平和島静雄は怒っていた。今日は、特別な日であったというのに。いや、だからこそだろう。だからこそ、あの蚤虫野郎は嬉々として俺の邪魔を。そこまで考えたところで街頭がひしゃげた。今日はめずらしく、のほうから呼び出しを受けた日であった。こんなことは初めてだ。彼女と出会ってから早五年が経つが、呼び出すのは決まって俺のほうであったというのに。しかし彼は喜ぶ反面、何か嫌な予感がつきまとうのをぬぐえなかった。めずらしいことの裏には面倒ごとが待っているようにしか思えなかった。だからといって断るという選択肢は彼の中にはなく、ただひたすら彼女との待ち合わせ場所に急ぐばかりであった。

彼女はそこにいた。途端に彼の視界が明るくなったような気がした。思うよりも先に足が前に進み、小走りで駆け寄る彼に気付いた彼女は、そっと困ったように微笑んだ。変わらない。俺を見るときは、いつも戸惑うように微笑むのだ。その顔が人並みに可愛らしく、彼女の望む『普通』に最も近いように思えたが、彼がそれを口にしたことはなかった。彼だけが知る彼女であればよかったのである。彼女でさえ知らなかったとしても。

「悪い、待たせた」
「謝ることはない。大変だったな」

どうやら彼女はすでに自分が遅れた理由を知っているようだ。それに大して驚くことはない。しかし気に食わなかった。彼女の持つ力は、まるで彼の、折原臨也のものによく似ていたからだ。実際には彼女のほうが勝り、細かく見ればちがっていたのだが、彼に判断する力はなかった。申し訳なさそうに頭をもたげる彼に、彼女はまたも困ったように微笑んだ。彼も釣られるように笑みを浮かべたのをみて、彼女は彼の手を取った。

「少し、歩こうか」

絡められた指は、少し力を入れたら折れてしまいそうだった。恋人のように指を絡めて手を繋ぐ彼らは周りからどのように見えたか、考えるまでもない。彼女は彼を待っていたときよりも自分に視線を集めていることに気付きながら、楽しそうに声を上げて小さく笑っていた。

「おい、手」
「いいじゃないか、箔がつくぞ。平和島静雄にはとても美しい恋人がいる。この噂、明日には街中に広まるだろうな」
「自分で美しいとか、よく言えるな」
「なんだ、間違っているか?」

間違ってなど、いなかった。女は化けるというが、彼女がそれに当たらないことを彼は知っていた。彼女は自分の容姿を化粧で誤魔化したのではない。そんなことは必要ない。彼女は化けたのではなく、本性を表したのである。彼女の素顔は綺麗というレベルではなく、ある意味神が与えた奇跡である。それを彼女は、雰囲気という名の化粧でずっとぼかし続けていたのである。

「君と歩くと目立つからな」

彼と会うとき、彼女は必ずめかしこんできた。それは彼女が彼に好意を寄せているからではない。彼の隣はとてつもなく目立つためだ。目立つ人間の隣にいれば、必然的に目立ってしまう。そうなれば確実にこの街で動きにくくなってしまうのだ。ならば同じくらい目立つ人物になれば、普段の自分とは似ても似つかない人間になってしまえばいいのだ。彼女の出した結論は、わかってはいても彼の心を揺さぶった。美しすぎる見掛けは男を惹きつけてしまうのだ。待ち合わせ場所で追い払ったナンパ男は数知れない。

ふと、昔を思い出す。学生時代の彼女は一目につくのをいやに気にした。いや、『普通』から外れることをひどく恐れていた。会うときはいつも誰もいない屋上や教室で、彼女と話しているときは不思議と誰もその場所を訪ねなかった。いや、不思議ではないか。彼女にかかればその程度のこと、何でもないのだろうが。彼女が変わったのは卒業してからだ。何があったかは知らない。憶測することはできるが、真実を聞き出したことはない。なぜならそこに、彼の心休まる答えなど存在しないことがわかっていたからだ。吹っ切れたように、彼女は着飾り、あえて目立つように彼に寄り添った。偽ることをやめたくせに、はずなのに、平和島静雄にはいつまで経っても虚勢にしか見えなかった。

