ああ、苛つく。は、他の生徒がやるのと同じように窓の外、グラウンドを見下ろしてそう思った。表向きはおびえたように、軽蔑するように、しかしどこか楽しむような、至って『普通』の反応を装っている彼女が一瞬だけ本性を紛れ込ませてしまったことに気付いたのは、グラウンドを走る折原臨也のみであった。しかし彼女は気付いていなかった。いつものように、誰にも気付かれることはなく、自分の『普通』は貫き通せていると思っていたのである。

彼女は『普通』を愛していた。普通になるためであれば、どんな努力も汚い手も厭わない。普通を並び立てることが、特別であることはわかっていた。それでも彼女は普通を追い求めることをやめられなかったのである。例えば、試験では問題用紙を見て平均点を予測し、それに沿うように問題を正誤して解いていくのである。つまり、問題すべての解答を知るだけの頭が必要であった。彼女はその頭脳を得るための努力を欠かさなかったのである。

彼女は普通を愛し、特別を憎んだ。だからと言って、他人に興味を示すことはなかった。なぜなら彼女にとって、他人はすべて特別であったからだ。その特別が、普通であるのだ。人に沿うことを望みながらも、彼ら彼女らはそろって自分を追い求める。それのどこが楽しいのか彼女にはわかりかねた。だからこそ、理解することをやめ、興味をなくし、他人に心動かされることはなくなったのである。

しかしそんな彼女が唯一、心動かされてしまう存在がいた。それは――。

折原臨也は、それが自分なのだと思っていた。唯一彼女の『普通』に気付いた自分こそは、彼女の特別になり得るのではないだろうか。彼は楽しみでしょうがなかった。彼女が自分にどんな顔を見せてくれるのか。彼はあの、『普通』という名の能面を剥いでやるのが楽しみで仕方がなかったのだ。楽しみだなあ楽しみだなあ楽しみだなあ!

彼女が動きを見せたのは、ある放課後のことである。めずらしく、彼女は普段とちがう行動を見せた。いや、それでさえも一般生徒の『普通』から逸脱してはいなかったが、折原臨也には明らかに異質に見えた。彼女は自分から、掃除当番の中で誰もが嫌う、ごみ捨てに名乗り出たのである。それは一見して、他の生徒に委員会や部活動が控えていたため、気を遣ったように見えるが、誰よりも折原臨也だけはそれを見逃すことはなかったのである。何か、ある。

申し訳なさそうに教室を出て行く生徒を見送り、彼女はごみを捨てに行き、ごみ箱を持ったまま、教室とはちがった方向へ進みだした。階段をのぼる、のぼる。その先には屋上が待っているが、普通の生徒ならばそこへ近付くことはない。

「時間を止めます」


彼女は『普通』を逸脱してまで会いに行ったのだ。平和島静雄に。

扉を開け放ち、屋上へ踏み出す。その一瞬彼女は振り返り、今のぼってきた誰もいない階段に冷たい視線を送ったのである。そっと扉を閉めると、彼女の存在に気付いた平和島静雄が不思議そうな顔をした。ごみ箱?ごみ箱が屋上にどんな用事があるというのだ。彼の中で、彼女が自分に用があるという選択肢は浮かんでいなかった。なぜなら彼女の顔は見覚えがなく、かつ『普通』の生徒ならば自分を恐れて近付かないためだ。そんな彼の心を読んだのか、彼女は顔を歪めて彼に近付いた。

「君に一つ、言っておきたいことがある」
「あァ?なんだ手前」

明らかに敵意を持った視線、言葉に、ふつふつと怒りがこみ上げてくるのが自分でわかった。まずい、相手は女だ。できるならば怒りたくはない。女を殴る趣味はないのだ。しかし、なぜ今このタイミングでこの女はここに訪れ、俺を怒らせるようなことを言うのだろうか。

「あまり調子に乗るなよ」

手を置いていただけの鉄柵がぐにゃりと歪んだ。彼の頭の中はすでに怒りで満ちていた。こいつは俺を怒らせようとしているんだ。なぜだ、俺は殴りたくも怒りたくもねえのに。それなのに暴力を助長するようなこの態度、なんなんだ。まるで、まるで俺の大嫌いで殺してしまいてえ臨也のようじゃねえか。

「君は自分のことを、『化け物』か何かだと自惚れているのではないか?」

怒鳴ってやろうと思った。殴ってやろうと思った。それなのに、平和島静雄は動けなかったのである。なぜなら彼女が戸惑いもなく彼に近付き、その口をそっと小さな手で覆ってしまったからである。ものすごい力で圧倒したわけではない。本当に、ただ、添えられただけなのだ。ただの、女の、か細い、白い手が。それだけで平和島静雄は動けなくなってしまったのである。

