何年ぶりだろう、うちに帰るの。うそ、何年なんてうそ。でも、そんなふうに錯覚してしまいそうになるのは、なぜだろうな。 ぼんやり、ボンゴレ側が用意してくださった真っ黒で高そうな車に乗りながら思った。私の目の前を通り過ぎていく景色が、どんどん 見知ったものになっていく。私の知る、町並み、道路。こうやって車に乗って、窓の外を眺めるのは久しぶりだ。あの日以来、あの日。 そうだ、あの日もこんなふうに、外を眺めていた。時間帯は全然ちがうのに、どうしてだろう、重なる。この車のにおいも、座席の色も、 何もかもちがうっていうのに、私は思い出す。今まで逃げていたこと、思い出す。どうしてだろう、こんなときにそばにいてほしいと願う 人は、雲雀さんだ。雲雀さんの顔がちらついて、でももう会えないのかなと思うと、なんだか胸が苦しい。ひっひっひ、変な音がする。 胸がひゅーひゅーする。胸?のど?わからない。息をうまく吸い込めないような、感じ。一生懸命吸い込もうとするのに、ぜんぜん空気が 入ってきてないみたいな。あ、どうしよう、きついかも。なにこれ、呼吸不全?えっと、私そういうこと全然詳しくないんだけど、えっと、 涙をこらえすぎたせい?いや、でも今は泣くの我慢するのそんなに強くしてないし。あれ、なんか頭がびりびりする。ちょっと、どうし よう。落ち着け、大丈夫、大丈夫。これからはひとりでやっていかなくちゃなんだから、こんなところで、負けるなよ。ひとり、そう、 ひとりで。


「着きました」
「あ、ありがとうございました」


一度だけお礼をいって、すぐに車をおりようとしたら、低い声で呼び止められた。


「もうご理解くださっているとは思いますが、ファミリーのことは」
「わかっています、誰にも言いません」
「ボスのご厚意をくれぐれも忘れないよう」


車を運転してくれていた人は見たこともない人で、私のほうを一度も見ようとしない目は、ひどく冷たかった。心がきゅっと絞られるような 、嫌な感触がした。寂しいというか、悲しいというか。ああ、ひとりになったんだなと思った。ここにはもう、私を守ってくれ る人たちはいない。そう考えると、どれだけ多くの人に迷惑をかけていたのかがよくわかる。 情けない、してもらうばかりで何も返せていないじゃないか。たくさんのものを もらったのに、私は、それでも足りないっていうのか。まだ守ってほしいだなんて、そんな無礼なことを思って、馬鹿だ。ひとりなのは しょうがないじゃないか。だって私は何もしなかった。してもらうばかりで。そうか、やっぱり私はあそこにいるべきじゃなかった。 きっと私が邪魔だったにちがいない。だけどみなさん優しいから機会をつかめずにいたんだ。本当に、馬鹿がつくほど優しい。私なんて 守ったって何にもいいことないのに。私は、何もできなかった。何か恩返し、できればよかったのに。ああ、もう、会うことはない。


馬鹿だ、馬鹿だ馬鹿だ。ああ、逃げるみたいに、すねるみたいに出て行くよりも、することがあっただろうに。お礼も、お詫びも、まとも にできていないまま、飛び出してきて。馬鹿だなあ。私はどれだけ愚か者だ。追い出されて当然だ。追い、だされ、たんだよね。なんで だろう、たくさん悲しいのに、涙は出そうにない。心にぽっかり穴があいたみたいだ。でも、心なんてどこにあるのかわからない。きっと どこにあったって傷ひとつだってついていない、きっと。むしろ私は傷つけてきたんだ。


