さて、冒頭に戻る。今、彼の前には自分が先ほど組み敷いた、の姿がある。めずらしくその顔を青く染め、何の抵抗も演技もなく彼をじっと見つめているのである。ここは彼女の家だった。大学生が多く住む、対して広くもないワンルームの一室が彼女のそれであった。稼ぎは十分にある。しかし彼女があえてこんなところに住んでいるのは、彼女が高校卒業と同時に捨てたはずの『普通』への渇望がぬぐいきれていない表れであった。彼は鬱陶しげに自身のファーコートを脱ぎ去ると、笑みを浮かべながら口を開いた。

「今の今まで気付かなかったよ。まさか、俺の会社に火をつけたのが、君だったとは」

そう、彼に火をつけたのは誰でもない、彼女自身であった。彼女は自らを追い詰める化け物の手を倣い、まるでその組織が行っているかのように彼を追い詰めたのである。何もかもが茶番。本来ならば表舞台に立たされるはずではなかった彼が、彼女によって引き上げられてしまったのである。

「普通に依頼すればよかったのに。まさか俺に払う金が惜しかった?それとも自分よりも劣る俺に頼るのはプライドに反したのかな?そんな理由で、俺の会社ひとつをつぶしてみせたのか」

彼の目には、めずらしく露にした怒りで満ちていた。彼女は息を呑んだ。私は、やはり恐れている、彼を。しかしこの後に繰り出されるであろう暴力にではない。彼が自分に失望してしまうことが、とてつもなく恐ろしいのだ。そこで初めて、彼女の中で彼が大きなものであることに気付いた。ずっとずっと、彼は煩わしい存在だったはずだ。しかし、唯一本当の自分をぶつけても壊れない、落胆しない人間だったのだ。私はそれを失ってしまうのが、怖いのか。

「お金なら、いくらでも出します。今回の損害はすべて引き受け、報酬も」
「君に頼るまでもない。俺が聞いているのは金銭の都合じゃなくて、なぜって点だ」
「あなたと、共同戦線を敷きたかっただけなのかも」

めずらしく、彼女にしてはあいまいな返事だった。自分で自分を図りきれていないような発言である。彼は、絶えず湧き出ていた怒りがふっと止むのを感じた。もしも彼女が自分を陥れるためにやったのであれば、もっと徹底していたはずだ。自分が立ち上がれなくなるくらい。もしくは、彼女はすでに遠くへ逃げていたはずだ。だが、彼女は自分にあえて真相を知らせるようなレールを敷き、逃げずにここに留まっていた。これから自分がどんな目にあうのか、想像できないほど幼いというわけでもあるまい。

「申し訳ない、なんて気持ちが、俺に向けられるだけあることに驚いているよ」
「私も人間だということですね」

自嘲気味に笑った彼女に影が差した。取り繕おうなどとは思っていなかったが、迫る顔に思わず体を震わせてしまったことを後悔した。身構えた彼女に落ちてきたのは、額への優しいキスだった。それに驚いて、ぎゅうと瞑った目を恐る恐る開くと、今度は頬に降ってきた。優しい感触がゆっくりと顔をなぞるようにキスをされ、少しだけ体の力が抜けたとき、とうとうそれは自分の唇に降ってきた。何度も、何度も。飽きもせずに何度も、角度を変えて降ってくるそれに、彼女は人並みに頭がぼんやりするのを感じた。

最初は触れるだけ。少しして唇を舐められる感触がした。ゆっくりと舌が口の中に進入してきたのは、結構な時間が経ってからだ。深く、深く口づけを落とされる。彼女はされるがままに、彼の舌に翻弄されている。目を閉じてから開くことのない彼女とは反対に、彼はずっと目を開いて彼女を見つめていた。その頬が徐々に赤く染まるのがわかる。目を細めると、彼はやっと目を閉じた。ただひたすらに、彼女を感じていようとするかのように。

