僕は別に自殺願望者というわけじゃない。自殺なんてそんなかっこ悪いこと、絶対にするもんか。人間は生きてこそ価値のあるものだと 思っているから。だから強くなるんだ。強い者こそ生き残れるこの社会。世界はそんなに優しくない。冷酷で残酷で、僕には心地良い温度 かもしれないけれど、にはちがう。は温かくて明るいきれいな場所にいるべきなんだ。の平穏は僕が守るから、どうか、どうか 泣かないで。君の不幸は僕がすべてぬぐいさる。僕がすべて引き受けるから。神が僕らを再会させた意味がわかった。を守らせるためだ ろう。いいだろう、君のいたずらは全部僕が阻止してあげる。何を犠牲にしたって守ってみせるよ。それが僕の役目なんだろう? おかしいな、神なんていもしないものに一人話しかけるだなんて、僕らしくもない。ああ、なれないことをした。


廊下を歩いていたら、の部屋の扉の前に黒いスーツを着崩した男が立っていて、僕は眉間に皺を寄せた。僕をみつけるとこっちに顔を 向けて笑った。その顔はいつもよりも元気がないような気がして、僕は舌打ちをこらえた。の部屋の前で、そんな顔であいつが立っているってことは、あまりよくないことが 起きているということだろう。僕が扉の前に立つと、僕よりも体の大きいその男が立ちふさがるように僕の前に立つ。なに、僕の邪魔を するなら咬み殺してでも進むけど。僕よりも背の高い男を見上げてにらむと、そんなこと気にしないように目を細めて笑った。


「よお」
「退いてくれないかな」
「頼むから、今日は帰ってくんね?」
「君の頼みを聞く義理はない。退け」
「そうはいかねえんだよ」


戻ってくれ、雲雀。低く、穏やかに響いたその声を聞いて、僕は嫌な予感から確信に変わった。望まないことをしている、だけど従わなくてはならない。 悲しい出来事。もう一度、退けと口を開いたら、耳鳴りみたいな高い音が聞こえた。音、というよりも悲鳴のような。くぐもったその声 はどこからでもない、目の前のの部屋から聞こえてきたのだ。この部屋は完全に防音が施されている。外には音が漏れないように造って ある部屋なのに、この廊下まで微かに届いた、悲鳴。頭のてっぺんからつま先まで、一気に血の気が引くような気分だった。さっと顔が 冷たくなっていくのを感じた。の悲鳴、悲鳴、悲鳴。泣き声、悲鳴、悲鳴。何を、した。目の前の男、山本武が眉間に皺を寄せて 難しそうな顔をして僕をじっと見つめる。そこを、退け。


「やめろ!雲雀…!」


やけに大きすぎる声だと思った。僕とこいつの距離はもう一メートルもなかったというのに、廊下中に響き渡りそうなほど大きな声に 眉をひそめ、間もなくトンファーを振り上げた。恐怖も驚きも感じられないその表情。わかったのは、少しだけ寂しそうに微笑んでいた ことだけ。助けてやれよ、王子さま。小さく、つぶやくように言ったその言葉を、僕は聞き逃さなかった。すっと目を閉じると簡単に 殴られてその場に倒れる姿はとても無様で、僕は鼻で笑ってやった。演技が下手だね、君。なんの抵抗もせずに退いてくれたのは、 君もを覚えていたからだろうか。はどれだけの人間に愛され、今も愛され続けているんだろうか。少し、妬ける。でも今はそれに 感謝の念すら抱きたい。を守るには、僕一人きりでは非力すぎるようだから。


扉には鍵がかかっていて、蹴破ってしまおうと扉を強く蹴っても外装が少しへこんだだけだった。ワオ、さすがボンゴレ。こんなに厚い扉を蹴ったのははじめてだよ。右足が少ししびれるように小さく震えた。やめて、とまた悲鳴が聞こえた。その直後、 気付けば僕はトンファーを振るっていて、目の前にあったはずの扉は重たい音を立てて倒れていった。中にいたのは黒いスーツを着込んだ 同僚。はっ、寒気がするよ。こいつらを仲間だなんて思ったことはない。だからといって敵と認識したこともなかった。でも今はちがう。 僕に逆らい、に仇を為すものは、この僕が全部咬み殺してあげる。こちらを見て驚いたような顔をして、口々に「Nube」とつぶやくやつらを 一人ずつ殴り倒した。「Nube」と呼ばれるのも、今日が最後だろうか。幹部である僕らにはひとりひとりに称号があたえられる。僕は雲の 称号。イタリア語で「Nube」というらしい。これからは「裏切り者のNube」と呼ばれるんだろうか。そう考えると、少し楽しくなった。


「お、おやめください雲雀様!これは立派な反逆行為ですよ!?」
「何をしているのか答えてごらんよ」
「…ボスのご命令です。に両親暗殺時の記憶を、戻せと」


白衣を着た、ボンゴレの医療スペシャリストであるその男は僕もよく知る男だった。怪我をするたびに僕の治療をしたのがこいつだから。 だからよく知っている、こいつが人の記憶を操る能力を持つことも。なぜ、こんなことを。横目でを見たら、ベッドの上ではなく床に 座り込み、頭を抱えて震えていた。むごいまねを。その男も殴り倒してからにかけよった。全身をぶるぶる震わせて耳を必死で押さえて いる。肩に手を置いたらその瞬間に強く跳ね除けられ、同時に大きな悲鳴をあげられた。なんてことを。こんな、無理矢理記憶を戻して どうすると言うんだ。せっかく忘れていられたのに。悲しいことなんて、君にはひとつも味あわせたくなんかなかったのに。うわごとの ようにお父さん、お母さんとつぶやいている。両親がどれくらい大切な存在なのかを、僕は知らない。でもこの子は知っている。僕にないもの を全部持って、愛を受けて生まれ育ってきた子だ。そんな子から、平穏な生活を奪っておいて、こんな仕打ちはあんまりじゃないか。 ごめん、ごめん。僕が、僕が生かしたからいけなかったんだ。あのとき君に気付かずに殺されるのをただ見ていれば、君にこんな思いを させることはなかっただろう。ごめん、僕が悪い。僕が君を忘れられない日々を続けて、君を夢見る日々を続けて、君を待ち焦がれて いたから。一目見ただけでわかってしまうほどに君を求めていた、僕がいけなかったんだ。僕が、僕が。


「お、おと、さんと、か、さん、かえ、して」


お父さんとお母さんをかえして。嗚咽にまじって、震えてかちかち鳴る歯にまじって、は小さくそういった。この子は心を失ってしまう 。心を閉ざしてしまう。そんなこと、させてはいけない。生きていることを後悔する日々など、君には知ってほしくない。どうか、どうか お願いだ、僕はもうどうなってもいい。君がもう一度笑ってくれるのなら、僕は、もう。狂いきったその、悲鳴とは 呼べない声が部屋中、そして廊下中に響き渡って、やんだ。意識を失ったの顔は真っ青で、全身がとても冷たくて、このままショック死 してしまうんじゃないかと思った。やっぱり、だめだ。僕は君を生かしたことを後悔なんてしていない。君が、君を、生きた君にこうして またふれられる喜び。もう、どうしてこんなにもうまくいかないんだ。僕はの幸せだけを願うのに。僕が君に触れることを望んだ罰だ ろうか。もう一度君と言葉を交わし、笑顔を見たいと思った僕の浅ましい欲への、罰だろうか。僕にのみ降り注ぐ罰ならばいい。はまだ こんなにも小さい。小さくて弱くて、とても脆い。どうか、もうが二度と泣かないような世界へ、連れて行ってくれよ。











20070411