本気で殴ってしまおうと振り上げた腕は、目の端で女が飛び込んでくるのを確認するや否や戸惑いなんだかよくわからないものに邪魔され て、本気どころか力の半分だって出せずに振り下ろされた。そんなわずかな力で殴っただけでも簡単に気を失ってしまうほど脆い女に、僕 の心はざわめかせられた。女が倒れる直前に言い放った言葉と、その眼差しがあまりに真摯だったせいだろうか。わけのわからない、頭の いかれた女の言葉が頭の中で、繰り返される。すぐに女は応接室から運び出され、僕はそれを何も言わずにただ呆然と眺めていた。なぜだ か声が出なかった。何も考えられなくて、何も考えたくなくなった。女は言った。あなたは雲雀さんじゃないと。僕と話をしたこともない 君が、どうしてそんなことを言えるのか。僕の何を知ってそんなことを言えるのか。ただの頭のおかしい女の言葉なんだから、気にしなけ ればいい。そう思うのに、どうしてだか引っかかって取れないんだ。だって、僕にもわからない。僕がどんな人間であるのか。


静かになった応接室で仕事を再開する気にもなれず、ただソファに腰掛けて窓から入る風に髪をそよがせていたときだった。カサリと微か に葉が揺れる音がした。風が揺らしたせいじゃない。枝が重みに耐え切れずにあげた、悲鳴の音だ。誰だろう、なんて疑問は愚問だ。僕の 予想通り木の枝に腰掛けていたのは小さな赤ん坊だった。


「保健室、行かねーのか」
「何の話だい」
「ツナたちは教室に戻ったぞ」
「どうして僕が」
が、お前に会いたがってんだ」
「誰に会いたがっているって?」
「雲雀、恭弥にだ」


本人がそう言ったのかと問えば、赤ん坊が黙って何も言わなくなってしまった。その表情がいつもよりも真剣に見えたせいかは知らない が、僕は赤ん坊の言うとおり保健室へ向かうことになってしまった。まあ、赤ん坊に貸しをつくっておくことも悪くはないだろう。それに 僕もあの女のことが気になっていないといえば、嘘になるだろうから。あの女のことがいい意味でも悪い意味でも気になっていたんだ。 言葉では表しきれないような、もやもやした霧のような不愉快な感覚。すっきりさせるためにはあの女の存在が不可欠だと思った。


ただひとつ、保健室に立ち寄ることに抵抗があったのはあの男の存在だ。保健医がどうしてあの男なのか、再度校長と話し合わなければな らないな。いないことを願うけど、いたらいたで今度こそ咬み殺すだけだ。以前のような失態は犯すものか。というか僕は、負けてないし ね。保健室の扉を開くと中はやけに静かで、保健医の存在も感じさせなかったことにまず安心した。できれば会いたくない相手。あの男 は、気に食わない。授業中のせいか学校中が静かのようで、開いた窓から吹き零れる風の音と体育の授業の生徒たちの声が聞こえるだけ。 この空気は嫌いじゃない。保健室の清潔ぶった白も、嫌いじゃない。汚したくなる衝動はしょうがないけれどね。二つあるベッドの 片方に横たわる人物をみつけて、僕はゆったりその傍らに近づいた。伏せられたまぶたに偽りはなさそうだ。本当にこの女は、眠っている らしい。会いたがっているのではなかったのか、僕に。いや、ちがう。僕にではなく、雲雀恭弥に会いたがっているんだったか。


まぶたが微かに揺れて、目を覚ますのかとぼんやり思った。だけど女はその瞳を開くことなくまぶたを強く閉じ、苦しそうにのどから声を 搾り出す。


「ひ、ばり、さん…っ」


大きな粒の涙がぼろりぼろりと強くふさがったまぶたから零れだし、真っ白なシーツを汚していく。おかしな光景だ。目の前の女が僕の 名前を苦しそうにつぶやきながら涙を流している。別に僕は今こいつを殴っても蹴ってもいないっていうのに、だ。それともさっき殴られ たことを夢にでも見ているせいか。どちらも、ちがう気がした。だってこいつの声は悲痛な叫びなんかじゃなかったから。愛おしげに、 助けを求めてすがるような声。僕の心をざらつかせるには十分だった。がつん、音とともに痛みが足に走った。気付けば僕は目の前にあっ たベッドを思い切り蹴っていて、白いベッドは気が狂ったみたいにぎいぎい言いながら揺れている。ワオ、地震みたいだね。ベッドの上で 眠っていた女が飛び起きるように体を起こしたかと思えばそのままベッドから転がり落ちてしまう。しかもベッドから落ちてすぐに、何を するかと思えばまだかすかに揺れているベッドの下にもぐりこんで「じじじしん!?」などと言って震えている。おかしな光景に、思わず 口の端があがる。声を上げて笑ってもいいかな。


「大丈夫?」
「ほほほら地震が…!まだがくがくしてるう頭ががつんがつんするうう」


どうやら本物の馬鹿らしい。おかしいくらいに慌てて頭を両腕で覆っている。その顔は真っ青だ。荒々しく巻かれた頭の包帯からは血がに じみだしているし、傷口が開いたんじゃないか?僕には関係ないかと思ってベッドに腰掛けていると、恐る恐るというように女がベッドの 下から顔をのぞかせてきた。


「じ、地震はおさまりました、か」
「どんな夢を見ていたの」


無視ですかという声が聞こえてきたけれど、聞こえないふり。だって答えてやる義理なんてないし。僕は自分の疑問を早く解消させたいん だよ。どうして初対面の君が、僕の名前を呼びながら涙をこぼすんだ。どんな理由があるのか聞かせてもらいたいね。ここで、おもしろく ない嘘でもつこうものならまた殴っちゃってもいいかな。いかれた頭がますます壊れてしまうかもしれないけど、僕には関係ないしね。 恐る恐る僕の真後ろに腰掛けたかと思えば、痛いくらいの視線を浴びる。気分が悪い、こっち見るなよ。わけのわからない女だ。僕を見て 怖がることもしないのか。さっきあんなふうに殴り飛ばしたというのに。まあ、僕からしてみればあんなの殴ったうちにも入らないけど ね。ただ、君を殴ったときの感触だけは覚えてる。なぜだかいやな感じがぬぐいきれないんだ。


「僕の質問に」


いつまで経っても言葉をつむぎはじめないことに痺れを切らして振り返ると、女がなぜだかベッドの上で正座をしながらぼろぼろと泣き 出している。待てよ、僕はまだ何もしてないぞ。


「どうして泣いているの。今も、さっきも」


気付けば質問を変えていて、呆然と女の泣いている姿を見ている自分。何がしたいんだ。いや、何もできない。どうしたらいいのかもわか らない。だってまったく意味がわからないじゃないか。どうして僕を見て泣くんだ。それも恐怖に震えて泣いているわけじゃない。その頬 には赤みが差し、何かを抑えるように静かに涙を流しているんだから。嗚咽が大きくなって、ひゅーひゅーと喉が鳴ったかと思えば女は 小さくつぶやいた。


「雲雀さんに、会いたい」


同じ言語を使っているはずなのに、どうしてこんなにも理解できないんだろう。その切ない声音に、僕はため息でさえつけなかったんだ。











20080101