彼が訪れたのは、昼過ぎのことだったが、気付けば空は赤く染まっていた。どれだけの間、キスを繰り返していたというのだろう。肩で息をしながら、ベッドに体を沈ませる彼女はそう思った。彼はベッドの端に腰掛、何度か小さくため息を放ったあと、ベッドの下に落ちていたファーコートを拾って羽織りだす。彼女は重く感じる体を起こし、不思議そうに彼の背中をみつめた。これで、終わりだろうか。これでは罰にもなっていない。それに、あまり考えたくはないが、キスをしている最中に、自分の太ももあたりにに何かがあたるのを感じていたのだ。それを思い出し、彼女は頬を染め、少しうつむいた。

彼は何も言わない。何かを吹っ切るように立ち上がったかと思えば、何も言わずに玄関へ向かってしまう。気付けばそんな彼を追い、コートのすそをつかむ自分がいることに何より驚いた。彼は振り返らない。ここで彼が帰るというのならば、彼女としては儲け物である。しかし、なぜだか不安がよぎるのだ。何か、彼にそぐわないことでもしてしまったのだろうか。思い返してみても、自分は翻弄されるばかりで何一つ返せなかったことしか思い出せなかった。やっと振り返った彼の顔は、とてもめずらしいものだった。

ぐるりと振り返った彼に少し乱暴に肩を押され、壁に追いやられるとまたもや深いキスが訪れた。しかし、先ほどよりも余裕のない、むさぼるようなキス。どうしたというのだろう。振り向いた時に彼が一瞬見せた顔は、何かに耐えるように、泣くのをこらえる子どものように見えたのだ。彼女はここへきて、初めて目を開くことに挑戦した。恐る恐る堅いまぶたをこじ開けると、そこには眉間にしわを寄せ、何か痛みを我慢するような彼の顔が迫っていた。そんな彼を見た瞬間、彼女はまたも、無意識に体が動くのを感じた。彼の頬に手を添えると、びくりと彼は体を震わせて慌てたように目を開いた。そんな彼を見て、彼女はそっと目を細めた。笑顔に、見えただろうか。辛そうな彼を安心させることが、できただろうか。



彼の中で、何かが弾ける感触がした。わかっていた。彼女に触れてはいけないということに。結果がどうなるのかまではわからなかったが、自分にとってあまりよくない結果が待っているということに。しかし、触れてしまった。それでもまだ、俺は逃げ出せたのに、彼女を逃がせたのに。追い込んだのは彼女だ。これも計算?俺を陥れるため?わからない。今はただ、何も考えられずにこの唇をむさぼることしかできない。それなのに、彼女はまだ、俺を追い詰める。なぜ、そんな顔をするんだ。俺の見たかった人間の顔はそんなものじゃない。罪悪感と、背徳感と、恐怖と好奇心と、いつも仮面を被る彼女がどんな顔をしてみせるのか、見たかっただけなのに。

好きだ。

好きだ、好きなんだ。俺はきっと彼女がどんな顔をみせても、いつものように飽きることはない。それは、観察対象に抱く感情ではない。こんなの、冷静に観察できているとは言えないだろう。それなのに、それなのにそれなのに。好きだ。今すぐ手に入れてしまいたい。閉じ込めてしまいたい。こんなにも、つまらない感情が俺の中にもあったなんて。

「君を、抱きたいと、思う」

俺はずるい。俺に後ろめたさを感じている彼女にこんなことを言ってしまえば、本心がどうであれ、頷かずにはいられないと、わかっていて口にしたんだ。これは一種の脅しだ。脅迫だ。彼女が青い顔をして頷くのが容易に想像できる。そんな顔をみたいわけじゃない。それなのに、どうして。

彼女は何も言わない。ゆっくりと、俺の顔に添えられていた手が離れる。囲んでいた温もりがなくなり、頬が冷えていくのがわかる。まるで、彼女と俺の心が、関係が、冷えていくようだ。彼女に頷かせたくないと思うくせに、きっと彼女がいいと言えば、むさぼってしまうのだろう。だったらその前に、この場を離れたほうがいいのかもしれない。のに、なのに、足は動かない。なんて、なんて愚かなんだろうか。

