獄寺さんの、うそつき。夕方までには帰ってくると言っていたのに、雲雀さんは夕方を過ぎても戻ってはこなくて、私はとにかく暇を もてあましていた。獄寺さんはというと、食事のとき以外は自分の部屋へ戻ってしまって、しかも一人では絶対に外出しないという約束まで取り付 けさせられた。食堂へ行くときに迎えにきてくださるのも送ってくださるのも嬉しいけど、小さい子ではないのだから外出くらい許し てくださってもいいのではないかと少し不満に思いつつ、きちんと約束を守って部屋の外へは出なかったというのに。獄寺さんが部屋の外に 出るなといった 意味がわからないわけじゃない。この本部の中は道がとても入り組んでいて、一度踏み出せば二度と同じ場所に戻ってはこれないような 気がしてしまうほどだ。私はとくに方向音痴だし道を覚えるのは苦手だし、迷子になることがもう決まっているようで、そんな恐いこと自分から進んで することもないと部屋でおとなしくしていた。だけど、私がおとなしく待っていられたのは獄寺さんの言うとおり雲雀さんは夕方くらいに 帰ってくるだろうなと思っていたからで、太陽がとっぷり沈んでしまったって帰ってこない雲雀さんを待ちながら、だんだん迫ってくる 睡魔に耐えていた。


寝る前にお風呂、入りたいなあ。それに雲雀さんが帰ってくるまで寝たくないし。だからといって暇だ。ソファに体を 沈めながら、ぼんやりと浮かんだ獄寺さんの顔を思い出し、言われた言葉を振り返ってみた。部屋から出るなよ。なんか用があったら俺の 部屋たずねろ。俺の部屋はこの部屋の隣の隣の隣だから。そこまで思い出して、ぱっと一瞬眠気が吹き飛んで、良いことを思いついた。 どうせ暇なんだ、雲雀さんが帰ってこないことを理由に獄寺さんの部屋に遊びに行ってみよう。迷惑がられても知るもんか。雲雀さんが 夕方に帰ってくるってうそをついたのは獄寺さんなんだから!とか、理由をつくってみたけど、本当の理由はこの広い部屋に一人ぽつんと いるのは、とても寂しかったからだ。部屋には電気も灯してあるのに、私の心はずんずん深く暗くなっていく。これはあんまり良い傾向 じゃないから。思いついたら善は急げ!私は部屋を抜け出した。


隣の隣の隣の隣?あれ、隣ってわたし何回言った?獄寺さんは何回言った。3、4回だったと思うけど、あれ、どっちだっけ。何回だ? 廊下を歩いてみても、おんなじ扉がおんなじ間隔で並んでいるだけで、表札も何もついてやしない。扉をひとつひとつ見送りながら、廊下 をただただ歩いていくと、いくつもいくつも果てなく扉が続いているように錯覚した。もういいや、やっぱり雲雀さんの部屋に戻ろうと 回れ右をしたとたん、いやな汗をかきだした。あ、れ、雲雀さんの部屋って、どこだ。私はいくつくらい扉を見送ってここまできたんだ ろう。うわ、馬鹿だ!なんて計画性のない人間なんだ私は!どうしよう、獄寺さんの部屋はどこだとかいう前に、雲雀さんの部屋はどこ だ。ああ、ああ、どうしよう!それからの私といったら不審者だった。明らかに不審な人だった。廊下の同じようなあたりを何回も 行ったりきたりして、誰かに見られたら絶対に変な目で見られたと思う。というか誰かに見られたって構わないくらい困っていた。むしろ 誰か通ってくれないかと期待したというのに、人っ子一人通りませんよ!そろそろ疲れてきて、私は足を止めた。ひとつの扉の前で。もう いいや、ご迷惑になったとしても、適当に扉をノックして、出てきた人に雲雀さんのお部屋をお聞きしよう。スパイか何かと思われたら どうしよう。うんでもそうでもしないと先に進めないし、雲雀さんにこんな恥ずかしい姿みせたくないというか。ああ、もう部屋から 出ようなんて考えませんからどうか、どうかこの扉の中の人が優しくてあんまり私のことを気に留めない人でありますように!


コンコン、音が廊下に響いた。うう、中に人がいなかったら、隣の部屋でおんなじことをしなくては。この変な間が私を殺す。いるのか いないのかはっきりしてください。ここが偶然でも獄寺さんの部屋であってほしいと願う。 私の心臓がばくばくいって変な汗をかきはじめています。ああ、雲雀さんが帰ってきたらお風呂に入れさ せてもらおう。雲雀さんの次でいいんでお風呂にいれてくださいって、言おう。迷惑かな。でも汗くさいのは雲雀さんもいやだろうし、こ こは勇気を出してお風呂入らせてくださいって言うんだ!ようし言うぞ!


