭の中のCPUはフル回転での言葉の意味解析をしている。
S席、ボックス6、お隣はマルフォイ一家。
「な…なんで!?なんでそういうことになったの!?」
「いやホラ、わたしって一応向こうでは事実上12年前に死んでる人なのよ。
だから大臣といえどもそう易々と亡霊を招くわけにはいかないんだけど、
その辺をマルフォイさんがちょーっと口添えしてくれたらしくって」
「なにそれ!」
マルフォイ一家のおかげでより複雑になったともいえる昨年の騒動はまだ記憶に新しい。
たとえがクィディッチ・チームのマネージャーをしていて、ワールドカップにも興味があったとしても、
マルフォイ家のその権力のお零れにあやかりたいとはとうてい思えない。
は苦笑しながら「やっぱりイヤ?」と聞いた。
は小刻みに何度も頷き、絶対にイヤだということを主張する。
は肩を竦め、「だと思った」と苦笑したままで言った。
「じゃあ仕方ないわね。
相手が相手だし、骨折でもしたことにして留守番しててちょうだい」
「骨折はともかく、ママは行くの?なんで?」
てっきりが断ればも行かないものだと思っていたが、どうやら違うらしい。
のあっさりした言葉に、は目を丸くした。
「まーね……大人の事情ってやつよ」
「事情って―――シリウス、のこと?」
がおずおずと聞くと、は首を傾げて「んー…」と言葉を濁した。
「まあ、当たらずとも遠からず、かな。
わたしは死んだようなものだけど、書類上は休職中なの。
死んだって認めるとそれはそれで厄介なんですって、政治的に」
「そうなの?」
「大臣的にはね。そんなのがホグワーツで公職に就いちゃったもんだから色々面倒で。
今のまま放っておかれたいから、出来る限り大臣のご機嫌取りをしようと思っているというわけよ」
は腰を曲げて、床に落ちたチケットを拾う。
「それにね」と言い足すところを見れば、まだまだ「大人の事情」があるらしい。
「ブルガリアの国賓の接待をするのに、中年男たちばっかりじゃむさ苦しいでしょう?
だって面子が面子よ?大臣、ルシウス・マルフォイ、魔法警察機動部隊からの護衛、あとその他」
「その他ってなに?」
「マルフォイの取り巻きとかね。……だから“華を添えてほしい”んですって。
イギリス魔法界がマグルと良好な関係を築いてるっていうアピールも兼ねて」
要するには何重にも意味を持った『シンボル』として出席させられるのだ。
ひとつにはルシウス・マルフォイの“過去”が潔白であったとするための証人として。
ひとつにはイギリス魔法界がマグル排斥を徹底しようとしたヴォルデモート卿の影響下から脱したというアピールに。
は少し考えて、の手からチケットを抜き取った。
「……やっぱり、わたしも行く。
ママひとりだったらブルガリアの偉い人に何するか分かんないもん」
の言葉に、は少し間を置いて「そう?」ととぼけた反応をする。
この母だったら、国賓の前で『耳からヨーグルトが溢れてくる呪い』を(マルフォイ氏で)実演、なんてこともしかねない。
それに、が行かなくてもが行くのなら、結局はマルフォイ一家との接触は避けられないのだ。
彼らのことだから、何かと理由をつけてこれからも家に干渉しようとしてくるに違いない。
だったら先手を打って、この機会に「こっち来るな」と態度で示してしまった方が良い。
なおかつ折角のワールドカップだ、みすみす見逃すなんて、勿体なさすぎる。
♪
そしてワールドカップ当日。
昨年のクリスマスパーティの時ほどフォーマルではないものの、
少し余所行きのワンピースにローブを羽織り、はと共に会場へ到着した。
「やあ、こちらだよ!