「まあいい。それで?用ってなんだ」

彼は早くも本題に入ろうとしていた。それが彼女との別れを早めてしまうものであるとわかってはいたが、真意を先延ばしにするというまどろっこしいやり方は彼にはできなかった。それに、なんだか妙な臭いがしたのだ。何か、あるんだろう。彼はそう確信しながら、彼女の顔が真面目なものに変わるのを見送った。

「頼みが、ある」
「俺にできることなら、言え」

尋常ではないその雰囲気を感じながらも、彼は即答した。彼は知っていたのだ。彼女は彼が不利になるような無理難題を言って楽しむような人間ではないことを。いや、もし彼が不利になるようでも、彼女の窮地が救われるのであれば構わないとさえ思っていた。彼女から連絡があるということは、それだけ彼女が追い込まれていると言うことのように思えたからだ。即答した彼に、彼女はめずらしく驚いたように目を見開いた。その顔が彼には愛らしく映り、思わず頬が緩んでしまう力を秘めていた。

「なんと、言ったらいいのか」

今日はめずらしい彼女がたくさん見られるものだ。言い惑う彼女もまた、彼は見たことがなかった。いつでも正論と結論を言い抜いてみせる彼女は、常に正解を知っているように思っていた。しかし、ちがったのだ。なんて人間らしい姿だろう。彼の思いも知らず、彼女は言いにくそうにうつむくと、意を決したように顔を上げた。

「抱いてほしい」







危なかった。思いとどまらなければ、握ったこいつの手を無意識に握りつぶしてしまうところだった。それだけの威力を秘めていた。いや、わからない。その言葉の真意を推し量るだけの頭と情報が足りなかった。抱いて?抱くとは、なんだ。この腕に彼女を閉じ込めてしまえばいいのだろうか。いや、それでさえもかなりの難易度を秘めている。しかし、彼女の言っている言葉の意味は、これではない気がした。嫌な予感しかしない。

「順を追って説明する。実は先日、私は誘拐されてな。ああ、いや、いいんだ。その件に関しては完結している。あれは私にも落ち度があったと言えるだろう。その際、なんというか、犯されそうになったのだ。未遂に終わったのだがな。しかし私は経験がなかったため、そういった事態に冷静に対処することができなかったのだ。やはり、初めては怖いというのだろうか。自分の中にこんな『普通』の感情があったことに、驚き半分喜び半分なのだが。しかしこういった事態は今後もあるだろうし、このまま経験がないままであれば仕事に支障をきたす可能性がゼロではない。だから、私は処女を捨てなければならないのだが。だからといって誰でも良いわけではない。信頼できない人間になど、触れられるのも嫌だ。だが信頼できる人間に、今後好意を抱かれても困る。つまり、私が信頼でき、肉体関係を築いても私に好意を抱かない男性を探している。そして君はすべての条件を満たしているのだ。だから」

まくしたてるように話す彼女の顔は、赤く火照っていた。これは、夢だろうか。それとも今日で自分は死ぬのだろうか。こいつにも人並みに『照れ』という感情が存在していたことに驚きを隠せず、しかしそれ以上に彼女の話す内容に驚いていた。全部は頭に入ってこない。しかし、断片的な単語を繋ぎ合わせるに、あわせるに、こいつ何言ってんだ?

「その、君は、経験があるか」
「ねえ、けど」

とっさに数えなかったいくつかは、俺の中で『経験』という部類に属していないらしい。

「そうか。できれば経験者のほうがいいと思っていたが、別で探すつもりもない。申し訳ないが、君の初めてをいただくことになるな」
「けど、『捨てる』なんて表現をするような女を抱く気はねえよ」

こいつが『普通』の女の神経からかけ離れていることは、出会ったときから知ってはいたが、正直失望した。彼女は捨てると言ったのだ。それも、恋焦がれているわけでもない人間で。それは他の女性に対して、また、彼に対して、とても失礼にあたる発言であった。彼は人並みに、静かに憤っていたのだ。そこまで考えて、平和島静雄はあることに気付く。先ほど彼女が何度も口にした事実である。処女、だと?考えたこともなかったが、実際に本人の口から聞くと、なんだか威力がちがう。彼が呆然としているのをよそに、彼女は一拍考えた後に口を開いた。