彼と壁の間をすり抜け、彼女は出て行くものだと思った。そうであれば良いと思った。しかし、彼女は玄関とは反対の部屋に俺を手を引いて導き、俺をベッドに腰掛けさせると、何かを探すようにたんすの引き出しを開けた。そこから取り出したものは、きれいな彼女の手にはアンバランスな、派手なパッケージだった。

彼女は俺の前にひざまづき、おずおずとそれを俺に差し出した。その頬は、まるで羞恥に耐えているように赤い。彼女に手に持つものと、彼女の顔、何往復も見合わせて、彼は先ほどまでのネガティブな考えが霧のように消えていくのを感じた。どうしよう、耐えられない。ああ、もう、たまらないよ。彼は、本能に従うことにした。

お腹を抱え、それはそれは大きな声で笑ったのである。

彼女は驚いていた。さっきから彼が何を考えているのかわからず、困惑するばかりだったが。これは、これはわかる。確実にバカにされている。怒りと羞恥で顔がどんどん熱くなるのがわかる。頑張ったのに、頑張ったと思うのに。ひどい、なんてやつだ。これが、これこそが本当の罰かもしれない。唇を噛み締め、目を細めると先ほどのキスのせいで生理的にたまった涙が頬に伝うのを感じた。それを見て折原臨也は慌てて笑いを引っ込めて、彼女の頭を撫でた。

「まさか君が、こんなものを用意しているなんて、予想外にもほどがあったからさ」

そんな言い訳をしながら、彼は彼女の手にあるそれを取り上げてみせた。それは、男性が装着するタイプのコンドームであった。これは、彼女と出会ってから一番の想定外だ。経験もない女の子がこれを買うのは、どのくらいの勇気が必要だったのだろうか。きっとそんなことは臆面にも出さず、ポーカーフェイスにレジを通したのだろうな。まるで使い慣れていますというように。その姿を想像して、彼はまた笑いがこみ上げてくるのを噛み締めることになった。ああ、どこで買ったのだろう。その店には監視カメラがついているだろうか。その映像が残っていたら、買収して画質を鮮明にしてありとあらゆる記録媒体に移して、一生の宝物にするのに。

「男性が、必ず用意してくれると、思うなって、ネットに…」

もうだめだった。彼は我慢の限界だったのだ。笑いがあとからあとからこみ上げて、抑え切れない。ベッドの上で笑い転げる彼に、彼女はとうとう仮面を被りなおしてしまった。それだけ余裕が出てきたということだろうか。それに幾分安心しながらも、それでも笑いを止めることができなかった。ああ、ああ、可愛い、好きだ。なんて『人間』だろう。俺の愛する、人間なのだろう。彼女以上に楽しい観察対象もいないだろう。いや、これは彼女に恋慕を抱いているからそう思うんだろうか。なんでもいい、彼女を見ているだけでこんなにも心が満ち足りるのだ。

ふてくされ、もう知るかと踵を返した彼女の腕を強引に引っ張り、ベッドに押し倒すと、彼は彼女をはがいじめるように抱きしめた。

「いやあ、実に面白いものを見せてくれた。これだけで、君のしたことは全部チャラにしてあげたくなるくらいだ」
「喜んでいただけて幸いです」

棘が普段の二割増しってとこだろうか。彼女のあごを持ち上げ、もう一度唇を重ねた。先ほどと同じく身をゆだねると考えていた彼は、その後の彼女の行動に度肝を抜かれることになる。彼女は自らの口内に進入してきた彼の舌を噛んだのだ。それも、思い切り。

「チャラになったのなら、これ以上されるがままになる必要はありません」

彼の鳩尾に見事な肘鉄を食らわせると、彼女は少し怒ったようにベッドを離れてしまった。悶え苦しむ彼を尻目に、彼女は自らも自然と笑みがこぼれているのに気付いた。ああ、嬉しいんだ。楽しいんだ、私は。彼がこうして、以前のように、いや、以前とは少し形が違うかもしれないが、笑みを向けてくれるのが。仮面を被るのも忘れ、笑みを隠し切れない表情のまま、彼女は彼にひとつキスを落とした。

「本当にこれで、チャラですよ」

その言葉が彼には、『振り』のように思えたのだ。









エピロロローグ // 120405