なつかしい、においがした。長い間太陽の光を浴びていない、シーツのにおい。目が覚めて一番に思ったことは、布団干さなくちゃ。 そして頭がはっきりしてきてから、自分を笑ってみた。習慣が抜けていない。一ヶ月も家を離れていたっていうのに、私は何にも忘れて いない。自分の部屋だった。小さな自分だけのスペース。私が最後にここを出たときと、何もかわっていなかった。あ、もう胸が苦しく ない。落ち着いた、みたいだ。気を失う前のことを思い出してみても、ぼんやりしていてよく覚えていない。でも、雲雀さんのことは 覚えてる。雲雀さんが私を落ち着けてくれた。視界を手で覆われたのは覚えてる。でも、空気を吹き込まれたのが、あれ? 思い出そうとたどる記憶はなんだか曖昧すぎて、どれが現実でどれが夢だったのか区別をつけるのが難しい。深く考えるのはそこでやめ、 わたしはぐるり、窓のほうに顔を向けた。カーテンの 引かれた窓。カーテンを少しめくってみたら、もう月がでていて、夜はまだ浅いみたいだけど、真っ暗な空が広がっていた。階段をゆっく りおりていったら、リビングの電気がついていて、私の心にも電気がつくみたいにぽっとあったかくなった。


「ああ、起きた」
「雲雀さん、あの、わたし」
「お腹空いた?どこか食べに行こうか」


雲雀さんはソファに座って、まるでこの家の住人のように、コーヒーをすすりながら新聞を手にテレビを見ていた。テレビからは男のアナウンサーの低い声だけが 響いていて、ただたんたんとニュースが流れ続けていた。ひとりじゃない、幸せ。この家に人がいるってことが、嬉しかった。馬鹿みたい だ、こんなことでまた泣きそうになってる。雲雀さんの少し着崩したスーツ姿をみたら、ちょっとお父さんを思い出した。お父さんのほう がもっと年上で、もっとかっこよくなくて、背の高さだってちがうはずなのに、どうして重なるんだろう。気付いたら、私は雲雀さんに、 後ろから首に手を回して抱きついていて、驚いた。お父さんにいつもこんなことをしているわけじゃない。でも、お父さんがもし戻って きてくれるなら、一番にこうしたいって思った。遠い日に、おんぶしてもらったことは今でも覚えてる。お父さんの広い背中を覚えている から。雲雀さんの背中はお父さんよりもせまくて、匂いもちがって、だけど安心した。思わず「おとうさん」ってつぶやいたら、雲雀さん の手が私の頭の上にのっかって、撫でられるわけでもなく、ただ乗せられて、声を殺して雲雀さんのシャツを濡らした。その間、雲雀さんは一言も言葉を発することはなく、 私が泣き止んでから私を隣に座らせて話し始めた。


「僕は明日の朝までに、本部へ戻らなくちゃならない」
「はい」
「君を家に帰そうとしたのは、君には君の生活があるから、それを思ってのことだったんだよ」
「私の生活って」
、君はまだ若い。学校だってあるだろう。君も一緒に本部にくることになれば、外部との接触は難しくなる。学校だって行けなくな るし、友達にも二度と会えなくなるかもしれない。それでもいいというのなら、僕についてきてほしい」


顔に火がつきそうだった。私は、私は馬鹿だ。雲雀さんや、ボスが、私のことを考えて言ってくれたことなのに、私は勝手にすねて、 仲間はずれをされたみたいに、勝手だ。僕についてきてほしい、そう言った雲雀さんの真剣で、だけどちょっと寂しそうな顔が、また涙を 誘って私はまた泣き出しそうになった。弱虫、どれだけ泣いたら気が済むんだろう。明日から水を一切飲まなければ、涙なんて出てこない だろうか。そんなの無理だ。人間は水を飲まなきゃ死んじゃうんだぞ。死んだら、いやだ。雲雀さんにせっかく紡いでもらったこの命、 捨てるもんか。それに、もっともっと生きたいよ。また、優しい言葉をもらった。一緒にいることを許してもらえた。もっともっと、雲雀 さんのそばで、生きたいです。


「いきたい、です。雲雀さん」


行きたい、生きたい。両方の意味をこめていったら、雲雀さんは気付いているのか気付いてないのかわからないけど、困ったみたいな、 うれしいみたいに小さく笑って、今度こそ私の頭を撫でてくれた。


本部はここからだとすごく時間がかかるみたいで、雲雀さんは私が急いでつくったご飯を私の速度に合わせてくれながら食べて、それから うちの車庫にとめてあった見覚えのない車に乗ってうちを出た。きっと、もうこの家に戻ってくることはとうぶんできないだろうから、 持って行きたいものがあれば急いで用意するようにって言われて、私は衣服だけを小さなトランクに詰め込んで外へ出た。お父さんと お母さんの写真をさがしてみたけど、どこにもなくて、しょうがないから何も持たないことにした。乗り込んだ車は、新車みたいなにおい がして、あんまり見かけない車種だと思う。ためしに、これは誰の車ですかって聞いたら、僕のって短く返ってきた。雲雀さんの車かあ。 真っ黒で、線がなめらかで、傷なんてまったくなくて、雲雀さんにぴったりな感じの車だった。静かな車が、あまり車の走っていない高速道路 を流されるみたいに走っていく。夜はもうそろそろ深くて、だけど眠気はない。ただ、本当に静かなこの車の中で外の景色を見ている だけ。



「はい」
「退屈していない?」
「退屈、ですか?」
「僕はあまり多くしゃべるほうじゃない。静かな車内は退屈じゃないか」
「あんまり、考えたことないです。静かなときは、いろいろ勝手に考えてしまうんで」
「そうか、ならいい。君といるのはやっぱり退屈しないな、


そういえば、雲雀さんは私のことをと呼んだりと呼んだり、ばらばらだ。どうしてだろう。比較的、と呼ばれるほうが多いのかも しれない。数えたことはないけど、たぶん。でも呼ばれなれている気がするのは、と呼ばれたときだ。なぜか違和感を感じない。むしろ そのほうが嬉しいと感じるのはなんでだろう。


「雲雀さん、名前か苗字か、統一させませんか」
「何を?」
「呼び方、ですかね」
「…じゃあ、で」


そっちできたか。











20070506