ああ、足元に気をつけたまえお嬢さん。段差があるからね」
ボックス席への階段を上っていると、頭上から聞き覚えのある声が降ってきた。
目の前でゆらゆらしていたのローブの裾を掴んでバランスを取りつつ
が斜め上の方を見上げると、多少引き攣った笑顔のファッジが見える。
「大臣なんかヘンだね」とにだけこっそり尋ねてみると、母は「目が痒いんでしょう」と興味が無さそうだ。
最上フロアにたどり着いたのはの息切れが限界を迎えようとしていた頃だった。
目が痒いのかどうかは分からないが、出迎えた大臣はやはり頬の端を引き攣らせている。
彼はいつもよりせかせかした動作で、目当てのボックス席へと達を案内しようとする。
「、君は通訳の魔法は出来るかね。
いやいや…まさか連中、こっちの言葉がひとつも通じないとは…」
「残念ですわ、大臣。小鬼の言語なら多少は理解できますけれど、ブルガリア語は全く」
小鬼の言語ってなんだ。とは思った。
本当にそんな言語があるのか、それとも大臣をあしらう方便だったのか、
はに話しかけようとしたが、ちょうどその時、3人は席へ辿り着いた。
まずの視界に映ったのは黒いビロードに豪華な金の刺繍が入ったローブだった。
そのローブを纏った魔法使いはゆっくり立ち上がり、に向けてにっこり笑みを浮かべる。
挨拶と思しき、けれどの知らない言葉が発せられたことから、恐らく彼がブルガリアの大臣なのだろう。
「オブロンスク―…あー、ミスター・オバランスク。
こちらが・、魔法界出身ですが今はマグルの女優をやっています。隣はお嬢さんの…」
指先で少しだけワンピースの裾を持ち上げてみたりなんかして、
は大臣が自分たち親子を紹介する言葉に合わせてちょこんとお辞儀をした。
すると、ブルガリアの大臣も胸に手を当て、軽く会釈を返してくれた。
「まったく!バーティ・クラウチはどこへ行ったのやら…
それから、やあ、ちょうどいい所にルシウスが到着したようだ!ルシウス!」
「――これは両大臣閣下…それに女史」
何やらぶつくさ言っていた大臣が、不意にルシウス・マルフォイの名を呼んだ。
挨拶をうまくやり過ごせたことに一安心していたはずのは、思わずギクリと肩を震わせてしまった。
なるべくの背中に隠れるように回り込んで、そうっと窺う。
外見を含めて、外面だけを見れば誰もが羨むようなマルフォイ一家が貴賓席に入ってきたところだった。
隠れていたとはいえバレバレだったのか、とドラコ・マルフォイの視線がガチリとぶつかる。
なんとなく先に視線をずらした方が負けのような気がして、
とドラコは大人の話などそっちのけでにらみ合った。
これは長期戦になるかもしれない――そう思った時、
まったく空気を読まないファッジの呑気な声が双方にとって聞き覚えのある名前を発した。
「バーティが居れば奥方にも紹介できたんですが、いや残念…
他に貴賓席にいる中では―ああ、アーサー!アーサー・ウィーズリーはご存知でしたかな?」
とドラコは全く同じタイミングでファッジの方に顔を向けた。
大臣一行を挟んで反対側、いくつか並んで見える赤い髪の色は前学期中にすっかり見慣れたウィーズリーの色だ。
頭上で飛び交う大人たちの睨み合いには関わらないことにして、
はの背中から飛び出して、見知った顔を探した。
先ほどファッジが“アーサー”と呼んだのが一家の大黒柱ウィーズリー氏だろう。
隣にはつい先日卒業してしまったパーシーを始めとする年長の兄弟が並んでいて、
さらにその奥に双子たち、ジニーとハーマイオニー、それからロンとハリーの顔が見えた。
この会場に来ていることは手紙に書いてあったので知っていたものの、
まさかこんなに近くに居たとは思いもしなかった。
「ルシウスは聖マンゴ魔法疾患傷害病院に多額の寄付をしてくれてね、アーサー。
も知り合いが居た方が良かろうと思って来て貰ったんだ」
「それは―結構なことで、大臣」
“”の名前に反応してか、ハリー達はルシウス・マルフォイを睨むのを止めて
ようやくが母親の横で小さく手を振っているのに気付いた。
彼らも、こんなに近い席だということに驚いたらしく、目を丸くしている。
少し距離があるのでフレッドなのかジョージなのかは分からないが、
双子の片方が手招きをして、もう片方が座席の隙間を指差し、要するに『こっち来いよ』と言っていた。
の知らない年長の兄弟たちも気になるし、ずっとお偉方と一緒というのも遠慮したい。
不審に思われない程度にのローブの裾を引っ張り、は上目遣いで母親を見た。
「……ねえママ、あっちにハリー達が居るみたいなんだけど、」
「あら、偶然。アーサーが良いって言うなら行っても良いわよ、
―って言えたら良かったんだけど。今日はお仕事で来てるんだから、ダメ」
「そんなぁ…!」
はがっくりと項垂れた。
てっきり「行ってきたら?」くらいの反応だろうと思っていたのに、現実は甘くなかった。
はの頭を少しだけ引き寄せて、ほとんど聞こえないような声で「ごめんね」と言った。
その声は演技でも何でもなく、心底申し訳ないという実感のこもった声で、
がどんな表情をしているか、顔を上げなくたってありありと想像できてしまう。
「……試合の後なら、いい?」
「そうね。試合が終わって大臣達が解散したら、挨拶に行きましょう」
もう一度上目遣いにを見る。
の想像していた通り、口元を結んで眉尻を下げた、悲しげで情けない表情の母が居た。
わざとらしく、しょうがないなぁ!と言って見せればの表情も少し柔らかくなる。
ハリー達や双子に断りのジェスチャーをして、はマルフォイ一家の隣のボックスへと向かった。
こんなもの、ほんの数時間の辛抱だ。
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