インターホンが鳴った。彼女は静かにたたずむ扉をみつめ、緊張を高めた。ついに、来たか。そう仕向けたといっても過言ではない。扉の奥に待つであろう人物を想像し、彼女は心の中でため息をひとつ放った。

ゆっくりと立ち上がり玄関まで進むと、鍵に手をかけた。カチャン、と控えめな音を立てて開錠され、あとは彼女がドアノブを回して扉を開くのみである。しかし、そのハードルがなかなか越えられない。いつの間にか、握ったドアノブは彼女の手のひらの体温を奪い、温くなってしまっている。すでにインターホンが鳴ってからずいぶんと時間が経過した。普通の人間ならば、催促をもう一度鳴らすか、留守だと思い帰ってしまうかだろう。しかし、彼女はわかっていた。ドアの奥では自分が扉を開くのを、今か今かと待ちわびている人間がいる。だからこそ、開けられなかった。彼女は自分の中に、恐怖という感情が残っていたことに驚きながらも、しかしそれが恐怖ではないことに気付き始めていた。自分は、嫌われるのが怖かったのだ。

彼女がドアノブを回す前に、我慢を切らしたかのように扉は勢いよく開かれた。さすがに予測していなかった彼女の前に現れたのは、同じく予想していなかった、肩を上下させる折原臨也の姿だった。額には薄っすら汗さえかいて、慌ててきたことがよくわかる。もっと、余裕な姿で待ち構えていると思っていたのに。仮面を被るのも忘れ、驚きと不安がないまぜになった表情をさらした彼女に、折原臨也は口角が釣りあがるのがわかった。じわじわと胸の奥から沸いてくるのは怒りか、それとも。彼はゆっくりと口を開き、地を這うような声を吐き出した。

「覚悟はできてるよね」








時は一週間ほど前に遡る。折原臨也は無意識に自分がスキップをしていることに気付いたが、あえて続行し目的地へ急いでいた。自分でも沸きあがる高揚感を抑えることができない。期待に胸膨らむとはこのことだろう。自分でも驚いている。こんな些細なことでこんなにもわくわくできる自分に、だ。

事件が起きたのはつい先日のことだ。折原臨也の携帯に、登録してから初めてその名前が表示されたのだ。一方的に裏から入手した電話番号であったが、彼女に不利な情報であれば彼女が差し押さえたはずである。彼女が自分の情報を止めなかったということは、いずれ使う時がくるとわかっていたからであろうか。それが、今日なのか?携帯の画面を見ていたところで真意はわからない。迷うべくもなく折原臨也は通話ボタンに指を伸ばした。

「デートしませんか?」

まさか君のほうから連絡をくれるなんて、思わなかったよ。

言おうと思っていた言葉は紡ぎだされることはなく、通話と同時に響きだした彼女の声にすべて飲み込まれてしまった。電話の相手は言うまでもない、であった。そして彼女はいつでも彼の予想外の言動をくれる。それが彼にとって、楽しみでたまらない瞬間であった。デート、デートとは。彼がその言葉を頭で転がし、その裏に何が潜んでいるかを考えたが、明らかに情報が不足していた。

彼が何かを言おうと口を開きかけると、まるでそれを見ていたかのようにまた彼女が話し始め、日時と場所を指定しただけで一方的に切ってしまった。無情にも、彼らの初の通話時間は16秒で終了し、さらに話したのは彼女だけという結果だけが残った。

しかし、彼が気になったのはそんな点ではない、彼女の指定した日時、場所が自分にとって都合の良すぎるものだったためだ。偶然にも、待ち合わせの時間の前に、待ち合わせ場所の近くでちょうど仕事があり、その後はちょうど時間が空いていたのだ。何もかも、わかっていて設定したのだろう。彼女が嫌がらせの一環として行うのならば、俺の仕事時間をねらったはずである。それも、無理な脅しをつけて。たとえば、来なければ事務所を爆破する、といったものだ。しかしそうではない。少なからず俺に配慮をしている、ということは、何かあるな。彼は抑えきれず、両手を広げて高らかに笑った。その声はいつまでもいつまでも、彼の事務所に響き続けていた。

そして、彼女いわくのデート当日、彼は待っていた。しかしその場所は、彼女の設定した待ち合わせ場所ではない。そこを一望できる、あるカフェの2階で双眼鏡をのぞきながら待っていたのである。それが彼の日常であった。彼女はどんな格好で、いつ着て、どのように自分を待つのであろうか。彼は立ち上がりたくなる衝動を抑えながらも、一旦は双眼鏡を置いてコーヒーをすすった。彼女と二人で会うのは初めてであった。彼が一方的に彼女をみつけ、ちょっかいをかけることはあったが、約束をしてまで二人きりで会うのは初めてだった。

彼は警戒を怠ったつもりはなかった。彼女らしき気配を側に感じれば、即座に気付けるように。しかし彼は気付けなかった。彼が座る、カウンター席の席一つ分を空けた場所に、誰かが音を立てながら座ったのである。誰がか近付いてきていることには気付いていた。しかし、それが彼女であるとは思わなかったのである。彼女はまさか、隣に座ってまでも気付かれないとは思っていなかったらしく、演技を続行しようか迷い、ついに我慢を切らして大きくため息をついた。