「確かにそうだな。さっきの表現は撤回し、思い改めよう。では改めて、私の処女をもらってはくれまいか?」

この言葉は、彼の脳にダイレクトに響いた。くらり、世界が一瞬揺れたように感じたが、それは彼だけだったようで、彼女は真剣な眼差しを彼に向けたままである。何を、何を言っているんだこの女。短くない年月を共に過ごしてきたが、今日ほど理解できない日があるだろうか。理解できた日のほうがとてつもなく少ないが、それでも今日は断トツで理解できない。つまり、なんだ?俺と、したいってことか。

一見すれば、過度な愛情表現である。しかし彼女にそのつもりがないことはよくわかっている。彼女は純粋に、自分が処女であることは今後仕事に支障をきたすかもしれないから、友人である彼にもらってほしいと頼んでいるのだ。先ほどの言葉を撤回した意味を、本当にこいつは理解できてるんだろうか。彼が長い間かたまっているのを彼女は辛抱強く耐え、彼はやっとため息をつくまでに思考を回復することに成功した。とりあえず、とりあえずだ。

「断る」
「そうか」

彼女はそれ以上何も言わなかったが、不満そうな色が隠しきれてはいなかった。そして彼女は無意識だろうが、同時に不安の色が見え隠れしたことを彼は見逃さなかった。そう言えば、誘拐されたとか言ってたな。そんなこともあれば、そりゃ不安にもなるか。そう考えてみれば、さっきのやりとりが少しばかり理解ができるというものだ。だが、だからといってもらってやるわけにはいかない。少なくとも彼女が自分に気がないのであれば、越えてはならない一線だと思っていた。

「そんなことしなくとも、次は俺が行ってそいつらぶん殴ってやるから安心しろ。それはいつか現れる、お前の好きなやつのために大事にとっとけよ」
「そうか」

彼女にしては、ぼんやりした返事だった。そして、寂しそうな笑みを浮かべると、思い出したように顔を上げた。

「君が来るには及ばない。その程度の力は私にもあるつもりだ」
「あ?どこがだよ」

ためしに繋いだままであった手に少し力を込めると、彼女は顔を歪めて抗議を漏らす。彼女の手はこんなにも小さくて柔らかい。人を殴ったことなんて、一度もないんだろう。そんな彼女のどこに力があるというのか。彼はわかっていた。彼女の言う力が、腕力ではないことを。しかしなんとなく、茶化さずにはいられなかったのだ。そうでなければ、彼女との関係がガラガラと崩れ、二度と会うことができなくなってしまいそうで。しかし、彼は言わなければならなかった。たとえば彼女が今後彼の前に姿を現さなくなったとしても、言っておかなければならないことがあった。何よりも、彼自身のために。

「お前、いっつも正しいこと言ってきたけどよ、今日一つだけ間違ったこと言ったぜ。それに気付いたとき、もっかい俺の前に現れられたらさっきの叶えてやるよ」

別れ際に、彼が告げた一言は、彼女を混乱させるのには十分な威力を秘めていた。







彼女はいつでも正しかった。それは彼女も理解していた。ただし、正しいとは思ってはいなかったが。彼女は自分の情報と分析力に幾分自信を持っていた。そんな彼女が間違いを指摘されることなど、滅多になかったのだ。自分は何を間違ったと言うのだろう。彼女は今日話した自分の言葉を思い返そうと頭の中をひっくり返した。しかし、それはなかなか上手くいかなかった。平和島静雄に会う前の、折原臨也との会話ならばすぐさま引っ張り出すことができるのに。彼女は平和島静雄に会うと、いつも饒舌になってしまった。それは彼が割合無口であったせいもあるだろうが、それだけでないことに彼女も気付き始めていた。明確な理由はいまだ見つけ出せずにいたが。

「間違い探し、手伝おっか」
「私のプライドが許さないので、遠慮させていただきます」
「ひどいなあ。シズちゃんとはあんなに楽しそうに話していたのに」

突然背後に現れた折原臨也に驚くこともなく、間髪いれずにそう答えると、彼は茶化すように両手を広げて眉を下げた。彼女の頭に、人並みに抱くような疑問は生まれない。いつから見ていた、どこにいた。愚問である。彼女はわかっていて、平和島静雄の手を取ったのである。誤魔化してはいるが、彼は本気で平和島静雄贔屓である彼女をよく思っておらず、人並みに憤っていることは、彼女はよくわかっていた。わかっていたからこそ、あえてこんな発言をしているのだ。

