「ひっ…!」


慌てて口を手で覆うと雲雀さんがいぶかしげにこちらを振り返ったので、結構な勢いで焦った。あ、あれ、もしかして今の悲鳴として取られてしまった、とか。誤解をとくべきかと口を開きかけると私を気にしたふうでもなく雲雀さんがまた前を向いて靴を脱ぎ始めるので、私はどこかほっとしたように胸をなでおろした。いや、さっきはつい声に出そうになってしまった。今思えばなんで口に出してはいけなかったのか、わからないけどまあとにかく!驚いた。広い、とにかく。獄寺さんのお宅は1DKのお風呂付きというアパートで、一人暮らしの中学生ということを考えればだいぶ広いように感じていたけど、そんな比じゃない。なんだろう、この広さ。この人は本当にただの中学生?閑静な高級住宅街の高層マンション。4人家族が住んでもまだ広そうなその部屋に、一人で暮らしているんだろうか。ぴかぴかな玄関には雲雀さんの脱いだ黒いローファーしかなくて、なんだか切なくなった。なんで、中学生が一人暮らしなんてしているんだろう。もしかしてご両親がもう亡くなられている、とか?わからない、憶測でしかない。私は雲雀さんのことを何にも知らない。未来の雲雀さんのお部屋もこれくらいの広さだったかな。部屋の間取りも彩りも置いてあるものもぜんぜんちがうのに、なんとなく雰囲気が似ているななんて思ってしまって。思わずため息が漏れた。


「いつまでそこに突っ立っているつもり?早くあがりなよ」
「うあ、わ、はい!」


急いで靴を脱いでそろえてリビングへ踏み込むと、まず物がほとんどないことに気付いた。いや、たぶん一人暮らしをしている学生にしてみれば普通なのかもしれない。でも広い部屋とは対照的なその物の数になぜか、少ないと感じてしまう。本当に、一人で住んでいるんだなあ。ここ何週間かは家政婦さんがきていないのか、部屋は散らかってはいないものの隅とか棚の上とかに薄く埃が乗っていた。うーん、自分で掃除とかしないのかな。衛生的にこれは、どうなんだろう。台所が気になってのぞくと、そこは意外にもきれいで驚いた。すごい、きれいなシステムキッチン。毎日きれいに使われているというよりは、ぜんぜん使っていないような。いやな予感がして大きな冷蔵庫を開けてみると、空っぽ。いや、ミネラルウォーターのペットボトルが1本入っているだけ。ひ、ひどい、ひどすぎる。あんまり比べちゃいけないとは思うんだけど、獄寺さんのお宅の冷蔵庫もなかなか空っぽな感じだったけど、まだもうちょっと、色々あったのに。ケチャップとかマヨネーズとか、わさびとからしのチューブとか、トマトとかセロリとか生八橋とか。ここの冷蔵庫はもう本当に、ペットボトル1本だけ。ご飯とか、どうしてるんだろう。


リビングへ戻ると雲雀さんはいなくて、私はなんとなく手持ち無沙汰になって立ち尽くしてしまう。テレビも大きくて、ソファも高そう。ほかにも部屋が2つか3つくらいあるみたいで、扉が並んでいた。雲雀さん、自室に戻られたのかな。じゃあ私はどうすれば?と思ったらひとつの扉からすぐに出てきて、ちらりと見た中の様子はたぶん寝室だ。しかもめちゃくちゃ大きなベッドだった。


「あ、あの雲雀さん、ここの説明とか、ルールとか、あれば教えてください」
「この家について特に説明することはない。自分で回って確かめるといいよ。ルールは、僕の邪魔をしないこと。以上」


以上って、なんですか。自分で回って確かめろ?たしかに転校初日にクラスメイトに学校を案内してもらうのとはちがって、そこまで広くはないけれど。でもここはあくまで人様のおうちであるわけで、入っちゃいけない部屋とか見ちゃいけないものとか、ないものなんですか。私がほうけていると雲雀さんがどかっとソファに座り、私を見上げてくる。


「君がすべきことは、この家の家事全般。食事、洗濯、掃除、すべてだ」
「はい」
「じゃあ早速だけど、お腹が減ったよ」
「あ、はい。じゃあすぐに何か作りますが、何か食べたいものとかありますか?」
「…ハンバーグ」


意外な言葉に思わず「えっ」とか言いそうになってしまった。危ない危ない。この人はやけにプライドが高いから、きっと怒られてしまう。ハンバーグか、と思いながら壁にかかった時計を見ると9時をとっくに過ぎていて、私は腕を組んでうーんと考えるはめになった。ここへ来る途中スーパーが見えた。でもこんな時間じゃ開いているわけもないし、近くのコンビニで適当な材料を買ってきたってハンバーグにはできないし。それに、ハンバーグは時間がかかる。どうしようかな。


「今からだと、コンビニのハンバーグ弁当くらいしか…」
「添加物の入ったものはあまり食べたくない」


むむ、わがまま王子め。


「じゃあハンバーグは明日にしましょう?今夜は別の、もっと早く簡単に作れるものにしますから」
「わかった」


ハンバーグ以外とくにリクエストはないのか、新聞を読み出してしまった。よし、じゃあ私は急いでコンビニへ行ってこよう。どのくらいの材料がそろうかな。最近のコンビニはなんでもある!といっても所詮はコンビニ。お肉や魚が売っているわけでもないし。玄関で靴を履いていると名前を呼ばれて、振り返るとポーンと弧を描いて私の手に何かが落ちてきた。黒い、財布?


「適当に使っていいから」


今度は銀色に輝く何かを投げ渡され、私は慌ててそれを受け止めた。今度は鍵?これはつまり、合鍵でしょうか。それだけ言い残して雲雀さんはまたリビングへ戻ってしまった。適当に、ですか。好奇心で財布を開くと、何人もいる福沢諭吉が私に微笑みかけたように見えた。こんな大金、持ったことないんですが。今日から同居するとはいえ、他人に財布を預けてしまっていいんですか。しかもこんなに入ってるし。これは食事を豪華にしろってことかな。いやでもそんな期待されても困りますからね!コンビニだし、私の腕なんてたいしたことないですから!たぶん、家政婦雇ったほうが数倍いいって思われちゃうの、かな。そう思うとなんだか悲しくて、逆にやる気が出たりした。が、頑張ろう!おいしいって思ってもらえるよう、頑張って作ろう!











20080621