いつもと変わらない朝の日差し、
いつもと変わらないキッチンからの匂い。


が重い瞼を擦りつつ「おはよう」と言うまではそれまでと同じ一日の始まりだったが、
椅子に腰を下ろしたを出迎えたシリウスとリーマスは、少し含みのある様子だった。

はもう仕事に行ってしまったらしく、テーブルには3人分の皿しか出ていない。
だが、そんなのはよくある事で、この胸の奥の違和感の原因ではない。
あんまり良い予感ではないな、と思いつつ、はミルクのグラスを手に取った。





「なにー?」

「起き抜けで悪いが、大事な話をしてもいいか?」



ほら来た。
グラスを傾けてミルクを喉に流し込みながら、はシリウスに視線を向けた。
言葉にはしなかったが、肯定の意思は伝わったようだ。

シリウスが口を開く。





「明後日、出て行こうと思っているんだ」





ミルクが喉に詰まり、咽そうになるのをなんとか堪えた。
頭の中が「!?」で一杯のは、グラスを掴んだままリーマスの方に視線を向ける。
彼はいつも通りの表情で、の視線にしっかりと頷き返した。

ということは、出て行こうとしているのは一人だけではないのだ。

はようやくグラスをテーブルに戻し、どこを向いたものかと視線を彷徨わせた。
必ず起こる事だとは分かっていたのに、いざ目の前に突きつけられると上手く頭が回らなかった。



「………なん、で、明後日?」

「次の満月の、ちょうど1週間前だからね」



ようやく絞り出した疑問に答えたのはリーマスだった。
はせわしなく揺れていた視線の先を壁に掛かったカレンダーに定める。
その日には既に、の字で「午後から」と休みの予定が書き込まれていた。

とっさに月齢を計算することは出来なかったが、
来週が満月だと彼が言うなら、それを信じるより他にはない。



「…ママには、もう言ったの?」

「ああ。昨日の夜に」

「そっか。…ちょっと残念だけど、しょうがないもんね」



自分に言い含めるように呟いて、はトーストに手を伸ばした。
リーマスは少しだけ、シリウスはありありと、心配の色を表情に浮かべている。
はつま先でシリウスを小突いて、「大丈夫だよ」と言った。


大丈夫。
二人が来る前の生活に、戻るだけなんだから。















出て行くと告げられてから、は今日一日何をしていたのかよく思い出せない。
普通に食事をして、山のような宿題を少し消化して、テレビを眺めて。
表面的にはいつもと変わらない事をしていたような気がするが、
なんだか離れたところから自分を見ているような、ぼんやりした感覚だった。

このモヤモヤした感情を飲み込むべきか吐き出すべきか迷った末、
なんとなくの顔を見たくなって、母の部屋でごろごろして待つことにした。


、と呼びかけられて目を覚ますと、が居る。
眠気で重たい息を吐き出しながら時計を見れば、もう夜中だった。
おかえりと欠伸まじりに言うと、の手が寝乱れた髪を直してくれる。



「どうしたの、寂しくなった?
 犬枕でもお願いすれば、あの人は喜んだと思うけど」



の声は、見透かしたように優しい。

中途半端に眠りの世界へ足を突っ込んでいたらしく、の頭はひたすら重い。
帰宅したばかりの様子のが鏡に向かい、編みこまれた髪をほどき、
塗りたくられた化粧を落とし、ラフな格好に着替えるのを眺めた。



――犬枕って、なに?」

「あら、あのもさっとした毛をどうにかしてやりたくなったりしない?
 まぁ今は夏だものね、冬になったらきっと分かるわ。ちょうどあれも冬毛になるし」



どうやら犬枕というのは字面そのままの行為を指すらしい。
それ以上言及する気にはならず、は母の枕に視線を落とした。

“冬になったら”という言葉が胸に刺さる。
冬という、この先の未来の話に、ごく自然にシリウスが存在している。
そうなったら良いな、とは思う。だけどそれを望んで良いのか分からない。



「……わたし、言ってもいいのかな…」

「なにを?」



どうにも口が重たくて零れるように呟かれた言葉に対し、
穏やかながらしっかりとした反応が返って来た。

は意を決して再び唇を開いた。



「わたし、シリウスに“また来て”って言ってもいいのかな」



濡れたコットンを片手に持ったまま、は娘に振り返った。
は、自信が無いというよりはむしろ情けないような表情で身体を小さく丸め込んでいる。



「……なぜ、いけないかもしれないと思ったの?」

「いけないっていうか、言ったら困るかなあって。
 もう来ないつもりかもしれないし、無理して来ようとして捕まるっていうのもありえそうだし、」



中途半端に切った言葉を継いで、「他には?」とが続きを促した。
言ってしまうべきか迷いに迷い、は視線を彷徨わせた。

カチカチと、秒針の音がいやに響く。



「……また会いたいって思うのは、きっとわたしだけじゃないのに。
 なのにわたしだけ、そういうこと言っちゃうのってフェアじゃないというか、
 ――“自分勝手なやつ”って、なっちゃったら……やだ」