「お待たせしました」

彼は思わず、コーヒーを零しそうになった。まさか、まさかまさか、まさか。まるで油を長年差していないロボットのように、ぎこちない素振りで横を振り返ると、そこには自分の目と耳を疑う光景が広がっていた。確かに、声は彼女のものだった。間違えるはずがない。しかし、即座に自分の判断を疑いたくなるほど、彼女はちがった。そこにいたのは地元の、しかも偏差値がとてつもなく低い高校の制服を着た、化粧の濃い茶髪の女子高生であった。

…?」
「てかさー、待ち合わせ場所ここじゃないよね?あんたホント性格わっるー」

きゃらきゃら品もなく笑う彼女にの面影はない。しかし、彼女なのだろう。あまりの変貌に、彼は言葉を失った。頭の中では絶え間なくクエスチョンマークとびっくりマークが飛び交っている。彼がやっと確信できたのは、そんな彼の様子を見て挑戦的に微笑んだ彼女をみてからだった。予想外だ、予想外だよ!彼は自分を抑えることができなかった。お腹を抱え、大声で笑う彼に周囲は歪んだ顔を向け、そしてそれは彼女も同じであった。そう、それが普通の反応。彼女は演じきっていたのだ。普通の女子高校生を。

ひとしきり笑うと、折原臨也は自分のやるべきことを思い出した。質問がいくつかある。本題に入る前に消化をするくらいの時間はあるだろう。彼の爆笑がやんでから、彼女は「隣いいよねー?」と軽い態度で、彼の返事も待たずに移動してきた。その際、彼女のトレイが彼のそれにぶつかり、コーヒーがソーサーを黒く染めたが、彼女は謝る素振りもみせなかった。なんてことだ、何から何まで本当に、頭の悪い女子高生にそっくりだ。

「一つずつ、解消していこう。どうしてここが?」
「はあ?最初から待ち合わせここっつったじゃん」

ああ、そう。頬が引きつるのがわかる。彼女は何もかもわかっていたのだ。待ち合わせ場所にあそこを指定すれば、彼がこのカフェの2階に現れるということを。裏をかくのを好む自分にとって、何もかもわかっていましたという顔をされるのがあまり好きではない。しかし、彼女は別だ。彼女はもっと別の、予想外の何かをいつも運んできてくれるからだ。

「じゃあ次に、なんで女子高生?」

上から下まで彼女を見やる。茶色に染められた、いつもよりだいぶ長い髪はたぶんかつらだろう。また厚い化粧だが、どこか幼さの残る顔につけまつげがアンバランスに映え、これはこれで可愛い女の子に見せてしまうのは元の素材のせいか。そして着崩された制服は、胸元が大きく開かれ中の派手な色をした下着が顔を出している。スカートも極端に短く、白い足が遠慮なくすらりと伸びていた。しかし不思議といやらしい印象はあたえなかった。ていうか、違和感がない。今年23歳になるはずだけど、普通に似合うって言うのも考えものじゃないだろうか。目を細めると、彼女はだいぶ声のトーンを落として話し始めた。

「私が公にあなたに会っていると、何かと支障があるので」

お互いの顧客には、敵対する組織もあった。彼女が折原臨也と個人的に会ったという噂が流れれば、スパイか何かだと思われ、すぐさま命をねらわれるだろう。彼女にとってそれは些細なことであったが、できるならば手を煩わせるようなことを起こしたくはなかったのである。

「だからって、なんで女子高生なわけ」
「これは単に、あなたの株を下げる嫌がらせです」

米神がひくつくのを覚えながらも、彼は笑みを深くする自分がいることに気が付いた。彼女は、折原臨也が頭の悪そうな女子高生と援助交際をしている、という噂を流したかったのだろう。そんな嫌がらせのために、手間を惜しんでくれたことが、なぜだか彼の心の中に征服欲を生んだ。でも、やっぱり気に食わないなあ。シズちゃんと会うときはあんなに綺麗にめかしこんできていたくせに。それでさえも、彼女の思惑なのだろう。こうして自分が機嫌を悪くすれば、彼女の思う壺だとわかっていても、止められない。しかし、彼はそんな不満よりも、自身の中に満ち足りた何かが溢れてくるのがわかる。ああ、やっぱり楽しいんだ。彼女といて、とても飽きない。

「そろそろ本題に入っても?」
「どうぞ」
「率直に言います。今、あなたのところにも、火がついていますね」

彼の顔からは笑みが消えた。そう、ついていた。自分が手足としている人間を取り扱う、表向きは会社のようなものが、経営の危機を迎えているのだ。それも、あからさまに悪意を込めた人間の手によって。それが誰なのか、どんな組織であるのか、現在彼は捜索中であったが、なかなか尻尾をつかませず、難航していたのである。

「にも、ってことは」
「ええ、私のところにも、です」

これは、やっかいな化け物がこの街に迷い込んだものだ。彼女の手を煩わすなど、どんな相手だ。さらに、彼女が一人で対処しきれずに、俺に頼ってくるあたり、恐ろしい。

「手を、組みませんか」

プロローグはざっとこんなものである。しかし残念ながら本編は存在しない。ここで割愛させてもらうからだ。この後の彼らは手を組み、何の問題もなく敵を追い詰めることに成功し、事件は無事に解決となったのである。ただ一片の偽りだけが、後日彼の耳に入ることとなって。









プロロローグ // 120405