「はい」


心臓が口から出るかと思った。馬鹿だな私、別のこと考えるのはいいけど、状況を考えようよ。自分からノックして、その返事がかえって きただけでどうしてこんなにも驚いているんだ!中から男の人の声が聞こえた。獄寺さんじゃない人の声。遠くて小さくて、だけどはっき りと耳に届いた。落ち着いた大人の人の声だ。私がお風呂入らせてください!って言うときと同じくらいの勇気を持って、ゆっくり小さく 扉を開けて、あ、あのおと言ってみた。声がのどにつっかえて、あんまり大きな声が出せないんですが、これはなんででしょうか。中は 真っ暗で、声の主の人の顔は見えない。


「おや、可愛いお嬢さん。どうかしましたか?」
「えっと、あの、迷子になってしまって」
「君はここの住人ではないのですか?」
「今日から住まわせていただくことになったんですけど、も」
「それはそれは。ようこそボンゴレへ」
「あ、どうも、ご挨拶が遅れまして」
「いえいえ構いませんよ。ゆっくりしていきませんか、可愛いお嬢さん」


歌うような、誘うような、子供の私でもわかるくらい魅力的な声だった。顔がぽっと熱くなってしまいそうなくらい、声に色気があって、 艶があって、思わずなんでも首を縦に振ってしまいそうになるような、妖艶な声だった。こういうのって普通は女の人が男の人を誘うはず なのに、男の人がすごく色気のある声を持ってるなんて、すごいなあ。すごく低く響いて魅了するような、ダンディな声なんかじゃなく て、青年が歌うように、だけど若い独特の響きのある甘さを持っている、なんていうか、とにかく素敵な声だった。素敵というか、少し こわいよう、な。


「君のような可愛いお嬢さんが、このような血生臭い場所に入っていただけで、とてもうれしいです」
「へ?血なまぐさい?いや、別にくさくないですよ、この部屋。どちらかといえば、香水のような…」
「この部屋のことではありませんよ。クフフフ、おもしろい子だ」
「あの」
「はい」
「男の方、ですよね」
「ええ」
「女物の香水をつけてらっしゃるんですか?」
「いいえ」
「あれ?でも」
「さっきまで女性と遊んでいたからでしょうか」
「ああ、なるほど」
「非常に、不愉快だ」


ぞくっとした。よくわからないけど、ぞくっと背筋が震えて、今すぐに部屋から出て行きたいような衝動にかられた。そのくせ、足は 動こうとはしないし、いきなり部屋を飛び出してもこの人に失礼だし、結局私はただ動けずにぞくぞくたまに震えているだけだった。この 震えは知っている。えっと、ホラー映画みてるときとか、そういう感じ。ホラー映画は得意じゃないからあんまり見たことがあるってわけ じゃないからはっきりとは言えないけど、この背筋を通っていくみたいないやな感じはそうだ。直感が恐いと知らせてくれて、やめたほう がいいよとアドバイスをくれて、でも、少しだけ期待する自分がいる、この、独特の変な感じ。ひやりとした感覚が手に触れて、驚く間も なく強く手を引かれた。私の手を引いたものが、人の手であると気付いたのはそれから間もなくだ。突然引っ張られてバランスを崩した私 はそのまま前に倒れこんで、片膝が何かに乗り上げた。このスプリングが跳ねる感じ、ベッド?引かれていないほうの手が触れたものは、妙に冷たい人の、肌。


「可愛いお嬢さん、君からは良いにおいがしますね」


はっきり見えた、きれいな、顔、目。私の片手はこの人のむきだしの肩に触れているはずなのに、生きた体温が感じられなくて、私は急に さっと血の気が引いていった。自分の顔が冷たくなっていくのがわかって、気付けば大声を出していた。高い悲鳴 をあげていた。だけどもっと驚いたのは私がいくら叫んでも、私の手をつかむ手も、私が触れている肩も、びくりともしなかったことだ。 動じない、その顔はゆっくり微笑んでいくように見えて、涙が、浮かんだ。


「その手を放しなよ、殺されたいのかい?」
「それほどまでに大切なものならば、誰の目にも触れられぬ場所に隠しておけばいいんですよ。僕ならば、そうするでしょう。ねえ、雲雀恭弥くん」


風が私の頬をかすめて、気付けば声が聞こえて、男の人が雲雀恭弥くんといったとたん、鈍い音がした。どかん、とか、どごん、とか、そ んな感じの鈍い音が。暗いのと涙とで前がぜんぜん見えなくて、慌てふためいていたら、ちゃんと温かみのある手で腕をつかまれて、ぐっ と引かれた。手の温かみにほっとしたくせに、びっくりして、あと恐いのがまだ消えていなくて、私はとっさに振り払おうとしてしまっ た。それなのに力強くつかまれた腕を放してくれなくて、私はただただ後ろへ引っ張られていった。転びそうになるのを何とか支えながら なすがままにされていると、気付けばあたりは明るくなっていた。いや、明るい場所に出ていた。廊下に出たみたいだったけど、腕を引く 人は足を止めない。涙でにじもうとも、今度こそよくわかった。


「ひ、ひばりさぁ、ん…!」


嗚咽が漏れ出して、泣きじゃくりながら名前を呼んだのに、雲雀さんは立ち止まりも、振り返りもしてくれなかった。いくつか扉を通り すぎて、雲雀さんはひとつの扉を開けた。そこは確かに雲雀さんの部屋で、雲雀さんの姿や、その部屋のにおいやらで、なんだか気持ちは だんだん落ち着いてきた。まだ、女物の香水のにおいが鼻についているみたいに、消えないのだけが私の涙を誘った。部屋へ入ってもつか まれた腕は放してもらえなくて、乱暴にソファに座らされると、雲雀さんは私の両手を握って私の目の前に膝をついた。


「何をされたの」
「な、なに、も」
「何もされてないくせに、どうしてあんな大きな声を」
「こ、こわ、こ、こわくなって」
「恐く?やっぱり何か」
「あの人、おばけなんですー!」
「は」


雲雀さんに強く握られた手が、熱い。











20070515