ポケットを探ったら、冷たいものが手に触れた。手のひらに転がる鍵を見下ろしてから、もう一度自分の家を見上げた。大きくも小さくも ない、平凡なこの家。ぎゅっと鍵を握ったら、手馴れた感触がした。どこかへ行くときも、どこかから帰ってきたときも、私の相棒は これだった。出かけるとき、家にはもう誰もいないから私が鍵をかける。帰ってきたとき、家にはまだ誰もいないから私が鍵を開ける。 なつかしいこの友のことを、ずいぶんと忘れていた。鍵を差し込んで回したら、懐かしい音がした。がちゃり。重たい腕を持ち上げてドアノブを引いたら、 扉が音も立てずに開く。全部当たり前のことだったのに、ずいぶんと久しぶりで、なんだかこれさえも懐かしく思えて。開いてすぐ見える玄関も、 並んだ少ない靴も、何も変わっていなくて、頭がずっしり重たくなったみたいにうまくあげられなくなった。えっと、まず、何をしよう。 脱いだ靴も並べないまま中へ進んで、リビングをのぞいたら、いつもと変わらない場所だった。何にも変わらないじゃないか。何を恐れて この場を避けていたんだ。私が学校から、どこか遊びに行った場所から、帰ってきたときと何も変わらない風景。何も、変わらない。あの 日々と。お父さんとお母さんがいなくなったから、なんだというんだ。お父さんと、お母さんがもう、帰ってこないからって。長い長い 出張に出かけたんだと思えばいい。ひとりで留守番しているんだと思えば、つらくない。いつか慣れる。大丈夫、大丈夫。お父さんも お母さんも、もう帰ってこないけど、大丈夫。私はひとりでだって大丈夫。ひとり、ひとり。


冷たい感覚が、じわじわ頭にのぼっていくみたいだ。ひゅっひゅって、胸が鳴る。息ができない。空気が、酸素がうまく吸い込めない。 どうしよう、さっきよりも苦しい。のどが冷たい。どこかが熱いのに、体中が冷たくなっていくみたいな。空気、ああ、酸素が、酸素。 唇が乾いている、でも、どこもかしこもしびれるみたいにうまく動かなくて。ひとり、ひとりなんだ。ちょっと前までなら、平気だった かもしれない。だけど私はこの一ヶ月間。私は知ったんだ、家に人がいるってことを。同じ屋根の下に、人がいる、喜びを。なんでもない ことなのかもしれない。だけど、だけど嬉しかった。それは私にとってとても大きなことだったというのに、それに、慣れを感じていたん だろうか。このひとりという、とても懐かしい感覚が、つらい、苦しい、悲しい。ああ、誰かそばにいて。こんな、ここは私には、ひど い。助けて、助けて、私が助けてと思うぶん、願うぶん、涙になっているみたいに頬を伝う。死んでしまいそう、苦しい。せっかく 紡いでもらったこの命を、壊してしまう。どうしよう、死んでしまうよ、死にたくない。恐い恐い恐い、誰か助けて。こんな、こんなふう に死んでしまうのは、いやだよ。死にたくない。ひとりは、いやだ。


耳鳴りかと思った、いろんな音が。ばたばたばた、も、どたんばたん、も。耳鳴りだと思っていたのに、押し倒されるように抱かれる腕の 温もりが、たったそんな、腕だけの温もりが、私の涙を一瞬止めて、それからまた別の意味でぼろぼろと崩れるように涙がこぼれ出た。 肩を抱く手、背中をさする手が温かくて、どうしようあったかい。


、ゆっくり息をして」


息が、さっきからできないの。助けて、助けて。どうしたらいいですか。頭ぼうっとするのになぜだか冷や汗でてきそうなくらい頭が冷たくて、 どうすればいいんだと思っていたら、温かい手が私の目を覆って真っ白だった世界を真っ暗にした。真っ白から真っ暗になったのに、逆に 安心するのはなんでだろう。でも息が苦しいのは治らないまま、どうしようかと思っていたら口が、塞がれた。そのまま温かい空気が 吹き込まれて、頭をもう片方の手で押さえられてて、そうするとゆっくり楽になっていく。魂が、抜けていくみたいだと、薄らいでいく 意識の中でぼんやりと思った。











20070504