女は頭まで布団をかぶって、微かに震えている。どうやら泣いているようだ。それに気づかれまいと声を殺して布団で顔を覆い隠しているようだが、僕はそれに気付いてしまっている。そしてこの女は僕が気付いているということにも気付いている。ならばいっそ隠さずに泣けばいいのに、どうしてこうも無駄なことをしたがるんだろう。僕はどうやらこの女の涙には弱いようで、ほかの誰が泣いたってぐらつかされない僕の心がこの女が泣くことでぶるぶると震えだす。何かに恐れるみたいに、何かを喜ぶみたいにざらついてしまう。できることなら泣きやんでくれたほうが嬉しいんだけど、だからといって無表情に相手をされても殴って泣かせたくなるだけか。だったらむしろ最初から泣いていてくれたほうが助かるのかもしれない。僕はこいつを殴る労力をつかわなくて済むし、どちらにしろ泣かれるなら僕が何かする前に泣いていてくれたほうが、自分に責任はないと思うことができる。なんだ、これ。僕が責任逃れしたいみたいじゃないか。こいつを泣かせているのは、悲しませているのは僕じゃないと言いたいみたいだ。どうして?いいじゃないか、こいつを泣かせたって悲しませたって、僕には関係ないことなのに。なぜだかそれが許せなくて、苦しくなる。不愉快だな、この感覚。


小さくため息をついてから、さっきまで考えていたことを思い出した。この女には話があるんだった。まさか今日も保健室で青い顔をして眠っているとは思わなかったけどね。僕の殴ったところは大してひどい怪我でもないくせに、断固として塞がろうとしない傷口に、なんだかこの女の性格があらわれているようだと思った。弱いくせに、痛いくせにどこが強情で頑固で譲らない、そのくせ流されやすい。馬鹿みたいだ、僕。どうしてもこの女のことを考えていると、当初の目的を忘れてしまう。だから、話があるんだって。


「君のことを調べさせてもらった」
「どうして?」


なんとなく、気になったから。こんなあいまいな返事はいっそしないほうがいいと思って無視すると、女はしゃくりあげながら小さくため息をついた気がした。布団にくぐもって声がよく聞き取れない。なんだか歯がゆくなって布団をすべてひっぺがすと目をまん丸にした女が布団を抱えていた体勢を直すことなくぽかんと口を開けている。瞬きするとぽろっと涙が零れ落ちた。勢いよく布団をはがしたせいでまくれあがったスカートよりもそっちのほうが目に入って、僕はまたため息をつきそうになった。一度だけスカートのほうに目をやって、また女の顔に視線を戻すとそれだけで気付いたのかあわててスカートを直しだす。というか、わざと気付くように目配せしたんだけどね。そんな幼稚な女の下着に興奮するほど飢えてないし。そういう意味を込めて、あきれたような目で女を見ると恥ずかしそうに顔を真っ赤にしている。ときんと変な鼓動が聞こえた気がした。


「住所不明、経歴不明、家族構成不明。しかも、苗字まで不明。まともにわかっているのは君の下の名前くらいだ」
「へえ」
「君、何者?」
です」


この学校に危害を加えるような危険因子なら今すぐにでも排除するけど。でも、この女が武力に優れているようにも見えないし、頭脳が秀でているようにも感じない。僕がちょっと殴っただけで卒倒するし、それに会話をしていても馬鹿みたいなことしか答えずに僕の質問にまともな返事をかえさない。するとよけいわけがわからなくなる。何のとりえもないこんな女を、謎だらけのままで入れてしまうこの学校に。それともうひとつ気になったことがある。僕の言った言葉に女は「へえ」と答えた。初めて聞くようなその反応に嘘は感じられなかった。はじめて、聞いた?転校の手続きをしたのは別の誰かということか。赤ん坊とかかわりのある女だから、それなりに何かあるんだろうとは思っていたけどこれだけ謎だらけなくせに普通の女だとなると、なにひとつ理解できなくなる。誰が何のためにこの女をここへ入れた?誰かはたぶん赤ん坊だろう。彼にはその力も頭もある。だが、何のために?ますますわからなくなって、素直に疑問に思ったことを聞いてみることにする。


「今はどこに住んでいるの」
「それは今、探しているところです。主に公園あたりでお世話になろうかと」
「昨日まではどこへ泊まっていた?」
「え、えっと、知り合いの、家?でもご迷惑なようなのでそこも出ようかと」
「家族は?」
「両親は」


はっと何か思いついたかのように目を大きく見開いて、そのまま固まってしまった。なに、両親はNGワードだったとでもいうわけ?それにしたって、この表情はおかしいだろう。何か重大な事実にでも気付いてしまったみたいに驚いている。そして声をかけようかと思っていたとき、今度はぼろぼろと涙をこぼしはじめた。表情をころころ変えてと、忙しい女だな。たぶんこの反応だと、もうこの世にはいないんだろう。さっきの間が何なのかはわからないが、とりあえずそこに間違いはなさそうだ。切なそうな顔をして静かに泣いている姿を見れば一目瞭然。答えがわかっているのにこれ以上問い詰めるのもおかしい気がした。それにしても、こういうときどうしたらいいのかを僕はまるで知らない。女が泣いている姿を呆然と見つめているというのもなかなかおかしな図だろう。気付けばぎゅうと拳を強く握っていて、なんだか悔しいようなもどかしいような感覚に襲われる。ひどく、不愉快。


「君は、いつもそうだ」


おかしな声が出た。しぼりだすみたいな声だ。何かの痛みや苦しみに耐えてしぼりだすような声。確かに僕はなんだか胸が痛くて苦しくて、もういっそ暴力で解決してしまいたくなるほど切なかったんだが、それが表に出てしまうほどというのが驚いた。なんだか、かっこ悪い気がする。それでもやっぱりどうしたらいいのかわからなくて、立ち尽くしたままおかしな脱力感に襲われていると背後でガラガラと扉の開く音がした。ひどく、乱暴な音。重い頭を動かして振り返ると、名前は知らないけど赤ん坊と一緒にいる頭の色も目の色も気に食わない男がいた。弱いくせに、僕に負けじと突っかかってくる姿は滑稽で、思わず力の差をみせつけたくなる男。そのときも同じで、男は僕の顔を見るなり憎い敵の顔でも見たかのように眉間に深い皺を刻んで僕に凄んでくる。悪いけれど、今僕はそんな気分じゃないんだ。歩みだしてすれ違うと、男はまた僕に手を出してくるかと思っていたのに今日はちがったようで、あわてて女のベッドの傍らへ駆け寄っていく。ワオ、すばらしき同族愛とでもいうんだろうか?そうやって、傷を舐めあっていればいい。少し、気に食わないのは気のせいだ。


扉を閉めたら思った以上に力が入って、廊下中に響き渡りそうな音がした。扉に亀裂が入ったのは、見なかったことにしよう。











20080301