何だったのだろう。彼は思う。ある女子生徒の口頭での襲撃を受けて、早一週間が経とうとしているが、未だに彼女の存在は彼の頭の中で薄れることなく、むしろ鮮明に残り続けていた。調子に乗るなよ。彼女の口から出た、数々の暴言ともとれる発言は、なぜだか彼の怒りの琴線に触れることなく、頭の中で響き続けていた。

何だったのだろう。この一週間、気付けばそんな言葉が浮かんでいた。考えてもわかるはずない答えを、彼は毎日のようにつぶやき続けてしまう。彼女は誰だったのだろう。あんな存在感のある生徒を、3年になるまで知らなかったとは。彼は他人にあまり興味を抱かない性格であったが、あれだけ強烈な視線には、否が応でも気付いてしまいそうなものだが。彼女のあの、瞳に。

何だったのだろう。彼は彼女に聞いてみたかった。だから彼女を探そうかとも考えたが、しかしいざ対面した時、何を聞いたらいいのかわからなくなってしまいそうで。彼は自分がどうしたいのか、つかみきれずにいた。しかし一週間という、彼にしては長い間、考えても答えの出ない結果にしびれを切らし、その糸をぷつりと切ってしまってからは早かった。考えていても仕方がない。俺はあんまり口が上手くねえが、あの女はやたらと饒舌だった。対面してみれば勝手に口を開くだろう。そんな乱暴な考えを背負い、彼は立ち上がった。

まもなく昼休みも終わりに差し掛かり、生徒たちは各々の教室で授業の準備に取り掛かる頃。彼は教室ひとつひとつをのぞき、彼女を探していた。ひょろりの背の高い彼が他クラスに顔を出せば、全員が全員息を呑んで彼の様子をうかがっていた。誰かを探すような素振りに、彼らの頭に浮かんだのは正体の分からない、誰かの失態であった。その矛先がどうか自分には向きませんように、火の粉をかぶりませんように、彼らは心の中でそう思っていた。

彼の矛先が向かったのは、彼の隣のクラスの、ある平凡な女子生徒だった。

見つけた。一瞬素通りしそうになったのは、彼女の雰囲気があまりにちがったからだ。まとう空気がちがう、顔がちがう、態度がちがう。それでも彼が気付けたのは、彼が類まれなる嗅覚の持ち主だったためである。臭いをたどったわけではない。彼の直感が、この女だと言い当てたのだ。しかし、直感がこの女だと指し示そうとも、目の前に立つとよけい同一人物には見えないのが彼を混乱させた。彼の直感はあたる。しかし、本当にこの女なのか?挙動不審に、顔を青ざめながら彼を見上げる彼女の目に、一週間前に感じた強烈な光は宿っていなかったのである。

「おい」
「は、あ、あ、はい」

声も、ちがう。ちがうところばかりが浮かぶのに、しかし彼の直感は揺るがない。

「ちょっと、顔貸せ」

彼と彼女を見守っていた、彼女のクラスメイトは息を呑んだ。まさか女子生徒とは。彼女は何をしでかしたのだろう。二人の関係は恋人にも友人にも見えなかった。なぜなら彼女の顔が、見ているこっちが吐き気を催しそうなくらいに青ざめていたからだ。明らかにおびえた彼女が平和島静雄に連れられ、教室を出て行く際、彼らは彼女はもう二度と戻ってこないであろうと思った。

彼女は思った。まるで死刑執行の部屋に向かう、囚人のようだ、と。教室からのぞく、様々な生徒の好奇を帯びた目が、彼女にそう思わせた。そんな彼女の思いも知らず、平和島静雄は考えていた。そういえば、授業をサボらせてしまうことになる。それに、あれだけの生徒の前で連れ出したことから、大変目立ってしまった。もし人違いであったなら、気の毒なことをしたかもしれない。

そこまで考えたところで、階段が見えた。日当たりの悪いその場所は、昼間にも関わらず薄暗く、二人の顔に影を差した。ここならばちょうど教室からのぞく生徒の死角になる。彼女は途端に、前を歩いていた彼を追い抜かし、先にすいすいと階段をのぼっていく。その姿に、彼は驚いた。空気が変わったのだ。前を歩く彼女の背筋はぴんと伸び、さっきまでの雰囲気とはまるで重ならなかったからだ。彼は自分の直感が、やはり本物であったことに再び驚いた。

屋上の重たい扉を開き、彼女は歩を進める。彼も同じように日のあたる屋上に踏み出し、扉を閉めたところで彼女は振り返った。

「こういったふうに呼び出すのはやめてもらいたい。非常に目立つだろう。前回注意しておかなかった私に非があるかもしれないが、何せ君が気付くとは思わなかったのだ。どんな手を使った?どうして私がわかった。…まさか、やつを」

矢継ぎ早にそう告げた彼女はそこまで言い終え、首を横に振ってため息をついた。それはない。彼が、平和島静雄が、折原臨也を頼るなど、ありえない。わかってはいるが、それだけ不思議だったのだ。変装をしているわけではない。しかし、彼女は人に与える印象というものにとても気を遣う性質であったため、同一人物と捕らえられることなどないと確信していたのだ。

「なんと、なく」

こんな一言で、彼女の持ち続けた確信は音を立てて崩れた。では、これからはもう少し気を遣うべきなのかもしれない。しかし正体を見破られたことなど、先日の折原臨也が初めてなのだ。だがこれからもあるかもしれない。私が『普通』を装っていることなど誰も気付かないと思っていたが、ちがったのだ。いいかげんこれを思い上がりと認め、ちゃんと対策をとるべきだろう。

「で、なんだ。用があったのだろう」
「お前、何なんだ」

考えもせずに口を付いてでた言葉は、案外的を外れてはいなかった。しかし彼女は、何か新しいおもちゃを見つけるように微笑むと、可愛らしい声でこう告げた。

「ただの、普通の、一般的な、つまらない、女子生徒だよ」

彼女の並べ立てた言葉のすべてが、彼女に当てはまらなかった。しかし、それでも、それだけで十分な気がしたのだ。普通ね、普通。上等だ。この間、こいつは俺のことも『普通』だと言ってのけた。だったらこいつが『普通』なことも否定はできねえよな。そう考えると、笑いがこみ上げてくるのを感じ、彼はそれに抗わなかった。

突然笑い始めた彼を見て、変わったやつだとつぶやいた。彼がなぜ自分をここに呼び出したか、わからないわけじゃない。先日の自分の行動はあまりに唐突すぎ、それを自分でも反省しているのだ。謝罪も考えたが、しかし二度目に姿を現すことは、彼女なりに恐ろしかったのだ。自分を特定されてしまうのではないか、と。だったらせめて、突然現れ突然去っていった頭のおかしな女として、彼の頭から早く立ち去るべきだと考えたのだ。しかし、気付かれてしまった。ならばもう、仕方ないだろう。

「おい」
「あ?」
「もう一度言うが、今後はこのように呼び出すことは控えてくれ」
「なんでだよ」
「普通の、しかも女子生徒は、お前に呼び出されることをしない」
「でも」

腰に手を当てた女が首を傾げる。

「お前に会いたいときは、どうすれば」

眉を寄せて、少し寂しそうに語るその姿は、まるで犬のようだ。一見、口説き文句のようなそのセリフに、彼女は口角を上げた。

「変わったやつだ」









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