スポーツバッグをだるそうに肩の上から下げ、
一軒の閑静な住宅の前に、男が一人立っていた。
赤い髪の毛を清かに揺らし、学生服の上からでも分かる鍛えられた体。
一本木龍太は「ふぅ。」と軽く溜息をつくと、
「ただいま。」
と、焦げ茶色のドアを開けた。
今日は練習が早く終わり、明日は午前中に予定が入っていないので、
実家に帰省したのだった。
普段は夕日町のアパートに一人暮らしをしているのだが、
大体週に一回位は帰省している。
実家といっても徒歩10分の同じ夕日町内にある。
なぜ、そんな近くなのにわざわざ一人暮らしをしているのか、
大きな理由がこの家にあった。
「龍ちゃん、お帰りなさい。」
ニコニコと笑顔で出迎えた中年女性、一本木の母親だ。
「はい、これ。」
一本木はスポーツバッグを母親に渡すと家の奥に歩いて行った。
「今週もたっぷりのお洗濯物ね。先週の分は部屋に置いてあるわよ。」
一本木の背中に向かって声を掛けるが、返事は返ってこなかった。
「疲れてんのね。」
少し心配顔でつぶやいた。
しかし、すぐににこやかな顔になり、洗面所に行き、洗濯物を洗いにいった。
一本木はというと、自分の部屋に入り、ベッドにゴロリ。
そのままウトウトと眠ってしまった。
しかし、10分もすると起き上がり、
「母さん、シャワー浴びてくる。」
と、台所の母親に声を掛けて、バスルームへ行った。
ザザーッと音を立てて熱めのお湯が引き締まった筋肉に当たって弾ける。
すぐさま、バスルームの外から
「龍ちゃん、着替え置いとくわね。」
と声がした。
「わかった。」
とだけ返事をすると、長く、赤く光る髪にシャワーをかけた。
――中学生の頃、
一本木はやんちゃな少年だった。
色気付き、小生意気になった頃。
大切な友達ばかりだったが、俗に言う、悪い友達も沢山いた。
ある時、
「おふくろ、あのさ・・・。」
と言ったところ、
「りゅ、龍ちゃん、今、何て言ったの?‘おふくろ’って、言わなかった?」
食事の支度をしていた手を止め、驚いた顔で母親が聞き返した。
「言ったけど、何?」
きょとんとして聞き返した。
母親は一本木の元に駆け寄り、
「龍ちゃん、それって、あの子達が言ってたのを真似したの?そうよね。
ママはね、『ママ、ママ。』って言ってくれる龍ちゃんが大好きなの。
‘おふくろ’なんて言わないで。
ね、龍ちゃん、お願い。」
両手を握り、目を潤ませて揺さぶられたが、
驚いたのと、友達を悪く言われたのと、反抗期が重なったので、
「な、何だよ!」
そう言って、家を飛び出してしまった。
それ以来、家にはあまり帰らなくなった。
友達の家を転々として、なるべく母親の顔は見ないようにしていた。
そして、‘おふくろ’とは、それっきり呼んだことはない。
かといって‘ママ’と呼ぶのも嫌なので、‘かあさん’で落ち着いたのは、
応援団に入団してからのことだった。
高校に入り、百目鬼との出会いがあり、応援団に入団し、
一人暮らしを始め、週一回の帰省をするようにした。
応援団員になってからは、いろいろと周りが見られるようになった。
単身赴任の父親、一人家で待つ母親。
両親の仲は悪くはないらしいが、
長期間一人で家を切り盛りする母親のことを考えると、
寂しさ、家族への愛を理解できるようになった。
しかし、理解は出来るが、母親の愛情を素直には受け入れられないのだ。
母親の愛情はいつの間にか、一人息子の一本木にしか向けられていなかったからだ。
応援団に入ってからは特に、帰省する度に何かと世話を焼く。
母親なら当たり前、だが、度が過ぎるのだ。
いい加減腹が立ち、
「俺は赤ん坊じゃねえ!」
と一喝してからは、多少なりとも干渉の度合いが減ったものだった。
――嫌なことを思い出した、とシャンプーを思いっきり泡立てた。
「っちぇ、ったく。」
行き場のないやるせなさに、思わず声が出てしまった。
泡を洗い流し、バスルームを出ると、用意されたパジャマは着ず、
パンツのままリビングへ行った。
「あら、龍ちゃん、あのパジャマも気に入らないの?」
すかさず、母親が問う。
「自分のものは自分で買うから、いいよ。」
これが今出来る、精一杯の抵抗なのだ。
母親のことは嫌いではない、悲しませたくはないのだが、
丸っきり言うことを聞きたくはない。
「かあさんは、自分の欲しいものを買えばいいんじゃないの。」
「ママが欲しいものは龍ちゃんの物なんだもの。」
母親も負けてはいないが、最近はそういうやり取りが出来ることで
幸せを感じ取っているようだった。
一本木の向かいに座り、
「応援団、大変そうだけど、何かあったら直ぐに、ここに帰ってくるのよ。
ママはいつでも待ってるからね。」
微笑みながら顔を覗き込む。
「そんなにヤワじゃねーよ、あんたの息子だからな。」
少し照れて答えた。
「あら、そぉお?」なんて笑いながら、
「あ、そうそう、お隣の木村さんがね、
朝日町応援団のリーダーの西園寺君だっけ、
その子のファンなのよ、サインもらえないかしら。」
そう言うや否や、
「あいつとはダチでもなんでもねぇ。
そんなもん、もらえっか。」
と速攻返事があった。
子離れできない母親と、それを理解し、愛を持ってあしらっていく息子。
徒歩10分の距離、これがこの家族の手に入れた落ち着ける間隔。
こんな関係もいいじゃん、そう思う一本木だった。
龍太の過去、家族についてのお話です。
ちょっと暗めになっちゃいましたが、
この母親はたぶんあんまりめげてないと思います。
お隣の木村さんと応援団の話で盛り上がってんじゃないかな。