最後の方の言葉は、今にも消え入りそうな声だった。
がコットンを捨てて娘の隣に腰掛けると、の視線の先がようやく定まる。



「そうねぇ…例えばハリーは、シリウスにとても会いたいと思っているでしょうね。
 あの人が居ても安全な場所なんて現実的にはうちくらいだって頭では分かっていても、
 それをどう思うかは別の問題だし…表現の仕方を間違えれば、ケンカの種にもなってしまうかもね」

「………」

「ケンカしたくないなら、ちゃんと説明するなりすればいいじゃない。
 胸座掴んででもしっかり目を見て、余計な言葉で飾らずにね。
 ま、さすがに殴るのはどうかと思うけど」



はおどけた調子で最後の言葉を付け加えた。
だがそれでも、の視線から不安の色が消え去ったわけではない。

少し間を置いて、は再び唇を開く。



「シリウスのことなら、むしろあの人の方が内心びくびくしてると思うわよ。
 もう来るなって言われるんじゃないか、そのうち忘れられるんじゃないか、って」

「……ママは?
 ママはわたしのことワガママだって、思う?」

「わたし?」



思いがけず矛先が向き、は驚いたように目を瞬いた。
けれどの視線は変わらず不安そうにこちらを見ていて、
聞き間違いでも何でもないことを切実に語っている。

は娘の頭に手を置き、肩のほうへ軽く引き寄せた。
きれいに渦巻くつむじを眺めながら、慎重に言葉を選ぶ。



「わたしはむしろ、わがままを言ってくれることを嬉しいと思うわ。
 はいつも物分りが良いというか、それに助けられた事もあったけど…
 年相応のわがままさえ言わないのはちょっと心配というか、申し訳無いな、って」

「わたし、無理なんかしてないよ!」

「知ってるわよ、本心からわたしのことを心配してくれてるんだって。
 だけどね、子供の我侭を叶えてあげることが大人の醍醐味なんだから。
 わたしやシリウスやリーマスだったら良いのよ、言いたいだけ言っちゃいなさい」



は少しもがいて身体を引き離し、を見上げた。
思い出したように「でも学校ではダメだけどね」と付け加えるの口調は、やはり優しい。

朝から胸の奥にあった重たい靄が、少し軽くなったような気がした。















前日と変わらない朝がまたやって来る。

ミルクでふやけきってしまう前にと忙しなくシリアルを口へ運ぶを、
シリウスはどこか落ち着かない様子で窺っていた。



「…シリウス、何ぼーっとしてるの?今日は忙しいんだからね。
 掃除とか、日持ちのするご飯作ったりとか、あと髪も切ること!」

「ああ、すまな――…飯と、髪?」

「だって明日行っちゃうなら今日しかないでしょ?
 ママがなにか準備してるとも思えないし…」



言外に“お前のためだぞ”というニュアンスを滲ませつつ、視線を遣った。
シリウスの瞳にはどう見ても動揺の色が浮かんでいる。
仕切り直すのように、は「だからね」と言葉を続けた。
ざかざかとシリアルを掬う音が、お天気キャスターの声と雑じり合う。



「ちゃんと見送るから、戻って来る時もちゃんとしててってこと。
 髪もヒゲもぼさぼさとか、ローブの破れた所も繕わないとかじゃなくて…
 いざとなったらまたこっそり助けてあげるから、ちゃんとそのつもりで居てよ」

…」

「それにわたし見たことあるんだからね、シリウスの昔の写真!
 もう完全に別人っていうか…ある意味変装になるかも?」



感動とはまた違った節でシリウスは「ああ…」と呟き、
リーマスはそれを横目に隠す素振りすらなく笑んでいる。

わざとらしくは無かっただろうか。
内心怒ったり呆れたりしている素振りはないだろうか。

ずるい言い方をしたと自分でも思ったが、
自然とああいう言葉になっていたのだから、もう仕方ない。
ばくばくとうるさい心臓の音から意識を逸らして、は残りのシリアルを流し込んだ。


リビング奥の階段からは、が降りてくる軽い足音がする。
「大丈夫だったよ」とだけ言ったら、紅茶を淹れてあげよう。










ミッド・エンド・サマー
(いびつでも何でも、家族は家族)




















After the Lights Top  



これの後日談。