「いいか、君は、『普通』だ。自分の力を恐れ、化け物なんじゃないかと思い、嘆き苦しむ、それがもうすでに、普通の人間だよ」

彼女は彼の口に添えた手を外すと、彼女は困ったように笑みを浮かべた。

「君は私と何がちがう?」
「お前、なに、言って」
「君は生物学上標準和名で言うところの『ヒト』だろう。私とおそろいだ」
「意味がわかんねえ…」
「目は二つ、鼻と口は一つずつ、手が二本足が二本。しかし、これらが欠けていたって人間だろう。そろっている君は紛れもない、普通の人間だよ」

彼には彼女の言っていることがわからなかった。彼は歯を食いしばり、拳を握り締めるとそれをさきほど歪めた鉄柵に叩きつけた。柵は原型をとどめずに屋上のアスファルトに沈み、彼の手には何の傷も負ってはいなかった。

「普通の人間が、こんなこと、できるかよ…!」
「こんなことで威張られても困る」
「なんだ、と」
「君はテレビを見ないか?世界にはびっくり人間なんざ、山ほどいる。『びっくり』という言葉がついても、彼らが『人間』である事実は揺らがない。君はそのうちの一人。何の面白みもないただの人間だよ」

だから、と彼女は続ける。ああ、こいつは臨也とはちがうんだ。あいつはあえて俺の嫌な部分をつついて暴力を振るわせようとするが、こいつはちがう。目の前の、この女は、俺を怒らせたいわけでも、なだめたいわけでもない。ただひたすらに、牽制をしているんだ。平和島静雄は人間であり、化け物ではない、と。それが彼を、どれだけ宥めるかも知らずに。

「他人とちがった点に苦しみ、自分は特別なのではないかと思うこと自体が、とても普通の思考なのだよ。君は人より少し力を持っている。だからどうした。そんなことを自慢されても、ちっとも羨ましくはない」
「俺は!俺は、こんな力、欲しくなかっ…」
「それこそわがままというものだ。誰しもコンプレックスを抱えるものだ。もっと目が大きければ、もっと鼻が高ければ。高望みは人間の十八番だろうに。なんて君は普通なんだ」

「いいか、何度でも言うぞ。君は『普通』だ。特別な力を持った『普通』の人間だ。こんなところで反省なんてしているのがいい証拠だ。今日、君が、何を傷つけたか知らないが、それを悔いる心があるということは、ただの心優しい『人間』なのだろう。それが私には、羨ましくてたまらないね」

捨て台詞のようにそう吐くと、彼女は踵を返して屋上を去っていった。彼は呆然とその姿を見つめているしかなかった。彼は最後に一言つぶやく。

「何なんだ、ありゃ」

彼女が訪れる前にはなかった、瞳に光を点して。







「ずいぶんキャラがちがうじゃない」
「悪趣味」
「褒めてくれるの?嬉しいなあ」

彼、折原臨也が一部始終をのぞいていたことはわかっていた。しかし、彼女にとってそれはどうでもいいことに違いなかった。彼でさえ、彼女の心を動かすには足らぬ人物だったのだから。

「面白くないねえ。君はシズちゃんのことが好きなの?」

彼女は階段を下る足を止め、彼を振り返った。その顔は先日の無表情に戻っており、しかしその瞬間は満面の笑みを浮かべてみせた。

「大好きです!」

折原臨也は自分の口角が上がるのを感じた。今のは挑発だ。明らかな嫌がらせだ!彼女は本当に平和島静雄に好意を抱いているわけではない。ただ、こう言えば俺が最も嫌がるとわかっているのだ。それがたまらなく面白い。声を抑えることができず、彼は同じく満面の笑みで笑った。ひとしきり笑ったあと、目じりに浮かんだ涙をすくいながら、すでに無表情に戻ってしまった彼女を上から下までみやった。

「まあ、今の嫌がらせは最高だけど、さっきのシズちゃんとのやり取りは許せないかな。あれは明らかに、シズちゃんを救う言葉だ。たとえ君がそれを意図していなくてもね。それが俺には面白くない」
「私は彼が、自分が『特別』だと勘違いしている様が、腹立たしくて見ていられなかっただけです」
「『普通』を逸脱してしまうほどに?」

それが彼には面白くなかったのである。

「まあ、いいや。君の新しい面を見ることもできたし」

「またね」

一歩で彼女との距離を埋め、耳元でそう囁き、気まぐれないたずらにその頬に口づけでもしようと顔を近づけたときだった。突然ぐるりと顔を動かした彼女は、あろうことか自分の頬に重ねられるはずだったそれを自分のそれに重ねたのである。簡単に言えば、二人はキスを交わしたのである。

「さようなら」

彼女は無表情を崩すことなく、残りの階段を下っていった。呆然と彼女の背中を見送る様は、まるで先ほどの平和島静雄のよう。そんなことも考えられぬまま、折原臨也は今のキスの意味をはかりかねていた。彼女が自分に好意を?ありえない。即座に選択肢を取り消すと、すぐに次の選択肢が浮上してきた。たぶん、それが正解なのであろうが、そんなことのために自らキスなどしてしまうものだろうか。ありえない、ありえない!最高だよ!









嫌がらせ // 120321