彼女が平和島静雄に接触をはじめたきっかけは、単純なことであった。折原臨也への嫌がらせである。平和島静雄へ好意的な態度をとることは、折原臨也にとって思わしくないことだ。だからこそ、あえて彼を救うような発言をしてみせたのである。しかし、平和島静雄のことがもどかしかったというのも事実である。半分は折原臨也への嫌がらせため、半分は自分の苛立ちの解消を目的に、接触していたのである。いつからだろう。それが、折原臨也への嫌がらせや損得勘定を抜きにして、彼に会おうと思うようになったのは。

「シズちゃんにもふられちゃったことだし、やっぱり俺で手を打つことをオススメするよ」
「あなたが嫌がらせをやめてくだされば、解消する問題なのですけれどね」
「もし仮に、俺が君への嫌がらせをやめたとして、それでも危険はつきものでしょ?この仕事柄、ね」
「あなた以上に厄介な相手もいませんが、ね」

その言葉は思いがけず、彼を喜ばせる結果となった。彼女の手を煩わせる相手は自分しかいない。彼女の中で俺が唯一、邪魔な存在なのである。それが彼にとっては嬉しくてたまらない事実であった。

「わかった、じゃあ嫌がらせはやめるよ。その代わりに君の処女をいただくとしよう」
「なんて一方的なんでしょう。惚れ惚れしますよ。でも、あなたがそんなにも処女がお好きだとは知りませんでした。その赤い目は吸血鬼だからだったんですね」
「別に生き血をすする趣味なんてないけどね。処女が好きなんじゃなく、シズちゃんにくれてやるものは一つ残らず手にしたいだけだよ」
「なんて素敵な口説き文句でしょうね。ちょっと街へ行って同じことを女子高生に言ってみてくださいよ」
「何人か引っかかっちゃうと思うけど?」

その通りだろう。どれだけ頭がおかしかろうが、この男の外見は偽れない。それに外見以上に、こいつの口が開き、言葉がつむぎだされる限り、確実に被害者は出てしまうんだろうな。彼女は一つため息を落とした。そんな姿を楽しそうに目を細めて見下ろすと、彼は胸がぽっぽと熱くなるのを感じた。今日の彼女は、めずらしいことだらけだ。平和島静雄の前だけかと思えば、自分の前でもらしい。それは口調に顕著に現れていたが、しかし折原臨也が指摘することはなかった。

きっと、先日の誘拐未遂は思いのほか彼女の心に残っているらしい。何でも知っている彼女にとって、未知というのは存在しているだけで恐怖になりえるのだろう。だからこそ焦り、戸惑っている。処女のまま、こんな彼女を見ているのは大変楽しそうで魅力的だが、そうにもいかない。先ほどのやりとりをみるに、やはり平和島静雄はに想いを寄せているようだ。高校の時からそうじゃないかと疑ってはいたものの、核心には至らなかった。なぜなら折原臨也の中で、平和島静雄が『化け物』に分類されていたからである。『化け物』が人並みに恋をすることができるのか、彼にはそれがわからなかった。しかし、今日はっきりした。では、徹底的に邪魔をしなければ。

しかし折原臨也は気付いていなかった。普段の彼ならば、いや、相手が彼女でなければ、別のシナリオが組まれていたことに。別の女であれば、ギリギリまで平和島静雄に幸せを満喫させ、最高潮で奈落の底へ落とす。それは普段彼が日常として行っていたことである。そのときの人の顔を見るのがとても好きな、彼らしい最低の趣味である。しかしここへきてそれが浮かばなかったのはなぜか。彼はまだ、気付いていなかった。

「冗談はさておいても、今後の嫌がらせで、この間のようなことはしないようにきつーく言っておくから。安心していいよ」

だから、嫌がらせをやめればそれで済む話なんだが。しかし言って聞く人間でないことを、彼女の彼自身もよくわかっていた。もしここで「嫌がらせをやめる」なんて言ってみろ、言葉の裏でもっとひどいことをすると断言するようなものである。だからこそ、ここでの折原臨也のこの言葉が、彼女をある程度思いやった言葉であることは少なからず理解できた。二人はお互いに嫌がらせをすることで、ある種のアイデンティティーを晒しあっていたのかもしれない。だからこそ、彼女はめずらしく折原臨也の前で笑顔を見せたのだ。少し困ったような、綺麗な笑みを。

「それは、ありがたいですね」









現状維持 // 120403